十二月十四日 その二
「な、なにをするんですっ!」
叫ぶ私を、治兵衛さんが羽交い絞めにした。おさきさんが手に縄を持つと二人がかりで私を縛りあげる。
「いやっ、やめて!」
あっという間に後ろ手に縛られると、土間から引きあげられ、板の間の奥へと引っ張っていかれた。転がされた私を二人が見下ろしている。
薄明りにも、あの人の好さそうな顔つきではないことが分かる。
騙されたんだ! でも、どうして私を。
治兵衛さんが、灯し油に火を点けると持ってきた。隙間風に揺れる炎の中に二人が佇む。
「手荒な真似はしたかねぇんですよ。ただ、いくつか訊きてぇことがありやしてねぇ」
治兵衛さんが、口をへの字に曲げながら言う。
おさきさんが口を開いた。
「吉良の屋敷に天女が堕ちたってぇ噂になっていなさるが、すりゃお前様のこったかね?」
私の噂。
そうか。私のことはあの界隈では有名だったのか。今さらながらに自分の浅はかさに気づく。左兵衛様から直接紹介された家臣の方々はいざ知らず、使用人の人たちは、変な女が堕ちてきたと外に出るたびに吹聴したかもしれない。
うかつだった。吉良の屋敷に来たおかしな女が米屋五兵衛のことを訊いて回ったとなれば、町内の皆が不審に思ったことだろう。
でも、この相生町の人たちがなぜ私をこんな目に遭わせるの?
「お前様、いったい何をお探しになっていなさるんかねぇ?」
「私が……何を探してたっていうんです?」
おさきさんがずいっと前へ出てくる。
「おとぼけは利きゃぁしないんだ。五兵衛さんのことを聞いて歩いてたじゃないかい」
「あなた方は、米屋五兵衛さんのお味方ですか?」
黙りこんでいる二人に、意を決して言う。
「いえ、元赤穂藩、前原伊助さま」
二人に動揺が走る。
「私は、前原様と、いえ赤穂の方とお話がしたいだけです」
二人が、黙って私を見下ろしている。私をどうするか思案している。
もしかしたら、口封じをされるかも。
正直に言って、もの凄く怖かった。
時代劇でよくある、短刀でブスリっと一突き。それで私はお終い。忠臣蔵は美談だけど、実際の話はもっと泥臭いはず。邪魔になった女一人、殺して川にでも捨ててしまえば、この時代、誰が下手人かなんて分かりはしない。
でも、そう考えれば考えるほど、不思議と頭は冴えてくるのだった。
「吉良屋敷への討ち入りをお止めください。本日茶会の後、赤穂の方々が夜更けに討ち入られることは存じております」
二人同時に、ううとかぐうとかいう声を挙げた。ここまで知っていると伝えてしまった以上、こっちも命懸け。どうにかして説得しなければならない。
「吉良家のお味方というわけではありません。赤穂藩士様、吉良様、双方のためを思えばこその物言いです」
「すりゃ、どういうこった?」
治兵衛さんが声を挙げる。
その時だった。
奥の方でギシッという音がして、ゆらゆらと人影が現れた。
初めてそこに人がいたと分る。
その人はゆっくり近づいてくると、灯りが届くギリギリのところで歩みを止めた。お侍だ。でもいわゆる
さして大柄ではない。ただ、こちらを思わず黙らせるような、そんな、圧を感じた。
治兵衛さんとおさきさんが、戸惑いながらも会釈する。
その人が、私に向かって口を開いた。
「
若くはない。落ち着いた声だ。
私は、どう答えるべきか考えていた。嘘を言ったって、誰かが調べに行けばすぐにばれる。
「……そう申し上げましたら、いかがなさいますか?」
頭巾の中の目が、少し笑った気がした。
「お武家様も浅野家に
私は、自分で自分を落ち着かせるように言った。
「赤穂の皆さまのお心はお察し申し上げます。なれど、亡き内匠頭様の仇打ちというなら、なぜ吉良のお屋敷に攻め込むのです? 江戸表で
必死に訴える。だが相手は黙ったままだ。
「何のための討ち入りです? 無暗に吉良のご家中を殺めて、それで赤穂の浪士様の手に何が入るというのですか。戦なぞとなれば、それこそご公儀は捨て置かぬはず。責めを負うことは免れません」
三人とも、黙って私を見下ろしている。
「上野介様と内匠頭様の間にお心のはかり違いがあったとはいえ、すべてはご公儀の采配。内匠頭様のご無念は承知しておりますが、浅野様のお家再興を吉良家が阻んだわけではございません。喧嘩両成敗の御法に外れるというのであれば、それはご公儀へ訴えるべきことのはず。吉良家に戦いを挑むは、筋違いでございましょう」
私の迫力に、治兵衛さんとおさきさんが、たじろぐように顔を見合わせた。
「お武家様は面目第一。ですが、それで人としての
そこまで言って、でもなんだかおかしな気持ちになった。
この人、私の言葉が全く響かない。というより、私の言っていることなんてとっくの昔に気づいていて、それをすべて理解したうえで、それでも先に進む覚悟とでもいうのか、そんなものが全身に詰まっている気がする。
この人は、私がこんなことをいちいち言わなくても、すべて分かっている。そして、それが分かっていながらこの人はそれをやろうとしているのではないか。
「そなたの名は?」
「……むつみ、と申します」
お侍が、ふむと頷いた。
「されば、むつみとやら。そなたは、赤穂浪人の討ち入るを
冷静な声で、その人が訊いた。
「そ、それは……」
「何故、そこまで必死の如きに訴えおる?」
その問いに私が黙り込む。
「何故、
声もなくお侍を見つめる私。
なんだか妙だ。なんだろう、この違和感。何かが、ずれ始めた気がする。
「……この娘は、天から落っこちて来たってぇ噂ですよ。なんでもずいぶん風変わりな格好で、突拍子もなく屋敷に来たってぇこって」
おさきさんが言った。
「天女か……或いは、真かも知れぬ」
お侍が納得したようなそぶりを見せる。
「天女なれば、先々のことも知りおるかもしれぬの。元禄十五年十二月十四日。赤穂浪人が吉良家に討ち入るは、天に住まう者にはすでに決まりたることにて、それを止めに参ったか。されば、
その眼が、熱を帯びたように開かれる。
その言葉に愕然とする。
まさか、まさか私のこの行動で、赤穂の浪士は今日が討ち入りに絶好の機会だと確信したっていうの。
私は恐ろしくなってきた。自分がとんでもないことをしてしまったことを、今やっと理解した。
「ご隠居様は、吉良家には居りませんっ!」
嘘だと分かる言葉を思わず叫ぶ。でも誰にも届かない。
がらがらと戸板が開けられ、別の人が入って来た。みんなの顔が向く。この人、あの乾物屋のご主人だ。
奥のお侍にお辞儀をする。
「お駕籠が参りましてございます」
お侍が頷く。
「むつみとやら。そなたがいずれの者かは知らず。なれど、しばしこのままにて我慢いたせ。明日になればすべて整う」
「ま、待ってください!」
私の叫びもむなしく。お侍は毅然とした態度で、その農家から出て行ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます