十二月九日 その二

 お台所でのお仕事も終わり、昼餉からしばらく経ったころ、やっぱり誰かに外のことを聞きたいと思って表門に周ると、権十郎さんがうまやの傍らで立ち話をしていた。相手は馬のお世話係の吉右衛門さん。


「これは、むつみ様」

 天狗にかどわかされた娘も、お屋敷内に上がりお殿様の傍にいるとなったら、中間の人たちからみてずっと上。お辞儀をされてこそばゆい気がする。でも、私には気兼ねなく話せる人に変わりはない。


「こんにちは。権十郎さん、吉右衛門さん」

 言葉遣いもかしこまらずに話しかける。権十郎さんは、私にちょっと不思議なところがあるのを知っているから、その辺もスルーしてくれている。

「一つ目の橋ってご存じですか?」

「はぁ。裏門より左に折れ、まっつぐ進めば竪川たてかわですじゃ。行き当たりを右に折れて川沿いに進めばございますが」


「それなら、さして遠くはありませんね」

「お出でになられますのか?」 

「ええ、ちょっと見てみたくて」

 お二人が顔を見合わせる。吉右衛門さんが遠慮しがちに言った。

「ご装束はともかく、そのおぐしは人目を惹くでございましょうなぁ……」


 あ、そうか。

 この時代、こんな短い髪をそのまま垂らしている女なんていないはず。お屋敷から出ないので、つい気にしなくなっていた。

「なんぞで、お隠しになられては?」

 そう言われて納得した。お二人にお礼を言うと、いったん部屋に戻る。そこに齋藤十朗兵衛様がやってきて、鳥居様がお呼びとのこと。


 お部屋に入ると、鳥居様は早速お出入りの小間物問屋の方を呼んで、手袋の商談も済ませてくれていた。


「むつみ殿、これを」

 畳の上に袱紗ふくさが置かれる。鳥居様がそれを開いた。

 出てきたのは、小判が五枚。


 五両。

 この時代の物品の価値にしたら五十~六十万円! あの手袋が、六十万円!


 目を向いている私に鳥居様が言った。

「当家お出入りの者にて、いささかの釣り上げもあろうが、慮外に高うござった。いや、いずれより渡りし物かしつこく訊かれたが、返答に窮したぞ」

 そう言って笑う。


「むつみ殿。この金子はそなたの意のままにお遣いなされ。無論このままでは使い難し。両替えの後に渡すとしよう」

「あ、ありがとうございます!」

「いや、礼を申すは此の方じゃ。殿のこと頼んだぞ」


 小堀さんに伝えると大喜び。早速買い付けをしようということになった。もちろんお出入りの八百屋さんや魚屋さんがいるけれど、どうせなら自分の目で見てみたい。

 米屋五兵衛の件も含めて、外に出られるまたとないチャンス。

 

 私の頭はちりめん布でいわゆる御高祖頭巾おこそずきんにして、小堀さんと、荷物持ちに権十郎さんと一緒に、初めてお屋敷の外に出る。


 うわぁ! リアル江戸の町だ! 


 お城から遠いとは言ってもやっぱり江戸。ビルなんてないから、とにかく空が広い。そんな中に、デンと置かれた巨大な江戸城。


 お屋敷町から少し離れると、次第に庶民的になってきて人通りも増えた。周りの人がみんな時代劇の中と同じ格好をしている。しゃべっている言葉もイントネーションが特徴的で、これが本物の江戸っ子の言葉遣いかと感心する。

 目的も忘れてきょろきょろしたり、気になるものを見つけると立ち止まったり。

 そんな私の様子を見ながら、小堀さんと権十郎さんが半ば呆れつつ笑っている。

 とにかくテーマパークの観光よろしく、私は初めて観る江戸の町の風景に、しばし心ここにあらずの状態だった。


 そんなこんなで、まずは八百屋さんに到着。卵はここで扱っているとのこと。ちょうど入荷があったようで、木箱に入ったもみ殻に半分埋まって売っていた。一つ二十文。四百円か。

 冷蔵庫なんかなくても冬だからしばらく保つだろうと、六つもらう。あとは小堀さんがお野菜を買って、掛けではなくその場でお金を払うと、お屋敷に届けてもらうことにする。

 

 次に行ったのは魚屋さん。時代劇だと天秤棒に桶を釣った棒手振ぼてふりが出てくるけれど、日本橋の魚河岸うおがしから仕入れた魚を売る店もある。ただし、武家では生ものを食べて万一のことがあると困るから、あまりお魚は出されない。お刺身もお酢で締めて殺菌する。

 長屋の庶民が毎日売りにくる新鮮な魚を食べられて、お殿様は干し魚や酢漬けというのも何だかおかしな話。

 

 左兵衛様に出される魚と言えば、この時代は鯛がメイン。白身魚が高級で、それ以外は庶民の食べ物ということになっている。

 そして、歴史小説などで読んだ通り、私の目の前には江戸庶民の魚筆頭うおひっとう、大きなマグロの塊があった。


 江戸でのマグロの水揚げ量はものすごい。そして安い。長屋住まいでも普通に収入があれば、毎日飽きるほど食べられたそうだ。現代とは大違い。

 お肉が出ないお屋敷での食事も、マグロならタンパク質もとれるし鉄分もあるし、安いし、左兵衛様にはもってこいじゃない。

 でも私が買いたいといったら、魚屋のご主人は眉をしかめた。


「お武家様は、お召しにはなりませんでしょう」

「え? そうなんですか」

「シビと申しますので、お侍には縁起が悪うございます」

 そんなことも知らないのか、といった顔つきで私を見る。


 小堀さんに訊くと、シビという別名が死日という音につながるから、武家ではマグロはご法度とのこと。

 でも、私には別の考えがあった。誰も食べなければ自分で食べるし、とご主人と小堀さんを説得して、現代でなら三千円くらいしそうな天然本マグロの赤身を買った。


 そして最後。和菓子のお店に連れて行ってもらう。

 番頭さんに、お砂糖を分けてほしいと頼む。輸入品で関税もかかり高級品だけど、即金かつ高くても良いとここでも頼み込み、お台所でしばらく使えそうな量を分けてもらう。

 よし、これでだいたいそろった。

 

 夜、左兵衛様の夕餉に私もかしずかせてもらう。

 いつもならお給仕は小姓の方々なのに、私が傍にいることで、またも不安げな顔の左兵衛様。


「ご安心召されませ。甘酒はほどほどにいたしますゆえ」

 そう言ってお膳を出す。

 

 お汁や煮物と一緒に出された黄色い料理に、左兵衛様が目を止めた。

「これは……卵か?」

「はい」

 と応える。私が作った卵焼きだ。

「久しく口にしておらず。今宵はいかがした?」

 どう説明しようかと思っていたら、脇にいた左右田様がにこにこしながら口を開いた。

「殿にたてまつるべく、むつみ殿がお手を尽くし得ましたものにて」

調ちょうじましたのも、むつみ殿にございます」

 と、新貝様。


「さ、さようか」

 私と小姓の方々の視線に気おされて、左兵衛様はまずその卵焼きからお箸をつけた。

 口に入れて、もぐもぐしていた表情がぱっと変わる。

「む……旨い!」


 やった! 卵に昆布のお出汁だしと砂糖。現代風に甘めのだし巻き卵。


「左兵衛様、そちらも」

 二の膳の料理もお勧めする。


「これは……何であろう?」

 四角くて、薄い茶色でぶつぶつしている塊を不思議そうに見る。

「お召しになってください」

 勧められて食べてみる左兵衛様。

「ふうむ、異なものよ。だがこれも旨い。肉のようだが、なんぞや?」


 昼間に買ったマグロ。

 こんなものを出してよいのか、冷や冷やしている小堀さんや小姓の方々を脇目に、まずは小麦粉を振って溶き卵に浸してから、ゴマと海苔、硬くなったご飯を砕いて衣にすると、菜種油なたねあぶらで揚げた。

 命名、マグロカツもどき。


 でも、マグロとは言えない。


「それは、ツナ揚げと申します」

 とでっちあげる。

「つな?」

「はい、源綱みなもとのつなゆかりのうおにございます。お身体をお健やかにすると申します」

 言葉ことばなんて、別の言い方で呼べばいいだけ。昔から、人間はそうやってタブーをごまかしてきた。源綱は鬼退治の有名人。しかも流派は違っても、吉良家も同じみなもとの家系。


「さようか。いや、むつみよ、甘酒ではなくこの卵とつなとやらなら、日並みでも良いかも知れぬ」

 納得して食べ始めた左兵衛様に、私も小姓の方々も胸をなでおろす。


 でも、その夜、夕餉の後片付けも終え部屋に下がった私は、複雑な気分でなかなか寝付けなかった。

 今は、左兵衛様に健康に暮らしてほしいと何よりも思う。左兵衛様の、あのどことなく陰のあるお顔が、何の心配もなく笑うところが見たい。

 

 でも、そう考えれば考えるほど、あと数日で何かが起きるのかという不安がのしかかってくる。

 やっぱりここが私の知る元禄十五年で、このままだと本当に討ち入りが起きるとしたら。本当に米屋五兵衛が前原伊助だとしたら、どうすればよいのか。


 その答えは、今の私にはどうしても出せなかった。

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