十二月九日 その一

 小姓の皆さまと連係プレーの甘酒攻撃に、左兵衛さひょうえ様にはついに降参。

 毎日飲む代わりに、食事がきちんと食べられた日には少し量を減らしてほしいという頼みに、こちらも譲歩して一件落着。


 でも、甘酒以外にも何か左兵衛様に召し上がっていだけるものはないか、台所で小堀さんのお手伝いをしながら考えていたけれど、なにより家計の苦しい吉良家ではそうそう珍しいものは買えない。


 さすがに、お金を増やすことは私にもできないなぁ……

 と思っているうち、もしかしたら、と気が付いた私は鳥居様に会いに行った。


「むつみ殿。何用か?」

 私が不審人物であることを知っている鳥居様も、左兵衛様やご隠居様に気を遣って礼儀正しく扱ってくれる。


「恐れ入りますが、こちらにお出入りの小間物商いの方はいらっしゃいますか?」

「無論、当家には先より出入りの者がおるが」

「こなたよりお品物を売り渡すこともお出来になりますか?」

「当家より? 何をじゃ」

「これを」

 私が、ここに来た時に着けていた手袋を差し出す。お庭に落ちたとき、とっさに外してポケットに入れていたものだ。


 ごく普通の綿の白手袋。でもこの時代にこんなものはまだないはず。


 江戸時代、オランダ貿易から知られるようになった手袋は武士も使っていて、内職の一つにまでなっていたけれど、みんな軍手みたいなタイプでここまで繊細なものはない。

 鳥居様が手袋を受け取って、しげしげと眺めた。


「これは、布手ぬのてか?」

「はい。女向きでございます。異国のものにて」

 中国製なので、とぼけてそう話した。外国のものと言えば、多少なりとも価値が上がるかも。

「ふうむ。確かに、手触りといいまれなるものと思うが、して、何故なにゆえこれを売り渡したいのじゃ?」


「それは……左兵衛様の御膳に、精のつくものをたてまつりたく」


 鳥居様が黙って私の顔を見る。いぶかしむ目つきに負けないように、精一杯の真面目な顔をした。

 しばらくして、鳥居様はふっと息を吐くと頷いた。

「相分かった。問屋につなぎを入れて進ぜよう」

「ありがとうございます」

 私が頭を下げる。そのまま退室しようとしたとき、鳥居様が言った。


「むつみ殿。殿への心遣い痛み入る。家中みな、左兵衛様には然るべきあるじとあそばされることを願いしが、我らには手の届き難きことも多く……そなたが殿のお心内こころうちにまで至りしは、まこと有難きこと。礼を申す」

 初めは怖いおじいさんだと思った鳥居様からお礼を言われて、私はただ恐縮するばかりだった。


 商いの人に私が会うと、手袋の入手経路や私自身のことも説明を求められかねないので、あとはすべて鳥居様にお任せして、また台所へと戻る。


 小堀さんと二人で煮物の下ごしらえにかかったが、もしかしたら無意識にも少し気持ちがそがれていたのかもしれない。大きなお鍋にお湯を沸かし、大根を入れようと振り向いたとき、私の袖口が鍋にかかりグラッと傾いた。


「きゃっ」

「いかぬ!」

 とっさに小堀さんの手が伸びて、私の身体を押しのける。かばってくれた小堀様の左手に、沸かしていたお湯がばしゃっ、とかかった。


「熱っつ!」

「あっ! も、申し訳ありません」


 慌てて謝ったが、小堀さんは左手を抑えて顔をゆがめている。

「すぐに、お手当てを」

 そばにあった手拭いを水に浸すと、小堀さんの手首に当てた。

「何か、お薬はございませんか?」

「おお、そこに油壷が」

 小堀さんが壁際の棚を指す。私は小さな茶色の壺を取ってきた。蓋を取るとどろりとした黄色い油が入っている。やけどの治療薬として使われていた馬油マーユかな。


 小さじで平皿に移し、指ですくうと、赤くなった手首にそぅっと塗った。そんな私をすぐ横で小堀さんが見つめている。やけどを負わせてしまったということとは別に、なんだか顔が赤くなってくる。


「……まことに、申し訳ございません。私の不作法で」

「なんのこれしき。台所方では茶飯事さはんじにござる」

 私を安心させようとにっこり笑う。


「女子は、身体を大事にされませぬとな」


 私の身体を気にかけてくれる小堀さんに、今の吉良家のことを聞いてみたくなった。

「あの、小堀様」

「何か」 

「伺いたいことがございます」

「左様ですか。それがしに分かることなら答えて進ぜましょう」


 私は、深呼吸をするとまじめな顔で尋ねた。

「赤穂の浪人たちのことです」

 小堀さんの顔つきが変わる。


「むつみ殿も、やはりそれをご案じ召されますか」

「あ、はい。心配で……」

 小堀さんが、ふーっとため息をつく。

「この本所界隈では当家をはばかってか久しく聞きおよびませぬが、未だ江戸市中では町衆のくちに上ろうかと思いまする」

「吉良様では、備えは成されぬのですか?」

「呉服橋のお屋敷ではしばし行っておりました。なれど、この屋敷に渡ってからは久しく……」

 もう赤穂浪士の討ち入りはないと、危機感が薄れているのだろうか。


「御前や若殿が如何様いかようにお思いかは知れず、この本所に参りました頃より、備えも解かれました。御前様は上杉様のお屋敷におわしますので、それもあるかと」

「なれど、吉良家ご当主は左兵衛様にて、お殿様の身を案じてはおらぬのですか?」


 私の問いに掛けに、小堀さんが複雑な顔をする

「赤穂浪人があだとみるは、御前の上野介様とのよし。さればこの屋敷に攻め入るは道理が通りませぬ」


 確かにその通りで、だから赤穂浪士たちは吉良上野介がこの屋敷に来る日をやっきになって探っていた。


「とは申せ、そも、浅野内匠頭様のご切腹とお家お取りつぶしは、ご公儀のご下知げち。御前と吉良家を恨むは筋違いにござる」

 小堀さんは、そういって唇をかんだ。


「我らは、御前と浅野内匠頭様に何が起きたかは存じ寄らず。なれど、内匠頭様が己が身をわきまえもせず殿中にて刃傷に及びしは、あちらの不始末。御前やこの吉良家が、浅野家お取りつぶしを願ったわけでもございませぬ」


 普段はおくびにも出さなくても、小堀さんも心の内では思っていることがあるようだ。


「世間では片手落ちの裁量なぞと言われますが、上野介様は隠居なされ、にわかに左兵衛様がお継ぎになりました。呉服橋のお屋敷も召し上げられ、この本所に、いわば流されたも同然。されば都落ちした当家に、赤穂浪人もかかずらわっている所以ゆえんはございますまい」


 この時代の本所は江戸のはずれ。

 呉服橋の吉良邸、つまり千代田区丸の内の一等地にあった屋敷から、公儀の指示でここに転居されたのは、何かあった時の被害を最小限に抑えようという考えか、あるいは吉良家の処遇を落とすことで、幕府への批判をかわそうとしたともとれる。いずれにせよ吉良家は見捨てられたのだ。


「むつみ殿もご承知の通り、当家も金勘定かねかんじょうについては差し迫っております。かねてからの借り掛けは上杉様よりご助成がござったが、それにも限りがござります。名門と言えど、かような貧乏旗本を目の敵にして、何が武士でござりましょうや」

 小堀さんが深刻な顔をした。


「米にしても、なるべく安くと、ご用人から言いつけられております」

 お米。それを聞いて思い出した。


「あの、近くに米屋五兵衛こめやごへえさんというお名前のお米屋さんがございますか?」

「五兵衛……確か裏門から出て一つ目の橋のあたりに、そのような米屋があったと」

「買い付けはございましたか?」

「はい、二、三度。なれど、なぜに五兵衛の名を存じ寄りまする?」


「あ、いえ、中間の方々がお話を。人の好い方だったとか」

「左様ですか? それがしはいささか覚えもなく……」

「いえ、結構でございます。失礼いたしました」

 怪訝な顔をする小堀さんはごまかして、でも米屋五兵衛が実在したとすると、話はかなり変わってくる。


 米屋五兵衛。正体は、前原伊助宗房まえはらいすけむねふさ。元赤穂藩士で、討ち入りを切に望んだ急進派。吉良の屋敷近くで米屋に扮し、様子を伺っていたとされる。


 その人が近くにいるのなら、やっぱり何かが起きる気がする。

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