エルとザカリア

「ヴィンス?」

「すでに勘付かれていた」

 たった一言告げて、ヴィンスはベッドから立ち上がると、部屋から出ていく。

 その様子から何か異変が起きたことはわかるが、俺には一体何があったのかはわからない。同じようにベッドから降りると、ヴィンスの後を追った。

「どうかしたのか?」

 彼はリビングに備え付けられている棚を開き、その中の金庫から、何かを取り出しているところだった。

「ユージ、一刻も早く、ここから逃げるんだ」

 そう言いながら、こちらを振り向いた彼が差し出してきたのは、俺の携帯電話を含めた、荷物とコートだ。ノラに昏倒させられた時に取り上げられていたものだが、こんな所にしまっていたのか。

「逃げるって、何から」

「キャプターが近くまで来ている」

 押し付けられるままに荷物を受け取った俺は、彼の予想外の言葉に目を瞬いた。

「どうしてそんなことがわかるんだ」

「神同士はある程度近づくと、お互いの位置を把握しあえると話したよね。それはキャプターも同じなんだ。だけど、キャプターの発するオーラはとても弱くて、至近距離まで来ないとわからない。僕が彼らの接近を感じられたということは、もう一刻の猶予もない」

 確かに先日、俺はヴィンスから神のオーラのことは聞いている。ほとんどの人間はそもそも神の存在に気づいていないし、信じていたとしても、神と人間の区別はつかない。しかし神は、神と人間の違いをすぐに判別することができるという話だった。

 確か、距離にして三キロ圏内に入ると、なんとなくいる方向がわかる程度のもの、と言っていた。つまり、ミミサキ市内に神がいたらわかる訳だ。

「なんで俺が逃げなきゃならない」

 キャプターの仕事は神の捕獲だ。ならば逃げるのは、俺ではなくてヴィンスの方だろう。俺は疑問を抱えたまま、ヴィンスに急かされるままに着替え、渡されたコートを羽織った。ここに来た時と全く同じ格好だ。

「キャプターは政府の裏仕事を請け負う。神の存在や、エネルギーの真相が明るみに出る可能性があれば、人間だって躊躇なく殺す。だから、ここから逃げて、僕の話したことは全て忘れるんだ」

 背中を押され、追い立てられるまま、家の奥の扉へと向かっていった。俺は結局、監禁されている間、一度も逃げ出そうとは試みなかった。だから、この扉に近づくのは初めてだ。

 自分の体を壁のようにして、俺を扉の方へと押しやりながら、ヴィンスが扉の鍵へと手を伸ばす。

「だったら、ヴィンスも一緒に」

 その手首に手をかけ、俺は彼の顔を真正面から見つめる。しかし、ヴィンスは眉を寄せ、ひどく切ない笑顔を浮かべた。

「キャプターは、僕の気配を追ってきているんだよ。僕はもう逃げられない」

 ヴィンスが言い切ったその時。俺の背後、扉の向こう側で、金属をこすり合わせるような物音がした。誰かが向こうから、この扉の鍵を開けようとしている。

「遅かった」

 舌打ちでもしそうな勢いでヴィンスが呟く。彼は扉の鍵をそのままに、今度は俺の手首を掴んでリビングの方へと走った。

「いいかいユージ。君は誘拐犯である僕に捕まって監禁されていた、何も知らない刑事だ。何を問われても、僕が神だということ、神が存在すること、僕が教えた全てを忘れてくれ」

 扉の向こう側へ聞かれないようにするためだろう。ヴィンスは囁き声で捲し立てる。

 リビングの棚からまたローブを引っ張り出して、出会った初日の時のように、俺の手首を縛っていく。手を振り払い逃れようとしたが、俺の体はぴくりとも動かなかった。

 俺の本能は、ヴィンスには逆らえない。

「ヴィンスはどうするんだ。このままじゃ俺は……」

 このままでは俺は何もしてやれない。そう声を荒げようとしたが、ヴィンスは俺の唇の前に指を立てた。ロープを縛り終え、優しく微笑む。

「ユージと過ごした時間、すごく楽しかったよ」

 彼の言葉の響きは、別れの挨拶のようだった。

 瞬間。バンと大きな物音を立て、扉が開く。

 部屋の中へと入ってきたのは、スーツの上にコートを羽織った、男女の二人組だった。キャプターとはどんな化け物かと想像していたが、見た目は俺と同じ刑事のようだ。

 ヴィンスが立ち上がり、二人の方へ冷えた表情を向けたその時。

 女が腰のホルスターから拳銃を抜き、引き金を引いた。

 サイレンサーが装着された、警察標準装備の拳銃は、まるで空気が抜けるような音をたてて。放たれた銃弾はヴィンスの左胸を貫き、体が仰け反り、床の上へと倒れていく。

 その光景はスローモーションのように俺の網膜で再生されて。


 思わず声を上げそうになったが、奥歯を噛み締めて耐える。

 女の握る銃口は、今度は俺の方へと向いていた。

「……いくら刑事を攫った一級犯とはいえ、犯人をいきなり射殺とは、手荒ですね」

 口の中がカラカラに乾燥していくのを感じながら、何とか平静を保って言葉を紡ぐ。俺の言葉に、女の細い眉が、片方だけ上げられた。

「お前は?」

「俺は本庁捜査一課所属ツキ・ユージ警部補です。ミミサキ市児童連続誘拐事件の捜査に当たっており、犯人を突き止めたが返り討ちにあい、こうして捕まっていました。情けない話ですが……救援に感謝します」

 震えそうになる声を抑え、俺は女を見ると、口角を上げて無理やり笑みを作る。女は銃を構えたまま、俺を見据え微動だにしなかった。その奥で、倒れたヴィンスを確認していた男が、女に近寄る。

 男が女の耳元で何か囁く。二人の身長は一七〇数センチ程で揃っており、年齢は俺とあまり変わらなさそうだ。女は肩ほどまでの髪を後ろで無造作に括っていて、男の方は、スクエアの銀縁眼鏡をかけていた。

 男の囁きに納得したように、女がようやく銃を下げ、ホルスターにしまった。代わりに俺の方へと近づいてきたのは、嘘くさい笑顔を浮かべた男の方だ。

「ユージ警部補、ご無事でしたか、災難でしたね」

 男はそんなことを言いながら、俺の手首を縛っているロープを解いていく。

「あなた達は? どうやら本庁の者ではなさそうですが」

「俺はエル、彼女はザカリアです。本庁の中でも、政府直属の特級事件対策班におりますので、ご存知ないのかと」

 そう言いながら、エルは俺の目の前に、警察手帳をかざして見せた。

「この男は誘拐とは別の事件で、特級犯罪者として指名手配されておりまして。ミミサキ市に潜伏しているとの情報があり、俺達が派遣されて来ました。この場での射殺も、許可が出ているものですので、ご安心ください」

 腕が解放されて、俺はロープで縛られていた、自分の手首を擦った。見れば、ごく短時間だったのに、締め付けられすぎて手首に赤い痕がついている。初日縛られた時は、こんなことはなかった。よっぽどヴィンスが慌てていたのだ。

「ああ……特級事件対策班。そうですか、なるほど」

 頷きながら、俺は苦々しいものを感じていた。

 特級事件対策班の存在は、昔から知っている。その名の通り、特級犯罪を専門に扱う特別なチームだ。同じく本庁に本部があるが、全く交流がないので、謎めいた印象はあった。捜査一課で扱うことはない特級犯の正体がわかり、自分が今まで何も見ていなかったことを痛感する。

「ところであなた、この男から、何か聞きましたか」

 エルに問いかけられ、俺は顔を上げた。表面上は愛想笑いを浮かべているが、眼鏡の奥から、冷えた眼差しが俺を捕らえていた。

「いえ、何も」

 そう答えてから数秒。

 部屋の中に沈黙が落ち、やはり誤魔化しきれなかったかと危惧した。が、張り詰めた緊張を破るように、エルが手を上げ、声を明るくする。

「そうですか。では、この男の処理は俺達の方でやっておきますので、ユージ警部補は本庁へお帰りください。お疲れ様でした」

 エルから気軽い様子でぽんぽんと肩を叩かれ、この場から出ていくことを促された。俺の視線を遮るように、目の前にはエルが、その奥にはザカリアが立って、ヴィンスの姿を見えないようにしている。

 促されるままに踵を返した時。

「……ぅ」

 床に、仰向けに倒れたままのヴィンスが、呻いた。

 先程放たれた銃弾は、確かにヴィンスの左胸を貫き、血を溢れされていた。あの位置を撃たれたら、普通の人間であれば即死だ。けれども、神があれしきのことで死ぬことはないらしい。ひどく安堵した。

 そんなヴィンスの息の根を止めるように、ザカリアが再度拳銃を抜き、彼の胸へと引金を引く。

 空気を掠れさせるような射撃音が、二度三度と部屋に響いて、俺は――。

 拳を握っていた。

 それは突き動かされるような衝動だった。

 振り向きざま、エル目掛け拳を突き出す。

 固く握った拳が顎にクリーンヒットする寸前で、彼の出した掌が、それを阻んだ。俺の全体重が乗った殴打を抑え込み、拳を掴んだまま、俺を冷たく見据える。

「何をしているんですか? ユージ警部補」

 早鐘のように心臓が鼓動している。冷や汗が、こめかみを伝って顎に垂れてくるのを感じた。様々な思考が頭の中に去来する。

 エルの異変に気づいたのか、ザカリアが、再度俺へ銃口を向けていた。その彼女の足元に、ヴィンスの真っ赤な血が広がっているのが見えて。

「っははは……流石ですね」

 俺は笑った。漏れたのは、ひどく乾いた笑いだ。しかし必死だった。

「特級事件対策班の方にお会いするのは初めてだったので。不意をついたらどうなるのか、実力を確かめたくなってしまって。いやぁ参りました」

 流石、流石と底抜けに明るく褒めながら、俺はエルの肩をバシバシと叩く。

「俺もそこを目指さないといけませんね、勉強になりました。では、後はよろしくお願いいたします」

 エルとザカリアは、豹変した俺の態度に、どこか呆気にとられているようだった。

 俺の行動は相当怪しかったと思う。だが結果だけを言えば、彼らは俺を引き止めることも、背後から撃ち抜かれることもなかった。

 俺はいそいそとその場を去る。

 作り笑いの後に浮かんでいた自分の表情は、どんなものだったのか。ただ、強く下唇を噛み締めていた。

 断腸の思いというのは、こういう時に使うのだろう。

 胃の奥が重く、胸がいっぱいで、苦しくて、呼吸すら上手くできない。目にしたヴィンスの血の赤さだけが、いつまでも脳裏に焼き付いている。

 二人の手には拳銃があり、俺は丸腰だ。ましてや、二人は政府の人間で、その任務についているだけなのだ。社会的常識で言えば、ヴィンスは犯罪者である。俺は刑事だ。どちらが正しくて、何をすれば良いのかもわからない。この場で俺にできることはない。それが、俺が下した結論だった。

 監禁されていた部屋を出て、ようやくそこが、どこだったのかを知る。窓から見える海の風景的に、どこか高台にある平屋の一軒家かと思っていたが違った。

 数日ぶりに冷たい外気を吸い、建物を見上げる。俺とヴィンスがいたのは、トライデア・ホテルの一室だった。

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