十二月十四日 その一

 元禄十五年十二月十四日 

 江戸本所松坂町 高家旗本 吉良家 江戸屋敷


 朝から厳かに、そこはかとない緊張感を漂わせながら、その日の人々の暮らしは始まった。


 表門のみならず裏門の前も雪を除き、通り道を掃き清める。

 玄関、廊下、客人を迎え入れる書院、茶室、次の間から客人用の手洗いに至るまで念入りに掃除がされ、変わって、それらから見える範囲の庭には一切の手を付けず、誰一人出入りをせぬよう言いつけられた。

 茶人を呼ぶのに、まずは風流、侘び寂びを感じさせなければならない。必要以上に人の手を入れず、感じさせず、自然そのまま、乱れ汚れのみを取り除く。

 降り積もった雪化粧もまた、それらを好む方へのもてなし。


 お台所もまた、いつもとはちがったおもむきだった。

 茶会と言っても、もちろん茶をて飲んで終わり、ではない。言ってみれば吉良家隠居の吉良上野介が茶人仲間、知人を招いての忘年会。茶会が始まるまでのおもてなし、終わった後での会食と続く。

 お客様にお出しするお膳の料理は、にわか仕込みの私には無理。お台所役人の小堀さんたちが十分注意を払ってお支度をする。私はもっぱら下働きでのお手伝い。


 そんな中、刻一刻と時は過ぎていく。


 赤穂浪士が来るとすれば、時刻はずっと後。そもそも今日十四日ではなく明日の未明だ。今は落ち着け、落ち着けと思いつつ、でも少しずつ焦りは高まっていく。


 そろそろご隠居の上野介様が到着するかという頃、台所脇の庭にいた私に裏門門番

の六郎衛門さんが近づいてきた。

「むつみ様、お客人がお出ででござるが」

 お客? 私に。誰だろう?


 お台所に、少し中座すると言って裏門に回ると、お客というのは先日米屋五兵衛こめやごへえのことを訊いた、めし屋の女将さんだった。

 私を見ると、ちょっと面食らったような顔をする。珍しい髪のせいだろう。この間は御高祖頭巾おこそずきんにしていたから。ぎこちなく会釈をしてから、ちょいちょいと手招きされたので門の外に出ると、少し先に中年の男の人が立っている。

「あの方ですよ」

 そう言う女将さんに、男の人が私に向かって軽く頭を下げると、穏やかに笑いながら口を開いた。

「五兵衛さんのことをお尋ねなさったんは、そちらさんで?」

 

 私の顔つきが変わる。米屋五兵衛を知っていそうなこの人は、いったい?

「あの……どちら様ですか?」

家主いえぬしでございますよ。あすこのたなを貸してますんで」

 大家さんだった。


「いえね、こちらの女将さんがちょいと届けたいものがあるてんでねぇ、そんなら連れ立ってこうかっつうことになったんすが、お女中のことを女将さんから聞いたもんつから、何か言づてでもと思いましてね」


 私が、ごくりとつばを飲み込む。

「五兵衛さんの所在をご存じなんですか?」

「ええ、存じてますよ。あぁ、そうか、なんでしたらご一緒にでも?」


 急展開だ。


 米屋五兵衛こと元赤穂藩の前原伊助まえばらいすけに会える。

 どうする。どうする。どうする?


 黙っている私に、男の人が訊いてきた。

「どうなさいますかね?」


「ご一緒に、お連れください」


 すぐに屋敷内に取って返すと、小堀さん方に急用がと伝えた。

「はい。承知いたしました。ごゆるりと」

 もともと私の出番はさしてなかったこともあり、笑顔で了承してくれる。


 部屋に戻り、支度をして頭にはちりめんをかぶり、そこでハタと気づく。

 身一みひとつで行って良いものだろうか?


 もちろん喧嘩腰じゃない。でも相手は赤穂浪士。しかも今晩この吉良屋敷に攻め込む気の人間だ。

 それなら、念のため何か持っていくべきじゃない?


 もちろん相手に気づかれないようなもの。何かないか、探そうとしたところに、松竹さんが来た。

「いかがなされました?」

 松竹さんが、気を利かせて訊いてくる。

「あの、何か、切るものはございませんか?」

「切るもの、ですか?」

「はい、なるべく小さなもので」

「かしこまりました」


 一緒に納戸に行くと、松竹さんが小さな文箱を手に取って見せる。

「こちらで、いかがですか?」

 中にあったのは小柄こづかだった。小さめでボールペンくらいの長さ。懐紙などを切るための物だろう。おあつらえ向きだ。

「ありがとうございます。お借りしても構いませんか?」

「はい、どうぞ」

 お礼を言って手に取る。


「あの……松竹さん」

「はい」

「もし、もしもよ……夜、何かあったら、その時はお布団にもぐっていてね。起きたり出て行ったりしては絶対にダメ」

 切羽詰まった私の口調に、松竹さんが不思議な顔をする。

「むつみ様……何方いずかたへお出でございますか?」

「ええと、少し遅くなるかもれませんが、ご心配なく。あ、左兵衛様にも、そうお伝えください」

「かしこまりました。が……なれど」

 何か言いたげな松竹さんに、これ以上話すのは危ないと話を打ち切り、そそくさと廊下を渡っていった。


 裏門に行こうとしたら、笠原長右衛門さんと出くわした。

「むつみ殿、何処どこぞへお出でか?」

「いえ、ちょっとそこまで」

 と、ドラマに出てくるおばさんのような言葉でごまかす。


「左様か。いや、御前がまたお話なぞされたいとおぼしになるかと思うてな」

 ちょっと残念そうな顔をする。

「相済みませぬ。いささか時がかかるやもしれませぬが、どうぞお心配こころくばりなく、とお伝えください」

 頭を下げて行きかけて、もう一度振り返る。こわばりそうな顔に、何とか頑張って笑みを浮かべた。


「あの、笠原様はご祐筆ゆうひつですので、くれぐれもお刀なぞお持ちになりませぬように」

「なに?」

「おやさしい笠原様なればこそ、いつまでもご達者なおを拝見したいと、そう願っております」

 きょとんとした顔で立ち尽くす笠原さんを置いてけぼりに、私は裏門へと戻った。


 裏門で待っていた二人に合流する。

 大家さんは治兵衛じへえさんといい、女将さんはおさきさんとのこと。歩くには少々遠いらしく、近くの駕籠屋まで行くと三人で駕籠に乗っていよいよ出立。


 江戸時代の駕籠に乗る。思ったより揺れる。たいして速くもない。自分の足で歩くよりはまし、といった程度か。これでも徒歩しかない時代にはぜいたくなものだったのだろう。

 時代劇さながら、エィサー、ホィサー、という掛け声が聞こえる。これで二人の調子を合わせバランスを取っているわけだ。


 前原伊助に会えるのか。

 そう思いながら、会ったらどうするかを極力冷静に考えた。


 まずどう話す。急進派の前原伊助。しかも他の浪士も一緒かもしれない。私の言うことを訊き入れるか。

 いや、でも深夜集まった赤穂浪士を前に大見得を切るよりも、とにかく今日の討ち入りをあきらめさせるなら、吉良家では討ち入りを知っていると伝えれば良い。その情報をもとに今日の討ち入りがなくなれば、まずは時間稼ぎができる。


 もしそれが成功したなら、討ち入りが起きなくてもここでの暮らしが何も変わらないとしたなら、私はこの世界の歴史を変えられたことになる。

 吉良家のみんなが助かって、それから赤穂浪士はどうする。切腹なんてさせたくない。私の知る忠臣蔵の物語とは違っても、彼らにも生きていてほしい。


 なんなら、彼らにも私の素性を明かすべきか。三百年先から来たんだといって、この後の歴史がどうなるかを話す。未来の日本のことを話す。武士や百姓といった身分制度がなくなる時代のことを話す。

 そうしたら、左兵衛様やご隠居様のように、私の生きていた時代を、自分たちの国の未来を、受け入れてくれるかもしれない。


 どのくらい来たんだろう。

 だいぶ経ったと思われたころ、駕籠屋さんの声がやんだ。フーっと息をつくと地面に下ろされる。

 着いたんだ。


 治兵衛さんたちに続いて駕籠を降りると、町からずいぶん外れたほうのようで、雪の降り積もった野原のところどころに農家が点在している。


「……あの、五兵衛さんは日本橋の方に越されたのでは?」

「あれはおたなでしてね。お住まいはこっちで」

 こんな場所から日本橋のお店へ?

 いや、あるいは日本橋ももう用済みとして閉めて、こちらに隠れているのか。


 雪を踏んでいく治兵衛さんとおさきさんに付いて、一件の農家の前へとやってくる。

 板戸をどんどんと叩いて、治兵衛さんが呼びかける。

「五兵衛さん、いなさりますか?」


 返事も待たずにガラガラと戸板を開けると、治兵衛さんが振り向いた。

「どうぞ、中へ」

 勝手知ったる感じで入っていく。緊張しつつ、私も続いた。


 灯りがないから薄暗い。前原伊助がいるかと思うと、身体がぞくぞくしてくる。目を凝らして奥を覗いた途端、背中をドンっと突き飛ばされた。


「あっ!」

 思わず土間に倒れ込む。背後で素早く板戸を閉める音。


 何が起きたのかと振り向く私を、おさきさんが険のある目つきで見下ろしていた。

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