十二月八日

 食事をとらないと甘酒を飲まされるというのが功を奏したのか、今日は左兵衛様も朝餉あさげを召し上がったらしい。とはいえ小食なことに変わりはない。

 頃合いを見図らって、またお持ちする。


「ま、待て待て、今朝は食べたゆえ……」

「少なすぎまする。それに、これはお屋敷の皆さまのお心と申し上げたはず。おりくださいませ。さあ」

 強引に勧める私に、閉口しながら甘酒を飲む左兵衛様。控えている小姓の人たちが、吹き出しそうになるのを必死にこらえている。


 でも私は、自分の役目ができたようで、なんだか楽しかった。

 しぶしぶ甘酒を召し上がる左兵衛様が、この時だけはただの十七歳の男の子に見える。


 思えば、この歳でお殿様というのも窮屈なものだろう。しかも吉良家の風評は良くない。いろんなものが十七歳の若様の上にすべてのしかかっていれば、元気になることもままならないと思う。

 せっかくここにいるのだから、少しでもお役に立ちたいと思う私には、この吉良屋敷での暮らしが普通に見えすぎて、赤穂浪士の討ち入りも事実なのかどうか、分からなくなってくる。

 もしかしたら、タイムスリップではなくパラレルワールド?

 並行世界というものなら、ここでは討ち入りは起きなくて、みなさんの暮らしはこのまま平穏に続くのかもしれない。


 小堀さんにお台所でのお手伝いを申し入れて、お膳の手配や片付け、野菜の下ごしらえなどが日課になっている。

 下流しで、冷たい水に我慢しながら大根の泥を落としていると、小姓の左右田そうだ様と新貝弥七郎しんかいやしちろう様が声をかけてきた。


「やはり、女子おなごがおわすと、変わるものでござるな」

「え? と仰せになりますには、なにか」

「いや、何がということもござらぬが、殿のあのようなお顔は久しぶりにて」

 お二人が微笑む。小姓とは言っても左兵衛様のお父様くらいの歳だから、お二人とも子どもの面倒を見ているようなものだろう。

「殿には、無用なわずらいは覚えず、お心やすくお過ごしいただきたいものよ」

 新貝様のお言葉に、左右田様も伏し目がちに頷いた。


「むつみ殿には、まことかたじけなく、先々末永く殿のおそばにおつかえいただきたい。さよう頼みまするぞ」

 左右田様の言葉に合わせ、お二人が頭を下げる。

「そんな、私如きが……」

 あわてて両手を振った。


 どうやら、事情を知らない家臣の方々は、私を左兵衛様の花嫁候補か何かと思い込んでいるらしい。

 まぁ、確かに顔もそこそこイケメンだし、もう少し元気で身体も丈夫になれば立派な若殿なんだけど。

 いやいや、私はもとの時代に帰らなければならないし、とまで思ったものの、五日もここにいて次第に慣れてくると、時代がどうとか暮らしぶりがどうとかといった違和感もなくなってくる。そして、いつ帰れるのか、本当に帰れるのかもまだ分からない。もしこの先もずっとここにいることになったら。


 そう考えていたら、本当に左兵衛様の花嫁に、という話が急にリアルに思えて来て、ぼっと顔が赤くなった。

 誰かと結婚して生まれた土地を離れるというのは、こんな気分なんだろうか。


 昼過ぎ、ご隠居の上野介様がお屋敷に見えた。上野介様は家督を左兵衛様に譲ってからは上杉家にいることが多く、たまにこちらに様子を見に来るとのこと。

 呼ばれて、お屋敷西側のご隠居所へと参る。


「そなたが来て以来、屋敷内やしきうちが何やら明るくなった、と皆が申しおる。左兵衛殿は無体むたいに甘酒を飲まされるとか」

 私を前に、上野介様がくすくすと笑う。


「いや、本にそなたのような女子は初めてじゃ。思いもつかぬ地よりまかり越したによって、それもしかりではあるがのう」

「恐れ入ります」

「よいよい。左兵衛殿には、日々息災そくさいに過ごしてほしいでな。かまわぬ。そなたの思うがままに接してくれい」

 頼み込んでくるご隠居様に、畏まって頭を下げる。


「思えば、左兵衛殿にも、無用な労煩ろうわずらいをかけてしまった」


 私の、眉毛のあたりがぴくっと反応する。赤穂事件の当事者、吉良上野介から聞く、その事件に関連した心の内だ。

 こうしてみると、まったく普通のおじいさん。欲の皮が張った悪人とは到底思えない。

「むつみよ、そなたが元の世にもどるを願う、それは一向にかまわぬが、さりとていつとなるやも知れず。すまぬが、当家に居りし間は左兵衛殿のこと、良しなに頼む」


 元自分の孫、今は息子であり後継ぎ、左兵衛様のことを気に掛ける上野介様は、やっぱりどこにでもいる老人としか、私の目には映らない。


 なんだか、自分が思っていた赤穂浪士、忠臣蔵の物語がだんだんと崩れていく。


 フィクションの世界は一方的な勧善懲悪で作られているから当たり前なんだけど、吉良家で暮らして、皆さんとお付き合いすればするほど、胸の内のしこりが大きくなっていく。


 複雑な気持ちで台所に戻りかけたとき、廊下で親し気に立ち話をしている方々を見かけた。

 一人は笠原長右衛門かさはらちょうえもんさんだ。私が初めて出会ったお侍さん。お仕事は祐筆ゆうひつで、お殿様のお言葉や家中の記録を書き留めたり、他家へのお手紙を書いたりする書類作りの専門職。人柄もあってか、親しみがわく。

 でも、もうお一人は清水一学しみずいちがく様だった。ドキリとする。


「おお、むつみ殿」

 笠原さんから声をかけられ、お辞儀を返す。

「御前に召されておられましたか?」

 清水様が訊いてきた。清水様は上野介様の近習として取り立てられたため、いつもご隠居様についている。笠原さんと同年代の二十代半ば。


「はい」

 と返したが、どうしても緊張する。

 忠臣蔵では、小林平八郎か清水一学のどちらかが吉良側の剣客として、二刀流で大立ち回りを演じて、最期には討たれる。目の前の真面目そうな若いお侍が、そんな運命の人だとは信じたくない。


「あの、不躾ぶしつけながら、清水様はたいそう剣がお強いとか」

「はは、兄について幼き頃より励みましたので、いささかの覚えはありますが。百姓家の出でございますれば他に取り柄もなく……」

 そう言って、遠慮がちに頭を下げる。

「いやいや、それがお方様かたさまの目に留まり、士分を与えられておる。立派なものよ」

 褒められて、清水様がはにかむように笑う。私は、感心して一人頷いている笠原さんに目を向けた。

「笠原様は、お強いのですか?」

「む、拙者か?」


「もし……もし、赤穂の浪人が攻め寄せてなぞまいりましたら」

「そ、それは……殿と御前を護って立ち合うぞ」


「なにをごとを申しおる」

 突然後ろから笑い声がかかった。取次とりつぎ齋藤十朗兵衛さいとうじゅうろべえ様が近づいてくる。


「おぬし、は得手だが、剣の方はふつに使えぬではないか」

「む……それは、そうだが」

 いったん黙った笠原さんが、すぐ気づいたようにふくれっ面をする。

「ふつ、とはなんだ。ふつ、とは。そこまでひどくはない!」


 ふつ、って確か全然ダメ、話にならないって意味だったよね。と思い出し、ぷっと噴き出してしまった。

 笠原さんが私を見る。

「こ、これ、むつみ殿。お手前までが、無礼であろう」

「あっ、し、失礼いたしました」

 慌てて頭を下げる。

「よいよい、まことのことよ」

 齋藤様がそう言って、またゲラゲラと笑い出す。


「して、長太ちょうた。御前様がお呼びであったぞ」

「お、そうか、では早速に」

「御前のお気に入られますと、忙しゅうございますな」 

 そう言って微笑む清水様。

 笠原さんが行きかけて、でも振り向くと齋藤様に向かってちょっとむくれる。

「それがしは長右衛門だ。長太と呼ぶは御前様のみぞ」


 いそいそとご隠居様の許へ向かう後ろ姿をみんなで見送る。

「あ奴の名は長右衛門だが、なにゆえか、御前様が長太郎ちょうたろうとお覚えなさってな。いつも、長太、長太、と呼んでおわす。さによって、我らも長太と呼ぶ癖がついてしまってなぁ」

 齋藤様がくすくす笑う。

 まったく長閑のどかな、冬の昼下がり。こんな日がずっと続くことを願わずにはいられない。


 夕刻、左兵衛様はと言えば、多少食欲も回復した様子だった。


「やれやれ。これで、今宵はむつみの甘酒を飲まずに済む」


「殿、夕餉ゆうげはこれにてお済みでございますか」

 控えていた小姓の方がお声をかける。

「うむ」

「されば、家中かちゅうともどもの心合こころあわせにてございまする」

 示し合わせた左右田様と新貝様が襖をスーッと開ける。暗闇からお辞儀をする私。目の前には湯気を立てた甘酒のお椀。


 座敷には、あっけにとられる左兵衛様がいた。

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