Black & Hi milk Chocolate
朝夜
Black Chocolate
今も、苦い。
「あ、今度映画になるんだって。ほら、あの作家の小説」
甘い女が言った。
「ねえ、観に行こうよ」
女の誘いに、俺はああ。と頷いた。
この甘い女といると、苦い彼女を思い出す。
あの作家は、彼女だ。
今度映画になるらしいその作品は、俺と別れた後に彼女が書いた。
彼女は、苦い。
♢♢♢
「まともってなんだと思う」
彼女はよく「まとも」という語を使った。
「私達のような作家に、まともな奴はいないだろうな。まともな奴に何かをつくる事は出来ない。そもそもしない」
俺には苦い煙草を吹かして、苦い彼女は言う。
「それはまともなのか?」
分かるようで分からない。
「君もまともじゃないだけだろう」
彼女はどうでもよさそうに、ふうと煙を吐いた。
「私達にとって何も生み出せないのは異常だ。君もそうだろう?でもそれはまともな奴にとって普通だ。それを苦痛にも思わない。私達は異常者だよ」
「俺はもう何もつくってない。多分まともだ」
「そうかもな。君は甘いよ。こんな事を考えているのは多分私くらいだろう。理解されない」
いつも彼女の言葉は苦い。
「異常者の作品をまともな奴が受け取る。まともな職についた人は、異常をどう受け取るんだろうな」
その横顔は、いつもより少し苦くも、少し甘くも見えた。
♢♢♢
「もう映画は撮らないの?」
不意に、甘い女が言った。
「もう撮るつもりはない」
女が淹れてくれたカフェラテを飲みながら答える。
「なんかもったいないな。ねえ、折角ならさ、わたしをモデルにしてもいいよ!」
「映りたいのか?」
「あ、意外とか思ってる?これでもわたし、俳優になりたかった時期あるの。本気でオーディションとか受けてさ。落ちたけど。二次で」
「へぇ」
「やっぱり意外に思ってるでしょ。……でもわたし、あなたの映画好きだけどな」
女はその話はそれぎりにした。
映画は、もう二度と撮るつもりはないと思っていた。甘い女のせいで、少し揺らいだ。
俺も結局まだ異常者だ。女もそうかもしれない。
苦い彼女に思う。世の中には、多分まともな人間なんて一人もいない。
みんなまともなふりをして生きているだけだ。
♢♢♢
「予定が埋まるのが好きだ」
その日もやっぱり彼女は、煙草を吹かしていたと思う。
「真っ白は嫌いなんだ。白紙があったら、文字で全て埋め尽くしたい」
彼女の部屋は、常に物でぎっしり埋め尽くされていた。
「何もない所に突然予定が入ると嬉しい。余白がひとつ埋まるからだ。同じように、私の頭も常に文字で埋まっている。そうでなければ嫌だ」
彼女はふと、隣に座る俺を見上げた。
こうして、視線がまともに合うのはあまりない。
彼女が小さいから、いつも俺は横顔の彼女を見下ろしている。
「君は違うだろうな」
「俺の頭には、映像があったと思う」
「今はどうだ?」
興味を持ったように彼女が聞く。
「……今は、分からない」
彼女は俺から視線をずらした。
「無くすのは恐怖なんだろうか。少し違う気がするな」
彼女が呟く。煙草を吸う。
「無くすのは、初めに恐怖、次に焦り、哀愁、最後に安堵」
「……へぇ。覚えておこう。次に書くものに多分役立つ」
「次は何を書くんだ?」
「そうだな、次は……。まあ、半年後くらいに」
書いてみるよ、と彼女は言った。
♢♢♢
「その作家、好きなの?」
女が聞いた。まだ会ったばかりの頃に。
俺は彼女の本を持っていた。女が、その本を指さした。
「ああ、まあ」
「わたしもその作家が好きなの。でも、周りにあまり知ってる人がいなくて……」
「まあ確かに、そんなに有名じゃないから」
そう言うと、女は勢いよく頷いた。
「そうなの!でもわたしは好きだから、知っている人と話がしたくて」
「なんで、この作家が好きなの?」
「なんで?難しいな……。ああ、この人の、飾らない文章とかが好きかも。なんか、刺さるっていうか……」
その時、甘い女だと思った。
俺が甘い男だとすると、似ていると感じたから。
女も俺も、カフェラテを飲んでいた。
女が刺さると言ったのは俺も同じだった。
苦い彼女は俺に刺さった。
♢♢♢
「葬式って、馬鹿だと思わないか」
「別に、思わない」
「君は、というか殆どの人はそうだろうな」
「どうして?」
「死んだらどうなると思う」
その日の彼女は問が多かった。
「さあ。天国とか地獄とか?」
「信じてないだろ。君」
面白そうに彼女は笑った。
「死んだらただの無だよ。天国も地獄も、ましてあの世もない。生まれ変わりもない。死んだらそこで終わり。無になるだけ」
彼女はブラックコーヒーを一口飲んだ。
俺はカフェラテを飲む。
「あの世もないし、祟りもないなら経を唱えるなんて無駄だ。故人を偲ぶだけなら面倒なしきたりが無くても良い。何も起こさない無に対して経を唱えるのは、それこそ、馬の耳に念仏のような気がする」
「そういうものか?」
「私にとってはな。経は多分、生きてる者の為なんだろう。死んだ者の為ではないさ。私が死んだら、葬式はなくて良い。遺書にでも書いておこうか」
本当に遺書があるのかどうかは知らなかった。ただ、彼女の声のトーンから、冗談だろうなと思った。
「私は、自分の大切な人が死んでも、その人の葬式で馬鹿だと思うような人間だ。ショックを受けるばかりで、経なんて意味も無いと思えてくる」
彼女はそれぎり喋らなかった。
煙草を取り出して、吹かした。
また横顔を見ていた。
♢♢♢
「映画を撮れるの?すごい!」
「昔、ちょっと撮ってただけだ。今はやめた」
「えー、すごいな。わたし、映画好きなの。……観てみたいかも」
女は興味津々という体をしていたが、少し遠慮気味に観てみたいと言った。
女はやめた理由を聞かなかった。甘い女だと思った。
俺が映画を撮っていたのは主に大学生の時だ。高校の時にも、映像は独学で少し作っていた。
それから、映画監督になって一作品だけ撮った。俺の作品は、ほぼそれだけと言って良かった。俺が撮るのをやめた理由は、これだ。そういえば、彼女にはその話をしたなと思った。女にはしない。
女に映画を見せた。
女は褒めた。
「良いな。わたしは好きだけどな。あなたの映画」
甘い女は、苦い彼女と同じ事を言った。
♢♢♢
半年経っても、彼女は次の作品を書かなかった。
「何か、読んでいて精神に異常をきたすような作品が書きたいんだ。ドグラ・マグラみたいな。あそこまでのものは書けなくとも、病んでしまうようなものが書きたい」
彼女は最近になく生き生きとしているように見えた。
「君の映画は、良かったな」
「どれが」
「大学時代の。ひとつ暗いのがあっただろう」
「……ああ」
彼女には、大学時代に撮ったものも全て見せた。彼女は全てに良いと言った。俺が没とした映像にまでも。
「主人公は底抜けに明るいが、明るいからこそ暗い違和感が目立つ。周りの人間が皆暗いのも、主人公の明るさが目立って良かった」
「落ちが気に入らなかった」
「そうだな。あれは落ちをつけにくい。でもあれで良かった気もする」
「俺は未だに気に入ってない。撮り直す気もない」
「私が書こうか」
「……いや、いい」
「そうか。冗談だ。君に撮れないものを私が書ける筈もない」
彼女なら書けるだろうと俺は思った。
ただ、書いて欲しくはなかった。撮り直す気もない癖に。
ここ最近の彼女は少し変だった。
「何か飲もうか。君はカフェラテだろう?」
彼女が立ち上がる。キッチンで湯を沸かしながら、彼女はぽつりと呟いた。
「君はやっぱり甘いな」
♢♢♢
彼女が次の作品を出したのは、別れてすぐだった。
俺はその本を買って読んだ。
女と話をしたきっかけは、その本だった。
人を殺す事でしか生きてこなかった青年が、突然崩壊した世界に取り残される話だった。
青年は、誰かを殺さないと生きられないと思い込んでいる。自分と同じ、僅かな生き残りを探しては、殺していく。生き残った人達は、青年に少しの話をする。やがて世界には青年しかいなくなった。青年は恐怖し、焦る。次に発狂し、今まで流した事もない涙を流す。青年は混濁する意識の中で、殺した生き残り達の話を思い出す。青年は考え始める。ごく普遍的な問を。人間とは。生きるとは。死とは。殺すとは。他人とは。自分とは。青年はやがて奇妙な安堵に包まれた。青年はそこで初めて世界を眺めた。
付き合い始めてから、女が言った。
「あんまりわたしのこと好きじゃないでしょ」
女は笑う。
「でも良いよ。あなたのことだし。どうせ、本当に好きな人相手にもそうやって冷たかったんでしょ。だから振られるんだよ」
女は何がおかしいのか、笑っている。
「前の人のことは知らないけどさ、わたしはそれでも良いよ。そのうち、わたしにも……」
言いかけて、女はやめた。
この女は、彼女を思い出させる。それは女も分かっているようだった。
女は、それぎりこの話はしなかった。
♢♢♢
「君は甘いな。チョコレートはミルク、コーヒーはカフェラテだ」
「君は苦い。チョコレートはビター、コーヒーはブラック」
「あまり嬉しくないな」
「お互いさまだろ」
この日も俺はカフェラテ、彼女はブラックコーヒーを飲んでいた。
「たまに嫉妬する。同年代の作家とかに。嫉妬しない人間なんていないだろうな。君も嫉妬してるだろう。私に」
「……ああ。たまに」
「だから君は甘いよ。未練があるのに、見ないふりをするのは。いや、本当は気付いている。それでも放って置いてる」
彼女が何を言いたいのか分からなかった。この日の彼女の空気は、少し甘い。
部屋が甘いからだろうか。
「君に会ってから、私は少し甘くなった。でも私は、甘くなっては駄目だ。これ以上君といると、もっと甘くなるんだろうな」
「……それで?」
大体、彼女が何を話そうとしているのか、分かった。最近のやり取りからも、そんな予感がしていた。
「私に言わすのか。君は本当に甘いな。別れて欲しい。お互いすぐ連絡先も消そう」
「……ごめん。分かった」
俺はすぐ出て行こうとした。これ以上苦い彼女を見たくなくて。見たら、動けなくなる。立ち上がった俺を、彼女の声が止めた。
「なあ。君との間に子供が出来た」
「……は?」
突拍子もない言葉に振り返る。
何を言われたのか、一瞬、分からなかった。
「嘘だ。今はいない。でも一度、本当に出来た。すぐ自然に流れたけれど。そのせいで、暫く何も書けなくなった。私には恋人も、子供もつくれないよ。何も書けなくなる。なあ、何も生み出せなくなるのは、怖いな。無くすのは、怖いな。私は安堵まで出来ないよ」
「煙草を、半年前くらいから吸ってなかったのは」
「ああ、医者にやめろと言われて。でももう、吸って良いのか」
「なんで、何も言わなかった」
愕然とした。机の灰皿は、半年前くらいから、ただのオブジェになっていた。空のまま、綺麗なまま、そこにある。
「言おうか迷っている内に流れた。どのみち君とは、上手くいかなくなる事は分かっていた。君とは付き合うのは良いが、それまでだ」
「……俺は、本当に甘い」
「君はもう一度だけでも映画を撮った方が良い。私が観れないのは残念だな」
彼女は俺の方を見ずに言った。だから、何のつもりでそう言ったのか分からない。
俺がもう撮れないのを分かっているのに。
「気が向いたら」
彼女の為に俺は答えた。彼女の為に初めて嘘を吐いた。一割くらいは、撮っても良いかと考えた。彼女の為に。
「さよならだな」
コーヒーを飲み干して彼女は言った。
このコーヒーは俺が淹れた。初めて彼女が俺にせがんだ。思えばこれが、彼女の最初で最後の我儘だった。
「ありがとう。さよなら」
彼女は、苦い。
♢♢♢
俺は、甘い。
彼女は、あの作品を出した後、すぐに次の作品を出した。
描くのをやめた画家の話らしかった。
咄嗟に俺を書いた話だと思った。俺はその話を読まなかった。
甘い女に感想だけ聞いた。
面白かったけど、ファンの間で評価は分かれそう。とだけ女は言った。
女に連れられて、あの作品の映画を観た。
有名監督なだけあって、作品はクオリティが高かった。
映画を観てから、俺は大学時代の機材を引っ張り出してきた。何年もずっと映画を観ていなかったからか、あの頃の新鮮な気持ちが蘇ってきた。あの頃より、今は、少し苦い。
今度、女を主演にしてちょっとした映像を撮るつもりだ。彼女の事を映像にしてみたくなった。
俺は甘いなとつくづく思う。
彼女との思い出は、今も苦い。
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