「元禄吉良鏡」むつみのレポート その一

 赤穂事件の発端となった浅野内匠頭による刃傷事件には、周知の事実としていくつもの謎がある。最も大きなものは、内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ理由であるが、「忠臣蔵」をはじめとした従来のフィクションでは脚色されているこの事件から確認していきたい。


【松の廊下での刃傷事件について】

 ドラマにおいては、指南役である吉良上野介に対して賄賂を贈らなかった浅野内匠頭が、上野介から度重なる嫌がらせを受け、ついに元禄十四年三月十四日、江戸城本丸大廊下、いわゆる松の廊下で武士として聞き捨てならないほどの言葉を浴びせられ、思わず懐剣を抜いて斬りかかった、という筋立てになっているが、記録として残されているものによると、状況はかなり異なっている。


 刀を抜いた浅野内匠頭を羽交い絞めにして押しとどめ、「殿中でござる」のセリフを日本全国に広めた梶川与惣兵衛頼照。彼が記した「梶川日記」によれば、当日の状況は以下である。


●刃傷の状況

 三月十四日、梶川は吉良上野介、浅野内匠頭と個別に会話をしているが、当人の二人は言葉を交わしていない。少なくとも、フィクションの物語のように、刃傷の直前に浅野内匠頭が激昂するようないきさつがあったとの記録はない。

 また、梶川がその日の段取りについて浅野内匠頭に確認したところ「心得候」と返答を受けたとあるので、浅野内匠頭はいつも通りの様子に見えていたことになる。


 さて、吉良上野介と梶川がその日の式典の打ち合わせに松の廊下の中ほどで立ち話をしていると、上野介の背後に誰かが近づいてきた。上野介は気づかず、梶川も誰が来たのかまでは分からなかった。ところがその人物が突然何らかの声、あるいは「この間の遺恨、覚えたるか」とも聞こえた声をかけ、上野介が振り返ると同時に、手にした懐剣で斬りかかった。何事かと驚いて見れば、浅野内匠頭だったという。

 上野介は烏帽子の上から頭を斬られ、逃げ出したところ、浅野内匠頭が背後から二度目、三度目の太刀を浴びせ、そこで梶川や付近にいた武士、茶坊主など大勢が押しとどめ、浅野内匠頭の上野介襲撃は失敗に終わった。


【当日の疑問点】

 浅野内匠頭の言動には、不可思議な部分が非常に多い。それが現代もなお謎とされているこの事件の核の部分につながる。


●刀の使い方

 まず不思議に思われることに、浅野内匠頭の刀の使い方がある。

 彼が持っていた刀は、江戸城内であるから侍の持つ大刀、小刀ではなく、「小さ刀」とも呼ぶ儀礼用の短刀であり、刃の長さはせいぜい二十数センチ。これで相手を確実に殺害するには、斬りつけるのではなく、突く、刺すということをしなければならない。現にこのような短刀による刃傷事件で相手を殺害している事例では、ことごとく刺し殺している。


 浅野内匠頭は吉良上野介に気づかれることなく背後に肉薄していたのだから、あとは刺せばよいだけだった。仮に、背後から襲うことを卑怯と思い、声をかけて振り向かせたとしても、ここで上野介の身体にこの短刀を突き立てていれば、かなりの確率で命を奪えたはずである。


 ところが、浅野内匠頭は振り向いた上野介に対し、この刀を頭に振り下ろした。顔面に斬りつけたのならまだしも、烏帽子をかぶっている頭に斬りつけたから、刃は金具に当たって止まり、致命傷は与えられなかった。

 大名殿様であろうと、浅野内匠頭が刀の使い方を知らないとも思えない。となると、彼は、あえて上野介の頭に刀を振り下ろしたこととなり、これには確実に仕留めるというより、上野介を罰せねばならないという感情が先走ったように感じられる。

 言い換えるならば、その時点での内匠頭の心中は、冷静に上野介を殺害するというよりも、天誅を下すかのような激しい怒りがあったと見え、それは取り押さえられた後も「討たせてほしい」と繰り返し叫んでいたということからも伺える。


 それにしても、理解に苦しむちぐはぐな行動ではある。

 ドラマのような直前のトラブルがなく、浅野内匠頭の言葉を信ずるのであれば、前々から恨みが募っていた、となる。それが三月十四日に突然爆発し、梶川と会話中の吉良上野介の背後まで相手に気づかれることなく肉薄。にもかかわらず、声を挙げて相手を振り向かせ、本来刺すべきところを烏帽子をかぶっている頭に斬りつけたため、金具で防がれて浅手しか負わせられなかった。


●刃傷の場所と時

 現場となった松の廊下は、「松之大廊下」と呼ばれ、江戸城本丸内では重要な部屋につながる場所であったため、人も大勢いた。こんな中で突然刀を抜き相手に斬りつければ、周囲の人間が押しとどめるのは明らかで、事実、内匠頭は寄ってたかって取り抑えられ、その場で上野介を討ち果たすことは叶わなかった。

 でありながら、押さえつけられてなお「恨みがあるから果たさせてほしい」と叫び続けるというのは、かなり脈絡のない話で、本人は乱心ではないと言い張ったが、心理状態はかなり乱れていたとも思える。


 直前のトラブルがなかったとすれば、浅野内匠頭の行動は計画的な吉良上野介の暗殺であり、それは後に家臣に残した言葉からも推察できるが、それならなぜこの場所、この時であったのか。


 この日は儀礼の最終日で、将軍徳川綱吉が勅使に対して式典を締めくくるお言葉を送る予定だった。

 内匠頭は、梶川が当日の段取りを確認した折「心得候」と答えていながら、そのしばらく後でいきなり上野介への刃傷に及んでおり、しかも人通りの多い廊下で、相手のすぐそばには梶川がいたのであるから、場所と言い時と言い、計画的な暗殺に最適とは到底思えない。

 饗応役と指南役であればその後も会うことは可能であるし、二人きりになる機会はいくらでもあったと思われる。何より儀礼の最終日で、それならば、まずはお役目大事として、すべて滞りなく終わった後で上野介と会うなりすればよかったようなものだが、将軍綱吉が関わる式典の直前に事件を起こしたのだから、公儀や綱吉が激怒したのも無理からぬ話だろう。


●計画的な犯行なのか

 浅野内匠頭が、直前に面罵されたということではなく、それまでの怒り、恨みがふつふつと湧き上がってきたとしても、この日で饗応役の勤めも終わるとなれば、あとほんの少しの我慢はできなかったのだろうか。

 この日を過ぎれば嫌いな上野介との接点も減るだろう。また、内匠頭は事前の付け届けを注進した家臣に対し「儀礼が終われば、いくらでも吉良殿に礼をしよう」と言っており、せっかく最終日まで持ちこたえたのなら、饗応役が終わるまで我慢してその後にたっぷり礼をはずめば、上野介の機嫌も取れるはず。

 それを、最終日になっていきなりことに及び、しかもわざわざ大通りの真ん中で刀を抜いたために失敗に終わっており、以前より心に決めていたと本人が言う割には、見たところかなり短絡的な行動である。


 浅野内匠頭は、逆に今日を逃したら上野介に出会う機会も減り、時期を逸すると考えたのだろうか。そのためにあえて成功する確率の低い場所と時で刃傷に及ばざるを得なかったとすれば、やはり冷静な判断ができない心理状態だったのではないだろうか。

 浅野内匠頭には「赤穂義人録」を書いた室鳩巣からの人物評として「武骨で頑固者」との記録があり、また上野介の治療に当たった栗崎道有の記録では「気短なる人と聞いている」と書かれている。おそらく感情の起伏が激しい面もあったのだろう。心因性つまりストレスによる持病があったともされ、これらだけでは刃傷の理由とは到底ならないが、それまで我慢してこれたものが、突然何らかのきっかけでタガが外れ、激昂してしまった可能性が無かったとも言えないと思う。

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