第6話一線を越えた人たち

私も正直心ひかれる男性が周りにいないわけでもない。でも、配偶者がいて、子供を扶養している以上、本能と欲望のままに行動することは許されないことは自覚している。そのため、自らが法律的側面から不倫の始まりと決めている一線は越えないという掟は守り続けている。

では、実際にそれを容易に突破してきた人たちの心理はどんなものなんだろうか。配偶者や子どもを裏切っているような罪悪感は本当になかったのだろうか。

『覚えていない』

これが一つの解答らしい。そんなはずはないでしょ、と思っていた。でも、それに対しても恋の魔力的なものの存在で説明がつくのかもしれいと思い始めた。論理的解釈だけで配偶者以外の人と深くつながろうとする心理は説明できないのだ。きっとここでもエモーショナルな要素が強く関わっていて、ひどく高揚した気分でいたことで、後々言葉で説明できるような心理的状況ではなかったと推測できる。

エモーショナルな要素と類似して本能的要素を一線を越えたときの心理の説明に使う人もいる。

『求められるときにその使命を果たさなければ、すぐに老いてしまうから』

言いたいことは分かる。生涯現役とまではいかないとすると、確かにその経験ができる時間は限られている。でも、この発言はあまりに動物的で人としての尊厳に欠けてはいないだろうか。恐らくこの考えをもっている人はそこまで思考をこらすことはないのだと思うが、どこか自分さえよければそれでいいという感じを匂わせていると感じるのは私だけだろうか。自己利益実現のための深い付き合いということなのだろうか。いや、考え方によってはこの少子化の時代になくてはならない見解なのかもしれない。ひょっとすると、こんな時代の救世主、ヒーローになるべき存在なのかもしれない。しかしながら、そこで生まれた命を育むべきフィールドの整備は全然追い付いていない。よって、その見解が推奨されるのはまだまだ先の話になると思われる。

より人間みを感じさせる理由もある。

『自分が自分でいるために必要なこと』

こちらは先述の動物的一面からの見解と比べるとパーソナリティーの形成や維持に関わる内容で、「人とは何か」についても考えさせられる理由ではないだろうか。一線を越えることは、もはや自分という個人を成り立たせるために必要不可欠な要素なのだという。つまり、その要素がなければ自分が自分でいられないのだ。それは大変だ。自己崩壊してしまっては困る。これに対して議論を繰り広げるには、もはや道徳的問題のみではなく心理学的問題、倫理的問題など、とにかく複雑極まりないものを取り上げてくる必要があると思われる。これだけでまた、別のエッセイが書けるのかもしれない。

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