第5話 二十年目

「お母さんはお父さんと喧嘩したことある?」

「そりゃあるわよ」

「え、なんで? お父さんってあんまり喋んないからそういうのないのかと思ってた」

「あの人喋らないけどわかりやすいじゃない」


 台所で皿を洗う私に、食後の珈琲を淹れている母は言った。洗剤の香りの中に芳ばしい香りが割り込む。

「うーん、未だに私にはよくわかんないんだけど」

「まだまだお父さんレベルが低いのね。なに、彼氏と喧嘩でもしたの?」

「違うし。ふとお父さんとお母さんが喧嘩してるの見たことないなあと思ってさ」

「二人でぶつかった時を喧嘩って言うなら最近はないわねえ。一方的に私が捲し立ててるのはあるけど」

「お父さんが心配になってきた」

「あの人はいつも元気そうだから大丈夫よ」

 母は笑いながら三つのマグカップにコーヒーを注ぎ、その内ふたつにミルクを入れた。父はブラック派だからだ。

「最後に喧嘩したのはあんたが生まれた時かな」

「私が生まれた時?」

「そう。あんたの名前を『みく』にするか『みそら』にするかで一週間くらい喧嘩したわ」

「長くない?」

「長くないわよ。一生の問題なんだから」

 私は洗い終わった食器を水で濯いで、水切りカゴに入れていく。

「どうやって決着したの」

「あんたに決めてもらったのよ」

「はい?」

「赤ちゃんのあんたに交互に名前を呼んでみてリアクションの良かった方を採用することにしたの。みくって呼んだら、あんた満面の笑みだったのよ」

 母は勝ち誇るようにそう言った。いやなにその決め方、雑じゃない?

「お父さんも最初は悔しそうだったけど『みくって呼びやすいな』って納得したみたい」

「うーん、まあいいけど」

 私は食器を全て水切りカゴに移してスポンジを洗った。思わぬところで私の命名秘話を訊いてしまったが、私はそれより驚いたことがある。

「じゃあそれから二十年くらい喧嘩してないの?」

「まあそりゃあ小競り合いみたいなのはあったけど大きな喧嘩はあれだけね。お父さん、大抵のことは折れてくれるから」

「それすごくない?」

「そういう人なのよ。前に進むための喧嘩しかしないの」

 母はお盆に三つのマグカップを乗せて持ち上げた。マグカップから立ち上る白い湯気が揺れて消える。

「だからあの人と結婚したのよ」

 母は勝ち誇るようにそう言った。


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