十二月六日

 二間続きの書院に、吉良家に仕える人たちが集められていた。

 

 上座には若殿の左兵衛様とご隠居の上野介様。その脇には、大勢のお侍さんを前に、震え出しそうなほど緊張している私。


 左兵衛様がみんなを見回しながら口を開いた。

「しばし当家にて預かることと相成った。皆、よろしく頼む」


「む……むつみと、申します。不調法者なれば、ご迷惑をおかけするかと存じますが、どうぞ良しなにお願い申し上げます」

 上ずった声であいさつして深々とお辞儀をする。


「むつみ殿、手前より家老の齋藤、小林、左右田そうだ、松原。鳥居は存じよるな。同じく用人の岩瀬舎人いわせとねり、須藤、榊原……」

 お一人ずつ順番に頭を下げる。左兵衛様が、今度は奥の方々に目を向けた。

「あれらは、父上と身に仕える中小姓ちゅうこしょうだ。名はおいおい覚えるが良い」


 ご家老のうち、小林様という方が一礼して問いかけてくる。

「若殿、むつみ殿は、何やらかぶいた装束しょうぞくでおいでになられたと伺いましたが……」

「うむ。珍しき装束であった。あれは南蛮なんばんに由来するものである」

「南蛮と! では、むつみ様はどこぞの姫様であらせられますか」

「とっ、とんでもございません!」

 ひっくり返った声で否定する。


「武家の娘御ではない。気兼ねはいらぬ。だが、身に仕える者として扱い、みな粗相のなきようにな」


 皆さまが頭を下げる。私もお辞儀を返した。でも、内心では別のことでドキドキしている。


 先ほど口を開いた小林様。吉良家で小林の姓と言えば、小林平八郎。

 講談では清水一学しみずいちがくと並んで剣豪と言われるけれど、実際にはご家老で、上野介様と大して変わらないお歳に見える。私の目が、小姓として並んでいる清水様に向く。清水様は思ったより若く、実直そうな方。

 お二人とも、討ち入りで亡くなったはず。心の中に不穏なものが広がっていく。


 そんな私の心を置き去りにご家来との顔合わせは終わり、私は部屋に返された。

居室で、鳥居様よりいくつかの注意事項を聞かされる。


「むつみ殿、若殿と御前のお取り計らい、有難くおぼせ。拙者にすればいささか思うところもあるがのう」

「はい。お心遣いまことに痛み入ります。左様心得ます」

 とお礼を言う。

天狗てんぐかどわかされしか否かはともかく、委細を忘れし妙齢みょうれい女子おなごを手荒に扱うこともできぬでのう」

 困ったようにつぶやく鳥居様は、いわば執事長で、吉良というおいえを守るべき立場だから杓子定規に考えるのは仕方ない。

 でも、堅苦しいけれど根は悪い人とは思えなかった。


 ご隠居の上野介様が言ったように、私は左兵衛様のお近くにいるようにと言われた。と言っても、格別何をするというわけでもない。私が三百年後から来たというのは、上野介様と左兵衛様しか知らない。いきなり現れたことを知っている鳥居様にしてみれば、どこの誰かもわからない女をお殿様の近くに置くというのも、不都合に感じるのだろう。


 顔合わせの後で上野介様はお出かけになり、左兵衛様はお屋敷に残った。せっかくおそばに仕えるのだから、相手のことは知っておきたいと、松竹さんに左兵衛様のことをいろいろと訊く。


 まず、私が史実として知っていた通り、左兵衛様は生まれつきあまりお身体が強い方ではなく、食も細くて、冬になるとよく風邪もひくらしい。高家肝煎こうけきもいりとしての大きなお仕事はまだ始まっておらず、このお屋敷で勉強する日々だけど、特に季節の変わり目には寝込むことも多いそうだ。

 確かに、色白でちょっと陰のある雰囲気に見える。

 松竹さんによると、先々のことを考えてご家来衆は、とにかく健康なお身体になってほしいと願っているとのことだった。


 先々、というその言葉が私の心に引っかかる。その先々というものが、左兵衛様に来るのだろうか。

 ゾクッと寒気がしてきた。


 知り合った方々の運命を私だけが知っている。目の前にいる方々がある日を境に居なくなることを、知っている。


「いかがなされました?」

 私の顔色が変わったのを見て、松竹さんが怪訝な顔をした。

「あ、いえ、少し寒気が」

 適当にごまかして、でもこの松竹さんだって、本当に討ち入りがおきたら危険じゃないの、と思う。


 夜、お布団に入ってからも、頭の中はずっと堂々巡りを繰り返していた。


 もし、ここが本当に私のいた世界と続く過去、元禄十五年だとして、本当に討ち入りが起こるなら、今ここにいる方々にも犠牲者は出る。何より、ご隠居の上野介様は討ち取られる。


 私は、何のためにここに来たんだろう。何をすればよいのだろう。


 もちろん忠臣蔵ファンとしてみれば、吉良上野介は悪役。赤穂浪士四十七士の討ち入りは勧善懲悪の物語。でも、この吉良家の方々に接してみたら、当たり前のことだけれど、どなたもまるで普通の人。 

 あと十日で何かが起こるのか。それとも何も起こらないのか。私がここに来たことですでに何かが変わり始めているのか、いないのか。


 すべてを話すべきなのかも。そして十四日の討ち入りに備えてもらう。


 でも、もしそうなって討ち入りが失敗したら、それは歴史を変えることとなる。私は、何よりそれが怖かった。


 そもそも、私にそんな力があるのだろうか? 何かの運命のいたずら、間違いでこの時代に跳ばされたとしても、私が歴史を変えようと実際に動き出したら、そこには矛盾が生じてしまう。

 その結果、何かとんでもないことが起きてしまうかもしれない。


 もし、赤穂浪士の討ち入りがなかったら。それを想像してみた。


 殿中松の廊下で、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったことは史実として変わらずに遺るだろう。

 でも、その後の討ち入りがなければ、赤穂浪士の話は存在しなくなる。浄瑠璃にも歌舞伎にもならない。江戸の人たちは、いつしか内匠頭と上野介のことも、赤穂浪士たちのことも忘れ、吉良家も不名誉な形で歴史に名を刻むことはない。

 忠臣蔵という物語は、最初から存在しないことになる。


 そこまで考えて、とても重大なことに気づく。


 忠臣蔵がなければ、私の記憶の中には赤穂浪士も吉良家も存在しなくなる。としたら、今ここでこうして悩んでいる私自身の頭の中も消えてなくなる。

 赤穂浪士も、吉良上野介も左兵衛義周のことも知らない、ただの女子高生がいるだけ。じゃぁ、ここに来た私の意味は?


 あーもう。何が何だか分からない。

 私の頭では何も考え付かない。どうしたらいいんだろう?


 それにしても、綿入れにくるまっていても寒いなぁ。

 自分の体温で布団の中は暖まっても、部屋の中が寒い。こんな毎日じゃ、左兵衛様が健康にならないのも当たり前。今度は、左兵衛様のあのちょっとはにかんだような、こころなしか寂しげにも見える笑顔が浮かんできた。

 元気ハツラツとは決して言えず、でも何となくだけど、身体と一緒に何かお心自体にも陰があるような気がする。


 左兵衛様のことを考えていたら、私の悩みは悩みとして、目の前のあの方に何かしてあげなくちゃ、という気持ちが湧いてきた。

 明日、松竹さんに相談してみよう。


 そんなことを考えながら、やっと私は眠りに落ちた。

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