「元禄吉良鏡」むつみのレポート その二

【刃傷の理由について】

 浅野内匠頭が刃傷に及んだ理由については様々な推理、憶測が生まれているが、中にはすでに理由から排除されているものも多数あり、また浅野内匠頭の言動から推察されるのは、刃傷からそう遠くない時期に何らかの禍根があったという見方が定説となっている。

 そのため、信憑性の高いものといえば、やはり勅使饗応接待役に関する何らかの両者のすれ違い、捉え違いということになると思うが、ここに出てくるのが「忠臣蔵」でもなじみ深い吉良上野介から賄賂の要求と、それに応じなかった浅野内匠頭に対する嫌がらせ、というものだろう。

 これらについて考察してみたい。


●賄賂の要求について

 吉良上野介から浅野家への明確な賄賂の要求はなかっただろう。そもそも、浅野家が直視饗応接待役を仰せつかった二月月初から月末近くまで、吉良上野介は京都にいたため、二人が会うこともなかった。だが、当時は賄賂とほぼ同義の贈答行為がまかり通り、慣例化していた事実があり、当然指南役の立場の者には相当の額に上る金品が渡されていたことが記録にも残されている。


 なお、勅使饗応役を拝命した浅野家、伊達家から吉良家への贈答品は以下とされる。

・浅野家より 大判一枚・巻絹一台・鰹節一連

・伊達家より 大判百枚・加賀絹数巻・狩野探幽の竜虎の双幅


 一般に流通する小判と違い、大判はまさに儀礼、贈答用のもので単純計算で小判の十倍の価値となり、当時の小判が平均値で十二万円とすれば、百二十万円の価値となる。

 とすると、伊達家の大判百枚は一億二千万円となり、現代の常識からみてもかなり法外な金額と見えるが、江戸時代は米相場によって金銭価値がかなり変化し、また実際に米の価格で現代の通貨に換算すると、三分の一くらいの額に落ちてしまったりもするので、一気に三~四千万円ほどにも下がってしまう。

 贈答品の相場もおそらく時代によって変化したとみられるので、物価高となっていた元禄十四年にこの金額というのは、伊達家にとっては致し方なしという金額だったのかもしれない。

 逆に、浅野家が渡した大判一枚は、三~四十万とも考えられ、伊達家が法外というより、百分の一の物しか渡さなかった浅野家の贈答品が、かなり貧相なものに見えたということは否めない。


 なお、それまでの儀礼的な挨拶にはこの大判一枚というのが一般的なものだったとの記録もある。しかし当時こういった「付け届け」が幕府内でも横行していたのは事実で、とすると、浅野家はそういった「賄賂」が当たり前の世の中で、全くの挨拶、手土産程度の心づけだったということになる。


●吉良上野介の心理はどうであったか

 さて、我々から見れば法外とも言える額の付け届けを行った伊達家に対し、形式的な挨拶程度しか渡さなかった浅野家。吉良上野介はどう思っただろう。

 当然、浅野家に関しては不快というよりまず不可解に思ったことだろう。贓品が当たり前の時代に、なぜこのような粗末なものしか持参してこないのか。内匠頭のみならず赤穂藩浅野家という大名に対して、何を考えているか戸惑ったことと思う。

 当時の吉良家はすでに没落直前で、長男が養子となった上杉家から様々な援助を受けやっと生計が立てられていた状態であった。つまり吉良家にしてみれば知行、俸禄以外の収入がなければたちまちお家が潰れてしまうわけで、高家肝煎としての贓品は、吉良家の死活問題にも直結する重要な収入源だったと考えられる。

 ところが、すべからくそれらをわきまえているはずの当時の武家社会で、公然と手土産程度の挨拶品しか持参しなかった浅野家について、吉良上野介は驚いたと同時に、自分の価値を低く見られた、言い換えれば浅野家から大いに見くびられたという思いだったのではないだろうか。

 武士の面目を先につぶされたのは、吉良上野介の側だったかもしれない。


●吉良上野介からの仕打ちはあったのか?

 浅野家の贈答品の内容は、内匠頭自身が臣下に申しつけたと言われているが、伊達家の金額はともかく、明らかに「付け届け」とはみなされない程度の内容に、浅野家の家臣は疑念を持たなかったのだろうか。そして、もし内匠頭に対して上野介から何らかの仕打ちがあったとしたら、その時点からでも改めて「付け届け」を追加する、といった補填はできなかったのだろうか。


 そう考えると、浅野内匠頭刃傷については浅野家家臣も寝耳に水で、主君が指南役に対してそこまでの恨みを持っていたことをまるで知らなかった可能性が出てくる。

 吉良家討ち入りを望んだ急進派の堀部安兵衛や前原伊助たちにしても、その理由は、主君である浅野内匠頭が一命を賭して討ち果たそうとした吉良上野介が存命しているため、その主君の無念を晴らす、というのが大義名分となっており、上野介が内匠頭または赤穂藩に対して、どんな実害を及ぼしたのかは明確ではない。


 とはいえ、浅野内匠頭が全く自身のみの事由で刃傷に及んだとも思えず、その後の言動から見ても上野介に対して恨みを持っていたことは明白で、とすればやはり両者の間には何らかのトラブルの種があったことは事実と思われる。


「上野介事此間中意趣有之候故」

 周囲に押しとどめられた内匠頭が叫んでいた言葉とされる。

「上野介に対しては、この間から、恨むことがありますので」

 と読めるが、「此間中」とは何を指すか。一つのことというより、一定の期間の間にさまざまに恨みが募ったと見える。


 であれば、やはり直視饗応接待における何らかの両者の掛け違い、あるいは上野介から内匠頭に対して何かが行われたということになるが、家臣ですらそれが明確に分からないというのであれば、浅野家や赤穂藩自体に対するものではなく、内匠頭の個人的な恨みであり、やはり彼が根に持つほどの何らかの摩擦が生じていたと思われる。

 武士にとってはなにより面目が第一で、恥をかかされることを極度に嫌がる。同様の刃傷事件にしても、きっかけは些細な口喧嘩や嫌がらせからの場合も多く、ある種、常に刃物を携帯し、それを使うことも辞さない世界の人間は、ちょっとしたことでも戦いを仕掛ける引き金となってしまう。

 堀部弥兵衛の覚書には内匠頭が上野介から「悪口を言われた」との記述があり、本人が目撃していないのだからもちろん伝聞だが、浪士は主君の行為の発端をそう思っていたとの証拠にはなる。

 だが、面目をつぶされたその場で逆上したというならともかく、ずっと心に溜めていた怒りが儀礼の最終日になって突然爆発するというのも不可解な話で、しかも臣下に対してすらその理由が明かされなかったということに、浅野内匠頭の人となり、性格と、臣下との関係性についても、いささかの疑問を感じる。


 なお「忠臣蔵」で一つの見せ場となる「増上寺の畳替え」については噂の類を出ず、史実として確認が取れない。また内匠頭と浅野家が上野介から嫌がらせを受け、大変な迷惑をこうむったという記録自体がない。勅使饗応に関して手抜かりがあれば浅野内匠頭は面目をつぶされることになるが、指南役の上野介についても責任問題となるため、接待にまで影響を及ぼすような嫌がらせがあったとは考えにくい。

 また、それまでにも吉良上野介が賄賂をむさぼり、額の少ない者には様々な嫌がらせを繰り返していたという文献がいくつか遺っているが、そのうちの多数が伝聞で、その他の内容にも事実と異なる記述も多く、後年「忠臣蔵」などの影響も含めて創作されたものも多いと言って良いだろう。


●摩擦の原因とは何か

 浅野内匠頭が勅使饗応を拝命した元禄一四年二月四日には、指南役の吉良上野介は京都に居り、二月二十九日になって江戸へと戻った。この間、浅野家では以前の饗応役時の記録や、過去の文献などをもとに接待の内容を準備しており、それを後になって知らされた上野介が、いろいろと注文を付けた可能性はある。

 当初の浅野家の計画、試算等より大幅な変更を余儀なくされた内匠頭が、吉良を疎んじた可能性は考えられる。また吉良にしてみれば指南役としてなにがしかのアドバイスめいたものを与えなければ自分の役目が果たせないわけで、浅野内匠頭への進言の内に、贈答品の件もあってつい年上の指南役として嫌味な言葉が出たとも考えられ、それを内匠頭が不快と感じて溜め込んでいたということはあるだろう。

 だが、その場では我慢もできていたことがらが、なぜ最終日の十四日、松の廊下という場所で爆発してしまったのかは、やはり不明である。

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