第四章

缶コーヒー

 ビルの間を吹き抜けていく、風の冷たさに首を竦める。

 季節は少しずつでも春へ向かっているはずなのに、ミミサキ市から戻ってきてみれば、デンメラはひどく寒かった。向こうに行った時はあまり感じなかったが、やはりかなり気温差があったようだ。

 俺は目の前を歩くシンさんについて行きながら、都内の繁華街で聞き込み周りを続けていた。先日、この繁華街の路上で、通り魔殺人事件が発生したのだ。白昼の犯行だったにも関わらず、目撃証言が集まらなくて、捜査は難航している。

 ただ、俺がこの聞き込み捜査に参加したのは今日が初日だ。

 監禁されていたトライデア・ホテルから出た後、俺はミミサキ署へと向かった。ノラは俺と捜査中ということになっていて署にはおらず、俺はニシキ課長に、捜査の終了を知らせた。

 つまり、誘拐犯は、実は他の事件で特級犯として指名手配されており、犯人の男は特級事件対策班によって射殺された、という表向きの事象を説明したのである。

 俺はミミサキ市を去る前、ノラに電話だけかけた。彼女には裏事情も含めて全てを話したが、俺の説明を黙って聞き終えた後、彼女から返ってきた言葉は「そうですか」だけだった。

 他に俺に何か言いたいことや、聞きたいことがあったのかもしれないが、彼女はその全てを飲み込んだようだ。電話はプツリと切れ、その後も結局、彼女と顔を会わせることはなかった。

 本庁に戻ってきた俺は、それから三日間、報告書の作成に追われた。全て本当のことを記すことはできなかったが、提出した書類は問題なく処理され、一〇年に及んだミミサキ市児童連続誘事件は、犯人死亡という形で、完全に終わった。

 そうして今日、俺はまた、シンさんの相棒として別の事件の捜査に加わっている。

「どうしてこうも、目撃証言が出てこないんですかね」

 俺達は今また、事件発生場所に程近い、雀荘での聞き込みを終えた。狭く急な階段を降り、雑居ビルの外に出ながらぼやく。

「通り魔って言っても、プロの犯行かもしれねぇな。刺された被害者も不動産会社の社員だが、実際はマル暴絡みだろう」

「なるほど。実際目撃していても、面倒を避けて黙っている可能性もあるんですかね」

「かもな」

「次はどこへ聞き込みに行きますか」

 指示を仰いだが、シンさんは雀荘の前に設置された喫煙所に気づいたようだ。

「ちょっと休憩していいか」

 人差し指と中指を唇に当てる仕草をしながら問いかけられ、俺は頷く。立ち食い蕎麦屋で昼食をとってから、もう三時間歩きっぱなしだ。

「コーヒー買ってやるよ」

「ありがとうございます」

 いつもの調子で提案されて、遠慮もせずに応え、シンさんの後を追いかける。彼は、喫煙所の横にある自動販売機に硬貨を投入した。俺はいつものように、下段にある缶コーヒーのボタンを押す。

 ガコンと落ちてきた熱々のスチール缶を拾い上げ、ハンカチで包み込む。先に灰皿の方へと向かっていたシンさんの横に並ぶと、タブを立てる。

 嗅ぎ慣れた香りが立ち上る。

「ミミサキ市はどうだった」

「コートは必要でしたけど、こっちより、だいぶ暖かかったですね」

 いつものライターで、煙草に火をつけはじめたシンさんの横で、やたら熱い缶の縁に唇を付ける。こくりと喉を鳴らして、コーヒーを飲んだ。

「あそこは海が見えるんだろう。俺なんか久しく見てねぇからな、綺麗だったか」

「ただの観光だったら良かったんですけど」

「ああ、犯人に監禁されてたってんだから、災難だったな」

「そうですね」

「大事なくて俺も安心したぜ」

「幸いなんともありませんよ」

「お前からの電話が、途中で切れたから違和感を覚えてよ、課長に……」

 そこで不意にシンさんの声が途切れ、俺は顔を上げた。彼は驚いたように目を瞬かせ、俺の方をじっと見ていた。

「ユージお前、なんで泣いてんだ」

 シンさんから問いかけられ、俺はその時はじめて、自分が涙を流していることに気づいた。しかも、一粒ぽろりという量ではない。止めどない涙が、ひっきりなしに溢れては頬を濡らして、顎から垂れていく。

「あれ……」

 手の甲で目元を抑え、思わず笑う。だが、その笑う息が震えていることに、今度は自分でも気づいていた。

 どうしてだろう。俺は、もう日常に戻ってきたのだと思っていた。ミミサキ市であったことは全て忘れて、いつものように事件解決に尽力していくのだと。俺は刑事の仕事にやりがいと使命を感じていた。悪者を捕まえるのが、俺の仕事だ。事件が終わると、世界をまた一つ平和にできたのだと、達成感を覚える。

 だけど、このコーヒーを口に含んだ瞬間、俺は痛感してしまった。好きだったはずの缶コーヒーが、あまりにも不味く感じて。

 この缶コーヒーには、ヴィンスが淹れてくれていたコーヒーの、香りも深みも旨味も、何一つない。コーヒーの香りがする、癖のある苦いお湯っていう感じだ。

 今の俺は、ミミサキ市へ行く前の俺とは、決定的に変わってしまったのだ。

「シンさん、俺どうしたら良いんですかね」

 震える声のまま、弱音を吐き出す。足が震えて、その場にしゃがみ込んだ。

 思い出すのは、あの時胸を撃ち抜かれたヴィンスの姿。流れた彼の血。響いた銃声。幾度も交わした言葉の数々。穏やかな声。おいしかった手料理。コーヒーの深み。優しい笑顔。そして、頭を撫でた手の感触。

 堪えきれずに、嗚咽が漏れる。

 彼はあの後どうなっただろう。神が不死身なら、あれだけの銃弾を浴びても、生きているはずだ。どこかの発電所に囚われ、今この瞬間も、エネルギー源にされているのだろうか。俺達が日々、何の罪悪感も覚えずに使っている電気のために。

 神は痛みを感じるのだろうか。非道いことをされていないだろうか。あの途方もなく優しい男が。

 俺の頭を、くしゃりと撫でる感触がした。ヴィンスのものとは違う、荒っぽい、しかし温かい手。シンさんの手だ。

「したいようにしたら良い。お前はどうしたいんだ?」

 シンさんには、何のことか全くわかっていないはずだ。彼は俺からの電話を不審がり、上長に報告をした。ただそれだけだ。それがどう回り回って報告が為され、神がいると断定されて、特級事件対策班が派遣されてきたのかはわからない。

 或いは俺の捜査など関係なく、前々から怪しがられていて、たまたま見つかっただけかもしれない。

 ただシンさんは、突然泣き出した情緒不安定な部下の言葉を、正面から受け止めてくれるようだ。

 彼の言葉に促され、涙を流したまま考える。俺は。

「ヴィンスを、助けたい」

 この願いが、ひどいエゴだということはわかっている。囚われている神は、ヴィンスだけではない。そして政府に神が囚われているおかげで、今人間は、高度な文明を享受している。その世界を壊そうというだけの度胸は、俺にはない。

 ただ、俺はあの男の優しさを知ってしまった。犯人とか刑事とか、そういうことすら飛び越えて、人間でもないあの男の人間味に惹かれてしまったのだ。

「そいつはどうやったら助けられる?」

 シンさんは再度、静かに問いかけてくる。必死で嗚咽をおさえ、俺は手の甲で涙を拭った。

「情報がなさすぎるので、まずはミミサキ市で、俺と一緒に捜査をしてくれていた、ノラという子と話す必要があると思います。あの子なら、俺が知らない情報を、何か知っているかもしれません。あと」

 俺は左胸に手を当て、ジャケットの内ポケットに入っている、警察手帳を布地越しに握る。

「刑事をやめる覚悟を決めたら」

 ヴィンスを助けるということは、エル、ザカリア等の特級事件対策班だけではなく、政府に喧嘩を売るということだ。

 今はどうやれば良いのか見当もつかないが、ヴィンスを助け出せたとする。そこからさらに、キャプターをオーラで引き寄せてしまうヴィンスを連れて、逃亡も成功させなければならない。でなければ、世界の真実を知っているということがバレて、俺も死ぬ。だが俺には、自分の命を賭けること以上に、二度と刑事には戻れないということの方が重く感じられていた。

 しゃがみ込んだまま視線を上げると、シンさんは俺の最後の言葉に眉を寄せていた。

「お前がそんなことを言うなんて、よっぽどのことだな……ミミサキ市で、何かあったんだな?」

 問いかけられ、頷く。しかし、その先を説明することはできない。真実を話せば、家庭を持つシンさんまで、巻き込んでしまうことになる。俺の沈黙に溜息をついてから、シンさんは手を差し伸べてきた。

 その力強い手を握って、引っ張られるままに立ち上がる。

「俺はお前という男のことを、よくわかっているつもりだ。お前が帰ってきてからずっと、魂が抜けたような顔をしていたのにも気づいていた。それから、お前が刑事という仕事にかけてきた想いの強さも」

 掴まれた手に、力が籠もる。

「真に正しいと思うことをしろ、ユージ。お前はそういう時が、一番輝いている」

 正面から視線を交わし、告げられる言葉に胸が熱くなる。再び涙が込み上げてきそうになって、奥歯を噛みしめた。

 手がゆっくりと解かれる。

「落ち着いたら、連絡しろよ」

「はい、必ず」

 その会話を最後に、もう言葉はなかった。シンさんの横をすり抜け、俺は歩き出す。

 再びミミサキ市へ戻るため。ヴィンスを救い出すために。

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