第9話 「おい杉本」
「おい杉本」
リングの奥にいる及川が、杉本を呼んだ。
“え?今コイツ、私の名前呼んだのか?”
杉本が及川を見る。
「杉本でいいんだよな?名前」
杉本の目を見ながら及川が言う。
「なんでやり返さないんだよ、お前」
立て続けに及川が言う。
及川の言葉には
なにか理由があるのかという疑問と
やられているのにやり返さない事への苛立ち、
ふたつのニュアンスが含まれていた。
杉本は黙っている。
黙って及川を睨みつけた。
知った風な口聞きやがって。
お前に何がわかる。
部外者のお前に、何がわかるってんだ!
杉本の心は怒りで一杯になった。
杉本の怒りなどお構いなしに
さらに及川が杉本を追い詰める一言を発した。
「お前、女子プロレスラーじゃないの?」
及川は、本当に疑問に思って口にした。
てっきり選手かと思ったこの女は
もしかすると練習生、あるいはサポートスタッフとかで、
自分が勝手に勘違いしてしまったのかもしれない。
なんだかやれそうな雰囲気を持っていたので、
つまり、女子プロレスラーの風格を持っていたので、
やりたくなってちょっかいを出してはみたものの
弱い者いじめをしてしまったのかもしれないと
及川は申し訳なくなって杉本にそう尋ねた。
これを聞いて杉本がキレた。
この野郎!
舐め腐りやがって!
小さいからって舐めてんじゃねえ!
弱いからって舐めてんじゃねえ!
女狼會のプロレスを舐めんじゃねえ!!
杉本は及川の目を睨みながら
むくっと立ち上がると
いったん二三歩下がりロープに身体を深くめり込ませた。
その反動を利用して、リングの反対側のロープ付近にいる
及川めがけて一気に駆け出した。
疾い。
反動を完全に利用し及川のすぐ目の前まで距離を詰める。
及川まで残り数歩のところで一瞬かがんだかと思うと、杉本は一気に跳んだ。
ダイナミックで、高くて、そして、美しい跳躍だった。
まるでダンクシュートをするバスケット選手や
スパイクするバレーボース選手のようだ。
いや、違う。
杉本の動きは
人間と言うよりももはや動物に近かった。
睨みつけながらすごい疾さで走り
高く跳んで獲物に襲いかかる。
しなやかで力強いその姿は
ネコ科の動物、さしずめピューマのそれだった。
これほどの跳躍は簡単には成せない。
速度をつけて走った後に一旦かがんで身体を前に丸め
全体重を載せた両足で踏み切る事で
杉本は走る力を、止まると同時に、飛ぶ力に変えたのだった。
跳躍の最高到達点に達した時
杉本は及川を見下ろしていた。
杉本は飛びながら左腕を伸ばし、かつ
左半身全体をぐいっと後方にひねり
空中で半身になって及川に体ごと飛び込んだ。
及川と身体がぶつる瞬間、杉本の左半身が一気にもとに戻る。
身体の戻りと連動してものすごい勢いがついた杉本の伸び切った左腕が
及川を捉えた。
杉本のイメージでは、及川の首か胸上部へ
水平一直線に自分の左腕を当てるつもりだった。
完璧に捉えたはずだったが、
あまりにも高く飛びすぎたのか
杉本の腕は及川の首の更に上を行ったために
腕ではなく掌底が及川の顔面の中心、鼻に炸裂した。
バチーンという轟音とともに
及川の鮮血がほとばしる。
及川に一撃入れながら
及川を通り過ぎた杉本は
及川のすぐ後ろのロープにしがみついて止まった。
及川と杉本が、一、二歩の距離で
背中合わせの状態になっている。
鼻から血を滴らせながら、その場から一歩も動かない及川。
ロープにしがみついたまま、息を切らしリングの外の宙を見つめる杉本。
くそっ!
何やってんだ私は。
このイカレ野郎に
ラリアット一発ぶちかましてやるつもりだったのに
殴っちまった。
まあいい。
なんかちょっと、スッキリしちまったわ。
後は煮るなり焼くなり
どうとでもしやがれ。
背を見せたままの杉本。
背後から蹴られようが殴られようが
もうどうでもよかった。
「っつー」
と言いながら首を左右にコキコキ振る及川。
「なんだよ、いいもん持ってんじゃん」
血だらけの顔でにやりと笑う。
及川の目は、由鬼那の目を見ている。
そう言うと、ポンと左手で背後のロープに捕まっている杉本の尻を軽く叩いた。
「タッチな」
杉本にそう言うと、自分の顔の血を手で拭いながら、
及川は由鬼那の方へかろやかに歩き出した。
その顔はあきらかに笑っていた。
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