元の世界に帰りたいのに帰れなくなりました

小原航

第1話

 元の世界に帰りたい。

 そう、強く思うようになったのは一体、いつ頃からだったか。

 初めて、この世界で目を覚ました時、当然ながら右も左も分からなかった。

 高校からの帰宅途中、気付いたら全く別の空間が広がっており、数秒前まで見ていた光景の齟齬に酷く困惑した。その直後に現れた召喚者である彼女の話によると、そこが別次元の世界であり、俺はその世界を救う為に呼ばれた聖剣の器であると説明された。

 随分と急で、唐突な展開に吞み込めない……とは思わなかった。

 俺は召喚された。

 今すぐに元の世界には帰れない。

 この二点を受け入れるだけで、あっさりと現実を認めてしまったのだから。

 それに当時、勉強と部活が繰り返される学校生活という日常に高校入学して間もなく飽きてしまったことも容認した理由でもあった。

 つまり、俺は新しい刺激、非日常といった要素を欲していた。

 それが何でもいいという訳ではないが、特に異世界召喚なんてものはアニメ好きな思春期の男子であれば誰しも一度は夢見る展開の一つ。それが現実に起き、美少女が目の前で自分を出迎えてくれれば、認めざるを得ないだろう。

 しかし、そう全て楽観的には受け入れられなかった。

 何せ、これは現実。

 想像の世界ではなく現実。

 話の流れを、どういった人との付き合いが出来るのかを、どういう展開に繋がっていくのかを決めることは自分では出来ない。

 ましてや、現実から先の未来を知ることさえ出来ない。

 現実とは先の見えない真っ暗闇の道を進むことに等しい。そこには当然、沢山の落とし穴や罠が用意されており、生きていくにはそれらを回避しながら進むしかない。

 それが今までは、平穏と平和な日常の中にいたからこそあまり感じなかったが、身の保障に関する仕組みが消え、元居た世界とは違うシステムで構築された世界の中にいきなり放り出されれば楽観的ではいられなくなった。

 それによる不安や恐怖が初めの頃、俺を元の世界に帰りたいとさせる要因でもあった。

 まぁ、暮らしに慣れれば初期に抱いていた不安や恐怖なんてものは忘れ、慣れ親しみのない土地でも楽しく、上手くやっていけるようにはなる。

 俺の場合、異世界の人間ということもあり待遇があまりにも良かったことや特別な素養・素質というものを持っていたこともかなり大きかった。

 それらを存分に使い、順調に異世界での現実を歩んでいけていた。最初の数か月までは……

 そして、帰りたいと度々願うようになったのはそれ以降だった気がする。


「ユリナ。俺はもう自分の世界へ帰るよ」


 決意を聞き、桃色髪の少女は胸に秘めた想いに駆られ、衝動的に己の感情を吐露したくなった。だが、言葉に出す直前に躊躇ってしまう。


「……どうしても帰ってしまうのですか」


 ユリナと呼ばれた少女は寂しそうな顔でそう尋ねた。

 素直に気持ちを表現出来ない不器用な言葉の意図に気付く。

 ユリナは決して『帰らないでください』とは口にはしない。それは自身が交わした最初の契約に背くからでもあるが、恐らくこう考えているに違いない。

 『自分の我儘で引き留める訳にはいかない』と。

 しかし、不器用で言葉足らずなのは俺もまた同じ。


「……俺はもうこの世界にいる資格なんてない」


 この言葉は建前に過ぎない。

 この世界で経験した辛い過去から逃れるため。

 元の世界に帰り、全てを夢物語にするため。

 だから、これは現実から目を背けるための口実でしかない。

 情けない話だと思えるかもしれないが聞いてほしい。この世界を救った道のりは長く、険しく、過酷なものだった。数々の死線をかいくぐり、傷付きながらも戦い続けた俺はかなり疲弊していた。

 肉体的にも、精神的にも……。


「資格……ですか。勇者様である悠馬様がこの世界にいるのは当然の資格です!ですから!……お願いします。どうか……元の世界に帰らないでください」


 涙目を浮かべ、震える声ではっきりと、ユリナ自身が心の底から抱く願望を告げた。

 自分の主張と願望が如何に自身が結ばせた契約と矛盾しているかを深く理解し、その上で秘めた想いを全面に出すことを優先した。

 その決意と覚悟に、嬉しくない訳がない。

 ましや、好きな相手から必要とされる。その事実が俺の覚悟を大きく揺るがす。


『その言葉は卑怯だ』


 奥歯を噛み締め、生じた己の迷いともう一度相対する。


『本当にいいのか?』

『お前は本当に帰りたいのか?』


 今に至るまで、何度も繰り返した自問。

 その度に、俺は自分にこう自答した。


『これ以上、苦しみたくない』


 本気で帰りたいと思った主な理由は苦しみからの解放だった。

 俺は何に苦しんでいるのか。

 要因は複数あるが、やはり根底として大きいのは友の存在。

 記憶を覗けば、いつだって隣には笑い合える親友が視界に映る。

 しかし、彼はもうこの世界には存在しない。

 死を迎え、魂なき器を埋葬し、弔ったのは自分。

 もう二度と意志や言葉を交わす事の出来ない哀しみに耐えながら最期を見届けたという現実が、この世界でのこれから先の未来をどうしたって拒絶する。

 例え、ユリナと幸せな家庭が築ける世界が待っていようとも……これ以上、俺は一歩も前に進める気がしなかった。

 過去を振り返ってばかりの日々に、区切りを付けるべく出した答えがこれだ。


「俺は帰る。元の世界に戻って、あの日常を取り戻す」


 今更、変えるつもりはない。

 これが間違っていようが、なかろうが。


「そう……ですか」


 その返事を聞いた少女は自身の中に溜まっていた感情が抑えきれなくなり、溢れ出た想いに任せ、胸へと飛び込み顔を埋めた。肩を震わせ、嗚咽を交えながらも最後の時間を大切に過ごそうとする。

 こんな感傷的になるユリナは初めて見た。

 出会った当初の彼女は凍りの女王の如く、表情に色がない頭の硬い女という悪い印象であった。

 仲間が傷つき、殺され、全員が窮地に立たされても弱音を吐かず、勝利のために最も打算的な作戦を取る考えとは対照的な俺はよく意見のぶつけ合いをしていた。この世界に俺を呼び出した張本人である彼女が毛嫌いする素振りを示したりしていたことから、よくいがみ合ったものだった。

 だが、それもいつの間にか雪解けし、今では全く別の感情へと変わっていた。


「ユリナ。俺、お前と会えて嬉しかった」


 その言葉に反応した少女は少し泣くのを抑え、耳を傾けた。


「本当に楽しかった。この世界でずっと一緒に生きていければもっと楽しいこともあるかもしれない」

「なら……」

「でも、それは出来ない。帰ると決めってしまった以上、俺は帰る。元々、そういう…約束だったし」

「………」

「だから、最後に一つ伝えさせてくれ」


 ユリナの肩を掴み、胸から離す。普段なら見る事のない赤く腫れた泣き顔を見てクスリと笑む。

 初めて見た少女のこんな表情に嬉しくも寂しい感情を織り交ぜながら、俺はずっと抱いていた想いを伝えた。


「好きだった」

「………」

「初めて会ったあの日から、ずっと好きだった」


 その言葉を聞いたユリナは少し俯く。

 けど、嬉しそうだった。

 この想いが一方通行ではないと知り、深く安堵したのだ。


「それじゃあ、いくよ」


 草原の中に続く一本の道、その奥には古びた転移門が立っていた。

 石碑に似た石造りの門は何十年、何百年と異世界を繋ぐ『門』の機能を果たしている。

 その門を使える人間はごく僅か、門自身が認めた者でない限り一切反応を示さない。

 そんな、高原の転移門が異世界の人間が持つ魂に反応し、再起動。

 二本の柱の下で広がる魔法陣から淡い光粒が集まり、円(サークル)を形成。


「あの中に飛び込めばいいのか」


 突如として生じた空間の穴を見つけ、真っ直ぐに向かう。

 その現象を悠馬同様に観測したユリナは右手を強く握り締め「やはり、鍵は悠馬様でしたか」苦々しい表情でそうポツリと呟く。


「ごめんなさい。まだ私は……」


 力を緩めた右手を高々と挙げた。それに応じて、野に身を潜めていた数名の魔法士が透明化(インビジブル)を解除し、次々に姿を晒し出す。一同、事前に準備していた魔法を発動させ、号令を発する手が勢いよく振り下ろされると一斉に悠馬の前方へと向けて放つ。

 そんなことに気付かず目前に迫る魔法陣に飛び込もうとした次の瞬間……ヒュロロと空を割く音が響き、視界の端に炎の玉が高速で飛んでいくのが映った。

 違和感に気付き、慌てて立ち止まる。


「なんだ?」


 敵襲か?!

 この三年間に渡って培われた感覚が鋭い反応を示すも、直ぐにこれが自分に向けられたものではないと分かる。


「……嘘だろ」


 身を戦慄させる程の嫌な予感が最悪の事態を想定するも遅し、立ち止まった直後……石造りの転移門に向かって炎弾が集中砲火し、炸裂。平穏な草原に不相応な激しい爆発音と衝撃が舞い、転移門を無惨にも破壊した。

 現実を目の当たりにし、糸の切れた人形の如く崩れ落ちた俺は思考を空にしたまま静観していた。


「……」


 その事実を突きつけられ、困惑のあまり周囲を見渡す。

 いつの間にか姿を晒し、申し訳なさそうな顔で王国の魔法士兵団が覆い囲む形で布陣していた。


「なっ、どういう事だ?なんで……」


 そこで後ろを振り返った。

 さっきの寂しそうな表情から一転してユリナは少し意地を張ってみせる。


「私は嫌です」

「はい?」

「悠馬様はぜーったいに帰しません!」


 そう高々と声を上げて宣言したユリナに対して、激しく混乱した。


「話が違うんですが」

「嫌です」

「いや、約束……」

「嫌なものは嫌なんです!」

「……?」


 もう、訳が分からなかった。

 子供の様に駄々を捏ねるユリナは今までに見たことが無い。

 彼女の取った行為は紛れもなく暴挙。

 色々と反論を唱えたく思うが、今は俺の頭が現実に全く追い付いて来ない。


「なので、今日の所は王宮に帰りましょう」

「………」


 突然の掌返しに青年は頭が真っ白になった。

 帰れなくなった。

 その事実はあまりにも変え難く、衝撃的すぎる。

 この世界から離れる気でいたせいか余計にショックがデカい。


「帰りたかったのに……帰れなくなった」

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