第2話 あと少しで死ねたのに


今回は本編プロローグの直前にあったエピソードです。



 2


 ひらひらと桜の花びらが舞い落ちる。

 一枚、また一枚。

 手のひらに落ちてきた花びらをまじまじと見ている少女がいた。


 彼女の名前は、一之瀬月美。


 朝早くから家を出た一之瀬は桜並木で立ち止まっていた。空はまだ薄暗く、彼女の着ている白いカーディガンは本来の色とは程遠い。


 一之瀬が朝早くから外へ出るのには理由がある。


 家族が起きる前に家を出れば、父親に怒鳴られることもない。それに通学時間になってから家を出たら、同級生と鉢合わせになる可能性が高い。


 だから、太陽が昇る前に人目のつかない場所に逃げ込む必要があった。


 この日も通学時間が過ぎるまで公園のトイレに隠れていようと、朝早くから家を出ていた。


 早朝なこともあって、外を歩いている人は少ない。しかし、出来るだけ人の少なそうな道を選んでも犬の散歩やジョギングしている人とすれ違うことになる。


 一之瀬は人とすれ違うたびに顔を合わさないように視線を落とす。ただでさえ昼間でも他人の視線を気にするというのに、薄暗い時間帯だと余計に怖く感じる。


 舞い落ちる桜の花びらを見て気持ちが少し和らいだのも束の間、後ろから新聞配達のバイクが近づいてくる音がして慌てて足を動かす。


 駆け足で向かったのは団地に隣接された公園。伸び切った雑草の上に塗装の剥げた滑り台、錆びついたブランコが申し訳程度に置かれている。近くにもう一つ公園があるが、一之瀬が辿り着いた公園は子供も寄りつかないような場所だった。


 いつも一之瀬はこの公園のトイレにこもって時間を潰している。電気がついていなくて不気味ではあるが、人が滅多に来ないので隠れる分には穴場と言える。


 鍵がちゃんと閉まっていることを確認してから便座に座ると、自然と涙が出てきた。こんな惨めな生活を続けていて意味があるのだろうか。心の中で自問を繰り返す。


 そうしているうちに泣き疲れてしまい、眠気が襲ってくる。普段から家ではあまり眠れていない一之瀬は睡魔に抗えず、すぐに夢の中へ。


 何度も見たことがある夢だった。病室の椅子に座っていて、ベッドの上には死んだはずの父親がいる。


 まだ一之瀬が小学生だった頃、毎日学校が終わると父親のお見舞いに行っていた。父親が亡くなってから何度もそのときの記憶を夢で見ている。


 看護師が「しっかりした娘さんですね」と言い、父親も「家ではベッタリなんですけどね」と笑いながら話す。


 一之瀬は椅子の上でぷくっと頬を膨らませるが、父親はそれに気づかないまま嬉しそうに話を続ける。


「もうすぐ中学生なのに甘えん坊のままだから心配で」


「いいじゃないですか。娘に避けられて困っているお父さんも多いんですよ」


 子供扱いしてくる二人の会話をもどかしい気持ちで聞いていた一之瀬は、看護師が病室から出ていくと「お父さん!」と声をあげた。


「余計なこと言わないでよ」と怒る彼女に対して、父親は「そんなに怒るなって」と陽気に宥める。


 じわじわと恥ずかしくなってきたのか一之瀬はベッドの縁に座り、不満げな顔で父親に軽く寄りかかった。しばらく沈黙が続いてから父親の口が開いた。


「毎日、見舞いに来なくてもいいんだよ」


 けれど、一之瀬の返事はなかった。


「病室にいても退屈だろう? たまには友達と遊んできなよ」


 一之瀬は寄りかかったまま顔を見せずに「退屈じゃない」と短く答える。


 以前も似たようなことを話していたが、そのときも一之瀬はそっけない返事をしていた。だから父親も疑問に思ったのだろう。


「友達と喧嘩でもしたのか?」


 その言葉を聞いて一之瀬の体がピクッと動いた。


 喧嘩ではないが、図星だった。この頃から友達に嫌がらせを受けていた一之瀬は誰にも相談できず、悩んでいた。


 家族に相談しようかと何度も悩んだが、入院中の父親や介護で忙しい母親を心配させたくない一之瀬はずっと隠し続けていた。


 これが夢の中だと気づいていない一之瀬は過去と同じように首を横に振ってしまう。


「なにか悩みごとがあるなら、お父さんに話すんだよ」


 そう言ってくれた父親はもういない。打ち明ける前に死んでしまった。本当は一番頼りにしていたのに。


 だからこそ、こうして父親が生きていた頃の夢を何度も見る。


 そして、起きた直後……または起きる直前にこう思う。


『あのときに言えていたら』


 まだ夢の中にいた一之瀬はようやく違和感に気づく。『あのとき』とはいつのことか。もう父親はこの世にいない。なら、今見ているのは夢。


 夢の中なら弱音を吐いても……と父親の方を振り返り、声を出そうとする。


「お父さん、あのね」


 しかし、そこに父親の姿はなく、薄汚れたドアがあった。


 一之瀬は頬についていた涙を手で拭い、また涙を流した。


 落ち着いてからトイレを出て、もう一つの公園にある時計を見ると十時になっていた。思ったより長く寝てしまっていたことに驚きはしたが、起きていても辛いだけなので、これで良かったのかもしれない。


 公園のベンチに座り、さっき見た夢の続きを想像する。もし夢から覚めていなかったら、父親はなんて言葉をかけてくれたのだろうか。


 想像したところで、誰も言葉をかけてくれない。相談できる相手なんていない。すぐに虚しくなって想像するのをやめてしまった。


 しかし、実際は一人だけ相談に乗ってくれそうな人物がいた。


 相葉という自殺を邪魔してくる男である。


 一之瀬はカーディガンのポケットから白い紙を取り出す。紙には電話番号が書かれていた。


『助けが必要なときは電話しろ』


 そう相葉に言われていたが、電話したことは一度もない。電話したところで真面目に相談に乗ってもらえるとは限らない。


 母親と継父に相談して助けてもらえなかった彼女からすれば、相葉に相談してもまた傷つくだけなんじゃないか、という恐怖心もあった。


 それでも公園に設置された電話ボックスに目が行く。飲み物は買えなくても、電話をかけられるだけの小銭は持っている。


 一之瀬はしばらく悩んだ末、ベンチから立ち上がった。電話ボックスの目の前に立ち、深呼吸をする。そして扉に手を伸ばした。


 その瞬間、子供の大きな声が聞こえた。


 驚いた一之瀬は手を引っ込めてしまい、声がした方へ視線を向ける。


 小さな子供を連れた夫婦が公園の方へ歩いてくるのが見えて、一之瀬は駆け足で公園から離れた。


 中学生がこんな時間に公園にいたら、おかしいと思われる。そう危惧した一之瀬はつい逃げてしまったのだ。


 そのまま人がいない場所を探し求めているうちに橋へ辿り着いた。


 大きな橋なのに車は全然通らず、人の姿も見当たらない。ここなら見知らぬ人と出会うことはないだろう。


 しかし、この橋は一之瀬が自殺しようとした場所であり、相葉と初めて出会った場所でもある。


 つまり、ここにいたら相葉に会える可能性があった。一之瀬は新たな行き先を考えず、しばらく橋の上にいることにした。


 下で流れている川を覗き込んだり、遠くの景色を眺めたりしながら、相葉が来ないか周りを見てみる。


 けれど、誰も来ない。


 欄干に足をかけても、相葉は来ない。いつもなら邪魔してくるのに今日に限って来ない。


 相葉に説得される度に「死にたい」と言い続けてきた一之瀬であったが、相葉が現れないことに少しだけショックを受けていた。


 欄干に寄りかかりながら、相葉から渡された紙を眺める。やはり電話するべきかと思うものの、こうして邪魔されていない状況を考えると、相談に乗ってもらえないんじゃないかと不安になってしまう。


 どうすればいいのか悩んでいると、強い風が吹いた。


「あっ」


 一之瀬の手から紙が離れ、川の方へ落ちていく。手を伸ばしても届かず、どんどん遠くへ行ってしまう。ひらひらと飛んでいく紙を見失うまで、彼女は手を下ろさなかった。


 相葉への唯一の連絡手段を失ってしまった。今日も邪魔しに来なかった。二度と会うことはないかもしれない。「邪魔しないで」と言っていたのにどうしようもないほど不安が押し寄せてくる。


 一之瀬はその場に座り込んで顔を伏せたまま、夕方まで過ごした。



 俯きながら歩いて家に帰ると、玄関で母親と鉢合わせになった。


「学校に行かないで、どこ行っていたの」


 そう訊いてきた母親は睨みつけるような視線を向けてくる。一之瀬はなにも言えず、靴を脱げないまま玄関に立ち続ける。


「お姉ちゃん達はちゃんと学校に通っているのに。フラフラ遊んでいるのは月美だけなんだよ?」


 その言葉に一之瀬は俊敏に反応した。


「ち、違う! 遊んでいたわけじゃ!」


「じゃあ、なにしていたの?」


 母親の問いかけに答えられず、ただただ悲しくなり、次第にポロポロと涙が落ちていく。


 母親がため息をつき、部屋に戻っていった後も、靴を履いたまま玄関で泣き続けた。



 翌日、一之瀬は朝から駅のホームにいた。


 自殺する決意があったというよりはどうにでもなれ、という破滅願望が彼女を動かした。


 制服を着た学生達の横を通り、後ろの方へと歩いていく。


『電車がまいります。ご注意下さい。』と発車標に文字が流れる。


 周りは見ない。あの人も探さない。少しでも気を緩めたら、また昨日と同じ時間を過ごすことになる。


 電車がホームに入ってくる直前、一之瀬が黄色い線を越える。


 しかし、電車はそのまま通り過ぎていく。


 一之瀬は自分の腕を掴んでいる手を辿りながら、振り向いた。少しだけ、ほんの少しだけホッとしたが、それが顔に出ないように不服そうな顔をする。


「危機一髪だったな」


 鼻で笑う彼になんて言うべきだろうか。「遅い」と怒りたいし、お礼もちょっとだけ言いたかった。


 でも答えは出てこなくて、やっぱり素直になれなくて、結局こう言ってしまう。



「あと少しで死ねたのに」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る