十二月十五日 その一

 辺りが、少しずつ明るくなってきていた。


 赤穂浪士たちの姿はない。

 そして、私の目の前にあるのは、書状の差しはさまれた一本の竹竿。


 身体の力が一気に抜け、そのままそこに座り込んだ。ハアハアと肩で息をしながら、虚ろな目で辺りを見回す。

 

 長屋の前に何人もの人が寝間着姿のまま横たわり呻いている。表に出た途端、浪士たちに槍で突かれ、弓で射られた人たちだった。

 長屋のそこかしこで、がたがたと音がする。かすがいで打ち付けられた板戸を、中の人たちが開けようとしている。やがてメリメリと木の裂ける音がして無理やり戸が破られた。その陰から、恐る恐る外を伺ういくつもの顔。

 浪士が引きあげたことを悟ったお侍さんたちが、寝間着姿のままわらわらと庭に降りてくる。


 倒れている人たちに次々と駆け寄り様子を調べる。

「おい、おい、しっかりせい!」

「息があるぞ!」

「板戸を持ってこい。内へと運べ!」

 そう言われても、呆然と立ったままの人、顔を引きつらせて震えている若い人や中間のおじさんたちもたくさんいた。


「なにをしとる。早うせい!」

「誰ぞ、湯を沸かせ! さらしと焼酎あらきざけじゃ!」

 叱られて、慌てて台所に走る人。それでも動くに動けない人。


 当たり前だ。

 お医者さんや救急隊員じゃないんだ。こんな大事件の現場で、昨日まで一緒にいた人がみんな血を流して倒れているところ、誰だって逃げ出したい。

 お侍だって、刀を持っていたって、みんな普通の人間なんだ。刀を持っているからこそ、それで斬られたらどうなるか、どんなに痛いか、どれほど苦しいか分かっている。


 ――それじゃ、私は?


 気持ちが戻ってきて、何とか立ち上がった。左兵衛様は、左兵衛様はどこにいるの。当主なんだから、ご家来も一番に探すはず。


 お屋敷に入ろうとして表玄関まで進むと、立ち尽くす中間の人たちがいた。みんなが玄関脇の地面を見下ろしている。そこに倒れている大きな身体。泥雪で汚れているけど見覚えのある顔。

 権十郎さんだった。もうピクリとも動かない。


 うな垂れる私の目に、その先の小玄関が映った。上がりがまちに、もう一つ小柄な身体が不自然な形でひっくり返っている。待って、あれは。

 坊主頭だ!

 思わず駆け上がると、うつぶせに倒れている華奢な身体を抱き起こす。

「松竹さん!」

 白い寝間着の何か所もが裂け、血で真っ赤に染まっていた。抱えた身体から、頭がぐたっと堕ちる。唇が開いて、つぅっと一筋の血がこぼれた。


 ――なんで。


 茶坊主さんじゃない。私より年下。まだ子どもじゃない。お侍じゃないじゃない。


 私はもう冷たくなった松竹さんを、ずっと抱きしめていた。


 お庭の方から、慌てた様子の声が聞こえてくる。

「息のある者は内へ運び入れ手当せい。落命らくめいせし者にはなんぞ掛けい。動かしてはならぬ。じきに検分役が参るであろう。それまでは……動かせぬ!」

 ご家老の齋藤様だ。最後の言葉は、喉の奥から無理やり絞り出すように苦しげだった。


 玄関はどこもかしこも泥まみれ。板戸は外れ、襖も破れ放題。お屋敷の中を、嵐が通って行ったようだ。玄関奥、広間の戸は開け放たれ、畳に飛び散る赤い色。その上に転がる、動かなくなった人たち。


 その時、表が騒がしくなった。大勢の人の気配がする。

「津軽様のご家中より、ご助勢にございます!」

 誰かが叫んでいる。手助けの人たちが来たんだ。

 その声で我に返る。亡骸は、役人の検分が終わるまで動かせない。


「ごめんね……松竹さん、ごめんね」


 私は、松竹さんを床に横たえると胸の上で両手を組ませた。後ろ髪をひかれつつ奥へと進む。あちこちで、怪我を負った人の介抱が始まっている。


「左兵衛様! 左兵衛様を存じ上げませんか⁉」

 声を挙げながら奥へと進む。途中でお侍の一人が、左兵衛様は御前様のご寝所の方で手当てを受けていると教えてくれた。


 お料理の間に差し掛かると、脇のお台所から声がした。

「……小堀源次郎、にて相違ないの」


 その声にハッとする。

 恐る恐る中を覗き込んだ。寝間着姿のお侍が、上役の方に返答している。お台所でご一緒していた岩田様だ。お二人が私に気づく。

「むつみ殿……ご無事にて?」

 震えながら頭を下げた拍子に、お台所の床が見えた。

 刀が転がり、羽織をかけられた身体から血に染まった片腕が覗いていた。手首に、見覚えのある赤いやけど。


 ――おなごは、身体を大事になさいませぬとな。


 あの日の小堀さんのお顔が浮かぶ。


「……お下がりなされ。女子おなごの見るものではない」

 お二人が私を遮る。やつれた顔。びんは乱れ、赤く腫れた目。岩田様もお怪我をしていた。

 私は戸口で手を合わせる。

 こんなことしかできない自分が情けなくて哀しくて、これが、すべて私のせいで起きたことで、しょせん十七歳の娘なぞあまりにも無力なことを思い知らされる。

 絶望感に思わず後ずさったとき、後ろからもささやくような声が聞こえた。


「この者は……長太か?」


 足が止まる。

 お料理の間をはさんで、お台所の反対側には書院があった。破れた襖の奥で、お侍いたちがかがみこんでいる。その向こうに、やっぱり誰かが倒れていた。頭が見える。

「かさはら……笠原、長太郎にございますな」

 押し殺したような声に、頭の中で私が答える。


 ――ちがう。違うよ。長太郎じゃない。長右衛門さんだよ。

 剣術は苦手な人なんだよ。でも書は上手くて、だから祐筆なんだよ。上野介様がお気に入りだった人なんだよ。刀が上手く使えなくても、ご隠居様やお殿様を護ろうと、必死で立ち向かっていったんだよ。

 その言葉も、もう長右衛門さんには届かない。


 ふらふらと先へ進んだ。

 どこもかしこも襖、障子、押し入れが開け放たれている。浪士たちが上野介様を探した後だ。中間の人たちがけが人の手当てとともに、少しずつ元通りにしようと働き始めている。畳や襖に付いた血をふき取り、踏み荒らされた屋敷内を片付けている。


 お屋敷の西側、ご隠居所へ向かう途中のお座敷に、人が集まっていた。命拾いした人たちが部屋の外にまでひざまずき、中に向かって平伏している。

 お屋敷中が大わらわで、あちこちで人声や物音が聞こえる中、その人たちだけはみんな無言で、誰一人動かない。ただお部屋の中心をじっと見ている。

 

 あれ? 脚ががくがくする。頭がくらくらする。


 みんなが黙って、中心にいる誰かを見ている。みんなが手を合わせている。泣いている。

 それじゃ、あの輪の中心にいるのは誰。忠臣蔵で討ち取られた人は誰。ご家中の人がそろって手を合わせる人は、誰?


 ――寒かったであろう。

 笑顔で手招きするご隠居様。


 ――あったまるの。

 火鉢に手をかざして笑うご隠居様。


 ――菓子は所望か?

 孫に接するような可愛らしいご隠居様。


 何が何だか分からない。


 義士って何? 主君の仇って何? 誰が善い人で、誰が悪い人なのか、誰が死ななくちゃならなかった人で、誰がそれを喜ぶべき人なのか。

 分からない。私には、もう何も分からない。


 頭が混乱していた。気分がものすごく悪かった。その場から動けずにいた私に、脇のお座敷から声がかかる。


「むつみか……」

 聞き覚えのある声に、ゆっくりと振り返る


「無事であったか!」

「さ……左兵衛様!」

 私は、涙をぼろぼろこぼしながら、倒れ込むようにしてやっと左兵衛様のいる座敷にたどり着いた。

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