十二月十四日 その三

 お侍が出て行ったあとも、私はしばらく放心状態だった。


 自分のしたことの意味が分かっているようで、でも実感がない。

 私が余計なことをしたために、赤穂浪士の討ち入りが決行される。それじゃ、もし私が何もしなければ、決死の覚悟で浪士と直談判しようなんて思わなければ、討ち入りは起こらなかったのか。

 そんな私を、治兵衛さんとおさきさんが、気の毒そうな目で見ている。


「もう陽も暮れる。そろそろ火をこすかい」

 そう言って立ち上がった治兵衛さんに、私はどんよりした目を向けた。

「……さっきの……あのお方は、もしや?」

 黙って私を見る二人。

 やっぱりそうなのか。あの物腰。あの眼付。


 涙があふれてきた。

 なんて莫迦なことを。何も知らない小娘が思いあがって、この時代のお侍と渡り合おうなんて、土台無理な話だったんだ。

 がっくりうな垂れて、後ろで縛られている手をギュッと握りしめたとき、帯の中の堅いものが当たった。


 松竹さんに借りた小柄こづか。指を伸ばすとに触れる。ごくりとつばを飲み込む。

 まだ、まだ間に合うかも。

 そうだ。討ち入りは明日の未明。今から引き返せば、きっと間に合う。


 小柄を縄にあてがって少しずつ動かす。二人の様子を窺いながら、すきを待つ。

 今だ!


 身をよじると縄が切れた。立ち上がって戸口に走る。


「あっ! 待ちねぇ!」

 伸ばした治兵衛さんの手をすり抜け、私は夜道へと飛び出した。


 裾を手でたくし上げ、両脚を丸出しにして駆ける。この時代の女にはできないけれど、令和の女子高生はこのくらいへっちゃらだ。


 追ってくる二人の叫び声が、だんだんと遠くなる。


 でも、私もそのうち方向感覚を失った。

 景色を頼りに、もと来た道を引き返そうと思ったが、陽も暮れて辺りは鈍い白一色。身体がだんだんと冷えてくる。手足の感覚が鈍り始めた。

 溶けかかった雪に滑って豪快に転ぶ。


 起き上がろうとしたけれど、体力、ううん、それ以上にもう気力が続かなくなっていた。

 へへ。いくらなんでも、ちょっと無謀すぎたかな。

 ここがどこかも知らない。どう行けば本所に戻れるかも分からない。

 自分がしてしまったことへのショックが大きすぎて、自暴自棄になっていたのかも。

 でも、もしかしたらこれが私の運命なのかな。元禄時代の吉良家にお世話になって、皆さんと仲良くなって、そして、自分のせいで赤穂浪士の討ち入りが現実になる。

 そんな経験をして、忠臣蔵の吉良家の家臣と同じように雪の中に突っ伏して、冷たくなって。


 涙で顔をぐしゃぐしゃにして、そんなことを思いながら、だんだんと瞼が閉じられて、そして意識が薄れていった。


 ――赤穂浪士。忠臣蔵だな。

 そう言って父が笑う。


 ――何者じゃ。おぬし?

 驚く笠原さんと権十郎さん。


 ――これが天から落ちてきた女子おなごであるか?

 私を見つめる上野介様。


 ――御身おみの周りのお世話を仰せつけられました。

 松竹さんがお辞儀をする。


 ――家中かちゅうともどもの心合こころあわせにてございまする。

 と、左右田様と新貝様。


 ――これしき、台所方では茶飯事にござる。

 まじめで勤労な小堀さん。


 ――よいよい……しばしこうしておれ。身の願いだ。

 私と一緒に、足湯に浸かる左兵衛様の横顔。


 ――おのおの方。いざ、討ち入りでござる。

 

 大石内蔵助の声が響く。私はハッと目を覚ました。


 起き上がろうとして、見回すとどこかの農家。でも囚われていた家とは違う。薄い布団に寝かせられ、囲炉裏には火が熾きて暖かい。ぶるっと体を震わせると、火の傍ににじり寄って温まった。

 ここは何処だろう。そう思っていたら、奥から見つめる人影に気づいた。おさきさんと治兵衛さんだ。思わず後ずさる。


「……安心おしな。何もしやぁしないよ」

 そう言って、おさきさんが囲炉裏端に膝をつく。

「まったく……無茶すんじゃあないよ。すんでのところでほとけさんだったよ」

 そういう顔は、私を縛り上げたときとはもう違う。

「このおさきさんが、さっきまで人肌でぬくめて助けてくれなすったんだ。有難く思いなせぇな」

 治兵衛さんが諭すように言う。 

 気づくと、小袖も長襦袢も脱がされて、肌襦袢一枚に継ぎの当たったねんねこを着せられていた。着物は囲炉裏の傍に乾かされている。


 助けてくれた。おさきさんと治兵衛さんが。


 おさきさんが自在鉤にかかったお鍋からお湯を掬うと、お椀に注いで私に差し出してくる。

 半信半疑だったが、とにかく熱いお湯を飲んで、ホッと一息つく。


 私は最も大事なことを思い出して、二人に訊いた。

「今……何刻なんどきですか?」


 それには答えず、治兵衛さんが口を開く。

「勘違いしてほしかぁねぇんだ。あんたをどうにかする魂胆はないやね」

 その後を引き取るようにおさきさんが言った。

「あたしらぁねぇ、赤穂の浪人様に心を寄せたんさ。あんたが吉良のお家にしたのと同じこってすよ」


「……なぜ、討ち入りをさせたいんですか? そんなこと、誰も喜ばないのに」

 二人が、やれやれという表情で顔を見合わせる。

「そんなこたぁ、はなからわかってらぁ……」

 治兵衛さんがつぶやく。


「分かってるって……」

「吉良家が本所に来た時から、いつかこうなると思ってたんだ。そのうち五兵衛さんがやっつ来た。米屋だってぇが、商いもんから見ればおかしなとこは目に付くさ。しかも吉良の屋敷にご執心つくりゃぁ、ことんよると赤穂の侍かってね」

 おさきさんもうなずく。

「小豆屋の善兵衛さんも同じだ。二人でつるんでるってぇのが知れてから、わしらぁ心を決めて訊いつみた。そしたら、案の定さ」


「赤穂が善くて吉良が悪い、なんてぇことじゃないんだよ。ただね、あたしら、あん人たちの心に触れちまった。浅野様がお取りつぶしに遭ってから、あん人たちに何があったか知っちまった。そうなったからには、町内こぞって助けてやろうって決めたのさ」

 おさきさんが言う。


「どっちもってぇ訳にはいかないよ。そんなに甘かぁない。そんなら、ご政道の陰に追いやられちまったもんを助けるしかないじゃぁないかさ」

 そう言いながらも唇を噛むおさきさん。


 そうか。町内みんな仲間だったんだ。

 みんなが赤穂浪士の討ち入りを手助けしていたんだ。だから私のことなんてあっという間に知られてしまった。


「だからって、討ち入りをそのまま見過ごすんですか? 大勢が死ぬっていうのに」

 私は、ついに言った。

「私は、この先どうなるか知っています。吉良家はお取りつぶし。赤穂の浪士は武士のかがみと称えられるけれど、みんな切腹させられるんです! 誰一人、幸せになんかならないんですよ!」

 でも、おさきさんも治兵衛さんも、表情は変わらない。


「……あん人たちにゃぁ、もうこれしか残ってねぇんだよ」

 治兵衛さんの言葉を最後に、二人とも黙り込む。


「今、何刻なんどきですか?」

「もう……遅いよ」

「今、何刻ですか!」

 私が叫ぶ。

「ここは、どの辺りですか? 吉良のお屋敷にはどう行けばいいですか? 教えてください!」

「もうおっぱじまってるころだ。今さら行ったって間に合わねぇ! 下手すりゃぁ、おぇさんだって巻き添えんなる!」


「それでも、私は行きます!」


 私の言葉にとうとう二人が折れる。

 ここは向島らしい。前の一本道をまっすぐ進んでいけばやがて亀戸の天満宮。その先を右に折れれば天神橋に出る。昔、というか現代に生きていたころ一度行ったことがある。地図もなんとなく覚えている。天神橋から吉良屋敷までは、多分三、四キロ。雪道だし夜中だし、どのくらいかかるか分からないけれど、戻ると決めた。

 生乾きの着物をまとって帯を適当に結び、でも足はどうする。そう思って見回すと、壁に草鞋わらじがかかっていた。

 壁から外すと、不安げに見ている治兵衛さんに向き直る。

「履き方を、教えてください」


 草鞋履きで意気込み表へと出る私に、もう二人は何も言わなかった。


 そこから後は、とにかく走る。走る。

 月明かりに目を凝らしながら、道を外れないように走る。

 今は何刻なのか、治兵衛さんたちの言葉に、もう十五日の朝だとしても、何かが起こっていたとしても、とにかく急ぐ。

 雪の中で足袋はすぐに濡れてぐっしょり。足が痛くなった。息が苦しい。立ち止まって、帯を緩めて、また走る。


 やがて亀戸天満宮を超え、天神橋を渡り、やっとのことで本所へと入る。

 もうすぐお屋敷というとき、古い草鞋の紐がぶっつり切れた。積もっていた雪の中に突っ伏す。

 起き上がって四つん這いになって、肩で息をする。冬の深夜なのに汗みずく。乾いた空気に肺が痛い。

 立ち上がると草鞋を脱ぎ捨てる。ここまでくれば足袋裸足でも構わない。


 うっすらと明るくなってきたような気がする。そんな中、ついに見覚えのある表門が見えた。

 吉良屋敷へと続く通りの雪には、真新しい足跡が一面についている。


 一気に駆け出すと、よろけるようにしながら表門に手をかけた。私の力に、閉まっているはずの門が開く。

 お屋敷の中に駆け込む。


 そして、私はそこに立ち尽くした。

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