笑顔のクリスタルボウル
増田朋美
笑顔のクリスタルボウル
最近は冬が近づいたと言ってもなんだかちょっと動けば暑いなあという天気が続いている。本当に冬というのがやってくるのだろうか、不思議に思ってしまうくらいだ。こんな日々で、季節がおかしくなってしまうのではないかと、みんな考えてしまうほどだ。
その日、杉ちゃんと竹村さんは、竹村さんの知人である女性のピアニストから招待を受けて、静岡市内のピアノサークルを訪問した。まあ、簡単にいえば、竹村さんのクリスタルボウルを聞きたいということである。誰かが風のうわさで、竹村さんの事をを聞いたのがきっかけだったというが、果たして本当だろうか?
場所は、静岡市内の女性センターのようなところだった。主として女性の為のピアノサークルであるというが、数人は男性のメンバーもいた。竹村さんが、ケースにはいったクリスタルボウルを持って練習室の中にはいると、ようこそいらっしゃいました、という声がして、二人は拍手で迎えられた。
「ありがとうございます。竹村先生。今日は来ていただいて本当に嬉しいです。私、このサークルを主催しています、成瀬真希と申します。よろしくおねがいします。」
と、一人の中年女性が二人に挨拶した。一見するとなんの変哲もない女性なのだが。彼女は、杉ちゃんたちに、サークルのメンバーを紹介した。このサークルは、カウンセラー兼音楽療法家の白石未華子先生の監修で構成されている、癒やしを求める人のために設置されたという。まあ確かに、そういうものを求めて、グループとして集まる人もいるだろう。それは別に今の時代なら、珍しいことではない。
メンバーさんたちは、丁寧に頭を下げた。その中で、白石未華子先生といわれた女性は、なんとなく面白くない顔をしていた。
「よろしくおねがいします。じゃあ、竹村さんに、クリスタルボウルを演奏してもらいましょう。それでは、後は先生におまかせします。」
成瀬さんがそう言うと、メンバーさんたちは、軽く礼をして、それぞれの椅子に座った。竹村さんは、わかりましたと言って、床の上にビニールシートを敷いて、持ってきたウルトラライトボウルを呼ばれる、透明なクリスタルボウルを7つおいた。その中心に竹村さんは正座して座り、マレットを持って、ゴーンガーンギーンとクリスタルボウルを叩き始める。不思議な音だ。時々ベースになる音を残したまま、三和音を奏でることもある。お寺の梵鐘にも近い音。ゴーンガーンギーン。この不思議な音は、いずれも心にしみた。
「わあ、素敵な音ですね。本当に心がふんわりとして軽くなります。本当にきれいな音ですねえ。」
「ほんと、辛い世の中に、なんだか癒やされる音です。」
メンバーさんたちは、竹村さんにそういったのであった。竹村さんは、ありがとうございます、と言って、それぞれの人達に頭を下げた。成瀬さんは、竹村さんの演奏を聞いて、なにか思いついたらしく、こういう事を言い始めた。
「あの、竹村先生、お願いしたいんですけど。」
「はい、何でしょうか?」
竹村さんがそう言うと、
「クリスタルボウルの、訪問演奏もしてくれるのでしょうか?」
と、成瀬さんは言った。
「はい、できますよ。それだけではなく、自宅へ来てくれてもいいですし、指定のフリースペースや、喫茶店などでもやった事があります。」
竹村さんは答えると、
「はい、実はぜひ、やってもらいたい人が居るんですよ。何をしても、回復しないで、ずっと家に居るような子なんですが。どうでしょうか。彼に、クリスタルボウル、聞かせてやっていただけないでしょうか。」
成瀬さんは、お願いしますと言いたげにいった。これを聞いて、白石先生の表情が少し変わった。
「ええ、大丈夫ですよ。その方の名前を教えていただけませんか?」
「はい。私の妹の息子で、名前は須田義紀くんと言います。」
「ああ、わかりました。じゃあ、ご住所か何か教えていただけないでしょうか?」
竹村さんにそういわれて、成瀬さんは須田と呼ばれている人物の住所を急いで書き、彼に渡した。竹村さんが、住所を受け取ったのを、白石先生が、面白くない顔をして見ているのを、杉ちゃんも竹村さんも見逃さなかった。
「じゃあ、竹村先生。空いている日に来てください。彼に、ぜひ聞かせてあげたいと思っているんです。」
「わかりました。こちらの電話番号へ電話すればいいわけですね。成瀬さんからの紹介と言って。」
竹村さんがそう言うと、
「施術の当日には私も立ち会いますし、彼には私が説明をしておきますから、後は日付さえ決めていただければ。」
と、成瀬さんは言った。それが、できる限り早く来てほしいと言っているような感じだったので、竹村さんは手帳に須田義紀さんと書いた。
「それでは、できるだけ早く須田という方のお宅を訪問するようにいたしましょう。日付は、いつ頃とか、希望される日はありますか?」
と、竹村さんが聞くと、
「はい。なるべく早くお願いしたいです。でないと、義紀くんも彼のご家族もかわいそうなことになります。」
と、成瀬さんは言った。
「わかりました、じゃあ近々ですと、明日はいかがですか?」
竹村さんがそう言うと、
「ありがとうございます!義紀くんも喜びます!」
成瀬さんは嬉しそうに言った。
「明日、静岡駅までお迎えに上がります。北口の電話ボックスの前で待っていただけますか?時間は、10時でどうでしょう?」
「了解しました。その時間に静岡駅へ行きます。」
竹村さんは、10時に静岡駅と手帳に書き込んだ。
「ありがとうございます。じゃあ、その時間にお会いしましょう。よろしくおねがいします。」
成瀬さんは、頭を下げてにこやかに言った。その日は音楽サークルはお開きになり、杉ちゃんたちも、メンバーさんたちも帰ることになった。メンバーさんたちが、それぞれの持場へ戻って、代表の成瀬さんも帰っていく。白石先生が、黙っていたのが不思議だ。駅へ向かう帰り道、道路を歩きながら、杉ちゃんと竹村さんは、何か変な雰囲気あったね、と言い合っていた。
「まあこうして演奏を頼まれることはよくあることですから、気にせずに演奏に伺いましょう。なにか理由があるんでしょうね。」
「僕はそれよりも、あの白石先生と呼ばれていたあの女性の顔が気になったよ。何か企んでいるような気がするんだよね。」
杉ちゃんがそう言うと、竹村さんもそうですねといった。
「まあでも、クライエントさんは居るんですから、それはちゃんとやらないとまずいですよ。何よりも僕達がしなければならないことは、クライエントさんをクリスタルボウルで、癒やしてあげることだと思います。」
「そうだねえ。どんな人物なんだろうね。」
「大体、クリスタルボウルのヒーリングを受ける人は、体が疲れているとか、病弱であるとか、そういう人が多いんですけどね。でもどんな人でも、癒やしが必要な人は居るわけですから、その役目はしっかり果たさなければなりませんよね。」
杉ちゃんと竹村さんはそう言い合いながら、駅へはいった。駅員に助けてもらいながらホームへ行くと、目の前に電車がやってきた。二人はその電車に乗り込んで富士へ帰った。富士は代わり映えの無い田舎町だ。一方静岡は、富士よりも都会で、その分いろんな人達が住んでいるということになる。
そして翌日。約束した10時になった。どのクリスタルボウルでセッションしたらいいか、不詳だったので、竹村さんはとりあえずウルトラライトボウルを持って静岡駅へ言った。それであれば、重ねて持ち運びできるほど軽いのだ。
静岡駅はとても人が多かった。いろんな人が待ち合わせに利用している。中には重たい事情を抱えている人もいるに違いない。そんな人も抱えながら、駅は今日も稼働しているのである。竹村さんと杉ちゃんが、電車を降りて、改札口へ向かうと、
「おはようございます。成瀬です。」
と、声をかけられる。そこに居た成瀬さんは、随分早くから駅で待機していたようであった。
「おはようございます。早速、クライエントさんにお会いさせて下さい。どちらに居るのですか?」
竹村さんがそう言うと、
「はい、歩いていくと遠いので、バスで行ったほうが良いと思います。」
と、成瀬さんは二人に、バス乗り場へ行くように言った。大谷というところへ行くバスに乗っていくのだそうだ。杉ちゃんと竹村さんは、運転手さんに手伝ってもらいながらバスに乗り込み、バスは大谷に向かって走り出したのである。大谷というところは、バスで30分くらいのところであるが、駅前と比べたら、同じ静岡市とは思えないほど田舎町であった。三人は、大谷小学校という学校の前でバスを降りた。
「こちらのすぐ近くの家です。」
と、成瀬さんが案内してくれた家は立正寺というお寺のすぐ近くにある小さな家であった。でもちゃんと表札には、須田と書いてあるから、間違いは無いだろう。
「こちらの家です。」
成瀬さんは、インターフォンも押さないでどんどん家の中にはいってしまう。
「義紀くん、来たわよ。クリスタルボウルの竹村先生よ。」
そう言いながら、成瀬さんは家の中にはいって、すぐの部屋に二人を入れさせた。部屋には介護用のベッドが置いてあって、そこに年齢もわからなくなっているほど痩せた男性が、一人寝ていた。杉ちゃんたちが入ると、彼はよろよろと布団の上に起きた。
「無理して起きなくても大丈夫です。はじめまして。クリスタルボウル奏者の竹村と申します。こちらは、付添で影山杉三さん。」
「よろしくね、杉ちゃんって呼んでね。」
二人が自己紹介すると、
「よろしくおねがいします。」
と、彼は言った。その口調はたいへん弱々しかった。
「あなたが、須田義紀さんですね。お尋ねしますが、診断名はなんですか?うつ病ですか?それとも統合失調症かな?あるいは、双極性障害とか?」
と、竹村さんが聞くと、
「いえ、それが、よくわからないんですよ。ただ辛いだけで。精神科とか行って薬はもらうんですけど、なんにもよくならないし。」
と、義紀くんは答えた。
「ちゃんと病名がつかないと、施術はしてもらえないのでしょうか?」
成瀬さんが心配そうに聞いた。
「いえ、そんなことはありません。病名は、問題にならないことが多いのです。それでは、寝たままで構いませんから、クリスタルボウルの音を聞いてください。30分ほど鳴らしますが、もし途中でつらい気持ちになったら、いつでも中断してくれていいですからね。」
竹村さんは、床の上に7つのクリスタルボウルをおいた。そして、その前に正座で座って、マレットをとった。
と、其時だった。須田家のインターフォンがなった。成瀬さんが、あら、こんな大事なときにだれかしらねと玄関先に向かうと、そこに居たのは白石先生であった。
「あら、白石先生ではありませんか。こんな時にどうしたんですか?」
「ええ、クリスタルボウルなるものが、どんなものなのか、見学させてもらいたくて、来させてもらいました。」
そういう白石先生は、なんだか偉く高ぶった態度をとっていた。
「私が、今までやってきた、カウンセリングより効果があるのかどうか、確かめに来ました。」
「そんなこと、白石先生であっても、今は大事なときですから、他人に見られるというのはちょっと、、、。」
成瀬さんは困った顔でそう言っている。
「おう、誰か邪魔者がはいってきたのか?」
玄関でやり取りしている二人に杉ちゃんが声をかけた。
「どうせ、お前さんも癒やされたいんだろ?だったら聞いていけよ。中に入ってみれば?」
杉ちゃんにそういわれて、白石先生は、いわれなくてもそうさせていただきますと行って、部屋の中へはいった。
「おい、今日はもうひとりクライエントさんが居るぞ。竹村さん、こいつにも、クリスタルボウルの音を聞かせてやってよ。」
杉ちゃんに連れられて、白石先生は、竹村さんの前に座った。その座り方も、明らかに怒っているのが見て取れた。
「それでは、クリスタルボウルの演奏を始めます。目は閉じていただいてもいいですし、そのままでもいいです。演奏している様子を見てくれても構いません。少し刺激が強いようであれば、手を上げてくだされば、すぐに演奏を中断します。」
竹村さんはそう行って、クリスタルボウルを叩き始めた。ゴーンガーンギーン、この不思議な音色は何だ何だろうと思う。義紀くんは、とても気持ちよさそうにそれを聞いているのだった。
「一体何なのよ。この変な音。」
そう呟いた白石先生であるが、それでも立て続けになり続ける、梵鐘のようなクリスタルボウルの音。なんだか体が軽くなったり、ふわふわしたりするようなそんな感覚を覚えてしまうのであった。ゴーンガーンギーン、とクリスタルボウルの縁を叩くばかりではない。縁をマレットで擦って、長音を出す事もある。それに乗せて高音をゴーンガーンギーンと叩くこともある。まだ、30年くらい前に開発されたばかりの楽器だそうだが、クリスタルボウルの先祖は仏具だったという。もし、この音を聞き続けることが、お坊さんの修行だったというのだったら、たしかに立派な修行になったことだろう。それくらい体の存在や、自分の事を意識させられる音楽なのであった。
あっという間に、30分の演奏時間は過ぎてしまった。最後のクリスタルボウルを叩き終わって、竹村さんはマレットをおいた。
「わあ、素敵ですね。なんだか雲にのっているみたいで、とても気持ちの良い30分でした。本当はもっと長く聞いていたかったなあ。」
義紀くんは嬉しそうに行った。その顔が、本当に嬉しそうな顔であったため、白石先生はちょっと憎々しげなかおをする。白石先生は、何度も義紀くんのカウンセリングを担当してきて、何度も彼の死にたいという言葉を聞いてきたのである。できる限り、笑顔になってもらおうと、彼を励まし続けても居た。それなのに、彼が笑顔を取り戻してくれることは殆どなかった。でも、この竹村さんは、一度クリスタルボウルを演奏しただけで、笑顔にしてしまうとは。本当に、いやというか、憎き存在でもある。
「義紀くんの様子を拝見しますと、今のウルトラライトよりも、クラシックフロステッドを使用したほうがいいですね。」
「それはどういうものですか?」
そう発言した竹村さんに、成瀬さんが聞いた。
「ええ、最も重度な病気のクライエントさんに使用するクリスタルボウルです。あまり知られていませんが、全部が全部、同じ楽器を使用するわけではありません。重度なかたと軽度な方では使用する楽器が違うんです。重度な方には、クラシックフロステッドボウルと呼ばれる、真っ白いクリスタルボウルを使ったほうが、より精神が落ち着いてくるのではないかと思うんですよね。ただ、一つ問題がありましてね。フロステッドは、とても重いので、移動が大変なんですよ。車で持っていくならいいのですが、ここは駐車場もありませんし、バスにはとても大きすぎて持ち込めません。それはどうにもならないので、誰かに手伝ってもらうか、それか、僕の自宅サロンへ来てもらえませんか?」
「それは、女性が運ぶにはとても重いということでしょうか?」
成瀬さんは、竹村さんの発言に質問した。
「ある意味女性軽視ね。女性には運べないなんて。」
白石先生が言うと、
「そんなことはありません。ですが女性が持ち上げると、とても重いのでぎっくり腰になります。そうなられては困りますよね。女性は男性の生き方を真似しないほうがいいですよ。男性と女性は違ったほうが、いいですからね。」
と、竹村さんはこたえた。
「そうか、そういうことなら、ブッチャーでも呼んで、手伝わせようか?」
杉ちゃんがそう言うが、須藤さんは忙しいでしょうと竹村さんは言った。
「大丈夫です。こんな素敵な音を聞かせていただけるのであれば、竹村先生のお宅までいってもいいです。先生のところはバスかなにかで行けますか?僕は車を持っていないので、バスで行くことになるんですが?」
義紀くんは嬉しそうに竹村さんを見ている。
「しかしですね、静岡からでは、少々遠すぎるのではないでしょうか。富士まで電車に乗らなければならないし、バスも、30分近く乗って駅へ行かなければなりません。それでは、体も心も疲れてしまうのではないでしょうか?」
確かに竹村さんの言うとおりだった。いくら電車とバスに乗っていけば良いと言ったって、駅で電車を待つ時間や、バスをまったり、バス停まで歩いて行かなければならない。そんな事が、これほど痩せこけた、義紀くんにできるのだろうか?
「そうですね、伯母である私が、できるときは付き添います。ですが、全てに付き添っていけるとは限らないんですよね。私も仕事がありますし。」
成瀬さんは、申し訳無さそうに言った。確かに、それはそうだろう。だれでも仕事をしていればそうなるのである。
「ほんなら、あの、白石先生だっけ。お前さんがやればいいじゃないか。お前さんだったら、車の運転だってできるんじゃないの?」
杉ちゃんが、急に白石先生に言った。白石先生は、なんで私が!という怒りの顔になるが、
「でも、竹村さんは、義紀くんを笑顔にしてくれたぜ。」
と、白石先生に言った。そうなのだ、自分には、義紀くんを笑顔にすることは、できなかったのだと考え直した。そのためには、竹村さんのクリスタルボウルのセッションを受けることが必要なのだ。そこで、白石先生は、杉ちゃんが言う通り、自分が、彼を連れて、竹村さんの居る富士へ連れていくしか無いと思った。
「わかりました。じゃあ、私が、彼を富士まで連れていきます。竹村先生、今度は私が、助手の番ですね。先生、義紀くんのこと、よろしくおねがいしますね。」
そう言った、白石先生の顔が笑顔になってきた。いくら、自分が愛着のあるクライエントであろうと、できないものはできないのだと白石先生は思い直したのだろう。
「そこだけは外せないな。笑顔のクリスタルボウル。」
杉ちゃんは、にこやかに笑った。
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