第2話
ぼくたちは五年生に進学していた。
あの日、ぼくとユースケが見たものは誰にも信じてもらえず、言ったところで嘘つき呼ばわりされてしまうので、遂になかったことにしようとしていた。
きっと、本当に何かの見間違いだったのだろう。一年も経つと、そんな風に思うようになってしまっていた。
あいつは絶対にぼくたちの目の前にいた。けれど、その記憶もだんだんと薄くなってきている。もしかすると、幻覚を見たのかもしれない。
ぼくはあの日、木の裏で気絶していたところを六年生に見つけてもらい、助かることが出来たらしい。
そこで人生初の救急車にも乗ったらしいのだけれど、それすらも覚えていない。せっかく救急車に乗ったんだから、ちょっとくらい覚えてたかったなとも思う。救急車の中がどんな感じになってるのかとかも気になるし。一度乗ったからこそ、後悔はより大きくなっていた。
けれど、やっぱりそんなことはどうでもいい。あの妙な生き物、「ぽろぶでん」は本当にいたのだろうか。いや、誰がなんと言おうとやっぱりいたに決まってる。なぜならぼくもユースケもこの目で見たんだから。
けど、二人以外の他に誰も見ていないんだから、それを証明することが出来ない。アッちゃんもずっと「そんなこと言って、どうせおれの分のカブトムシ採んのがダルかったんやろ」と茶々を入れてくる。
もどかしかった。
ぼくが気絶して以来、もどり山に小学生だけで入ることは禁止になった。元々、地域の大人たちは子どもだけでもどり山に登ることをあまりよく思っていなかったらしい。
「小さいとはいえ山です。危ない目にあう可能性もありますよね。これは町の人たちみんなで決めたことなんです」
と、校長が集会で話していた。
それでも夏になると、大人に黙ってカブトムシを捕まえに行く不良たちがいた。彼らはカブトムシをたくさん捕まえてはぼくたちに見せびらかして自慢してきた。そして最後には必ず「ぽろぶでんとか喋る生き物なんかいなかったけどなぁ」と鼻で笑った。
ぼくは悔しかった。きっと、ユースケも悔しかったと思う。
誰に話しても信じてもらえないから、ぼくたちは次第に「ぽろぶでん」のことを諦めていった。アッちゃんですら信じてくれないんだから、そりゃ誰も信じてくれないよな、とは思うけど。
冬休みのある日。雲のすき間から覗いた夕日がそろそろ傾き始めるくらいの時間帯だったと思う。外は少しだけ雪が降っていた。
お父さんは朝から仕事に出かけ、お母さんは妹を連れて買い物に行っていた。ぼくは家で一人、こたつに入ってテレビを見たり宿題をしたりして留守番を務めていた。
せっかくの冬休み。ユースケやアッちゃんと沢山遊びたかったけれど、ユースケは家族で温泉旅行に行ってしまったし、アッちゃんはアッちゃんで何かと忙しいみたいだった。アッちゃんはどうやら中学受験するらしく、毎日塾に通っているらしかった。
漢字の書き取りを五ページ終わらせると、ぼくは寝転んで天井を見た。
「あーあ、遊びたいなぁ」
と思わず声に出す。退屈で退屈でどうしようもなかった。見飽きた天井の模様を何かに例えてみる。この遊びをするのは今日で百回目くらいだろうか。もう、とっくの昔に飽きてしまっている。
あの模様は望遠鏡だ。長い筒のようになっている。これは小二の時に発見した。
じゃあ、この模様はなんだったか。忘れてしまったな。思い出すのも面倒だし、適当にパッと考えよう。モコモコの丸い形になってるから、シュークリームでいいか。シュークリームってことにしとこう。シューアイスでもいい。ああ、もう。なんでもいいや。
全然楽しくない。
さすがにヒマすぎて限界が来た。うっかり「しょうもな」と独り言を呟いてしまう。
そしてため息をつこうとした時、
『バン!』
と、部屋の窓が叩かれる音がした。
心臓が口から飛び出しそうになりながら、それをなんとかおさえ、帰って来た妹のいたずらだろうと溢れる怒りを堪えつつ、窓の外を見ると、そこには手を叩いて笑うアッちゃんの姿があった。
「なんだアッちゃんか。びっくりしただろ」
ぼくが心の底から軽蔑した表情を浮かべて見せても、アッちゃんは笑い続けた。久々に会ったからすっかり忘れていたけど、そういえばアッちゃんはこういうヤツだった、
「どうしたの。今日、塾は?」
諦めて普通の会話に戻る。寒いからこたつに寝転がったままだ。
「さっき終わって今から帰るとこやねん」
「なにしにウチ来たの」
「タケいてるかなと思ってな。久々に会いたかったし」
「ピンポン鳴らして玄関から入って来いよ」
「せっかくやからびっくりさせたかってん。ほなまたな」
そう言われて、ぼくは少し寂しかった。
「え、もう帰んの?」
「うん。早く帰らんと親に怒られるし」
そう言うとアッちゃんは帰って行った。本当にぼくをびっくりさせるためだけに寄り道したらしい。アッちゃんの通う塾とぼくの家はそれなりに離れている。遠回りをしなければいけないのに、たったこの一瞬のいたずらのためだけに十分以上自転車を漕ぐ彼の神経が、ぼくには考えられなかった。
せっかく退屈しのぎになると思ったのに。希望が湧いたからこそ、余計に気分が落ち込んでしまう。
「はあ~あ」
また天井を見る時間か。なんかテレビ面白いのやってないかな。
そう思っていると、再び、
『バン!』
部屋の窓が叩かれた。
「さすがに二回目はびっくりしないよ……」
そう呟きながら、ゆっくりと窓の向こうにいるはずのアッちゃんを見た。
けど、窓の外に見えたのはアッちゃんのいたずらっぽい笑顔じゃなかった。
そう、窓の外に立っていたのは、あの日、カブトムシをバリボリとむさぼり食っていたワニのような謎の生き物「ぽろぶでん」だった。
瞬時に記憶が蘇る。倒れたぼくを覗き込んでいた、あのぎょろりとした五つの目。何を考えているのか分からない、純粋な狂気を秘めた目。ぼくは急激に頭が痛くなった。
別にぽろぶでんから何か変な電波が出てるとかそういうことじゃないと思う。単純にぼく自身の緊張が極限に達してしまったんだ。
そして、同時におしっこがもれた。こたつの中、パンツとズボンとマットレスがぼんやりと温かくなっていくのが分かった。
けど、やっぱりぼくは動けなかった。
ぽろぶでんも窓の外から一歩も動くことなく、五つの大きな目をぼくと合わせたまま微動だにしなかった。
動かないことが何より怖かった。ぼくが動いた瞬間、ぽろぶでんが窓を割って中に入って来る気がした。
このまま動かず、気配を殺してお母さんが帰って来るのを待つしかない。きっとぽろぶでんはぼくのことに気がついている。ただ、ヤツはお母さんが帰って来るという可能性までは計算していないだろう。そこまで賢い生き物には見えない。
いや、待てよ。単なる偶然かもしれないけど、こうしてぼくの家を見つけて、単なる偶然かもしれないけど家族が誰もいない時間帯を狙ってやって来たってことは、もしかするとぼくが思っているより何倍も賢い生き物なのだろうか。
本当に全部偶然か?
未知数だ。ヤツには謎が多すぎる。
『バン!』
ぽろぶでんが窓に向かって、そのワニに似た頭で思い切り頭突きをした。窓は叩かれたものだとばかり思っていたけれど、そうじゃなかったんだ。
『バン! バン! バン!』
ぽろぶでんは何度も何度も窓に向かって頭突きをした。
「……」
声はもちろん出なかったし、涙も出なかった。こんなに怖い思いをしたのは人生初なのに。昔、家族で行った遊園地のお化け屋敷で叫び散らかし、最終的に大号泣してしまったことを思い出す。今の状況に比べればあんなの、子ども騙しもいいところだ。
『バン! バン! バン!』
「……っ!」
声にならない呻き声が無意識に出る。
「ぽろぶでん」
ぽろぶでんは表情一つ崩さないまま、窓に向かって頭突きを続けた。このまま頭突きをされ続ければいつか窓も割れるだろう。幸い窓にはまだ傷一つ付いていないものの、窓は本来割れるものだ。
「ぽろぶでん」
「うるさい! うるさいうるさい!」
ぼくは恐怖に身を任せ、ついに立ち上がって声を荒げた。もうどうにでもなれ。むしろどうにかならないと、このままじゃ今度こそ本当にぼくは食べられる。
「……」
ちょっと待てよ?
そういやこの一年半の間、考えたこともなかった。
ぼくがまだこうして生きている理由を。
「お前……、一体何がしたいんだ……?」
どうしてあの日、ぽろぶでんは気絶したぼくを食べなかったんだろう。抵抗を止めた人間が目の前に転がっているんだ。絶好のチャンスのはずだったじゃないか。
なのに、どうしてぼくはまだ食べられていない?
「何しに来たんだよ」
ぼくはそろり、そろりと窓に向かって歩み寄った。
ぽろぶでんはそんなぼくと目を合わせたまま動かなくなった。ゆっくり、一歩ずつ前に近づく。
「おい、ぼくを食べるんだろ? そうなんだろ?」
声は震えている。膝も震えている。なのにどういう訳かぽろぶでんを危ない存在だとは思えなくなっていた。ともすれば、ぼくの方が強いんじゃないかとすら考え始めるようになっていた。もし取っ組み合いになったとしても、命懸けで繰り出した必殺の背負い投げで倒れたヤツの上に跨り、顔を殴り続ければ勝てるんじゃないかと。
「ぽろぶでん」
勝機を感じたものの、まだ侮れない。
一歩、また一歩と近づく。
白目のない、つぶらで真っ黒な五つの目がぼくを捉えて離さない。見れば見るほど、ぽろぶでんの能力値は未知数だ。強いのか弱いのか、本当は分からない。けれど、ぼくの全身にみなぎる闘争心はなぜか一歩前に進むごとに高まっていった。
やってやろうじゃないか。
殴り合いの喧嘩なんて、人生で一度もしたことがない。そんなこととは無縁の生活をし続けてきた。
ぽろぶでんの能力は未知数で、計り知れない。けれど、ぼくの能力だって未知数だ。もしかすると、自分でもまだ気づいていないだけでめちゃくちゃ強い可能性だってある。喧嘩をしたことがないだけで、本当は熊を一撃で倒せるだけの力があるかもしれない。
いや、ある訳ない。ある訳ないだろ。何をバカなこと考えてるんだ。まだ小五だぞ。大人ですら熊に出会ったら一撃で倒されてしまうというのに。銃を使って仕留めるような相手なんだぞ。
けどここで弱気になる訳にはいかない。もう近づいてしまったんだ。熊を倒せるだけの強靭な潜在能力、秘めていてくれ、ぼくよ。頼む。そんな力があると思わないと、ぼくはヤツに背を向けて逃げ出すことになってしまうだろう。ぽろぶでんが俊敏な動きをしないとも限らない。頭突きはただの挑発で、本当はこんな窓くらい、いとも簡単に破れるのかもしれない。熊を一捻りで潰せるだけの力を秘めているのかもしれない。
それでも逃げるな。前へ。前へ。
歩くたび、足元からぴちゃ、ぴちゃと情けない音がした。漏らしたおしっこがズボンを滴って足に伝い、床を濡らしている。そんなことを気にしている余裕はない。
ぽろぶでんとの距離は、もはや窓一枚を隔てているだけで手を伸ばせば簡単に届く距離になった。
お互いの動きが止まる。ぽろぶでんは息をしていないのか、それともそもそも呼吸を必要としない生き物なのか、まるで死んでいるかのようにピクリとも動かなかった。
「何をしに来た」
努めて柔らかく投げかけてみる。ヤツに返答能力があるとは到底思えなかったが、それでも対話可能の生物であると思いたかった。
当たり前のように、返事はなかった。その代わり、吸い込まれるような黒い瞳がぼくを見つめている。
「ぼくを知っているのか?」
その瞬間、ヤツは頭突きで窓を破り、中に入ってきた。同時に、地獄の底を這い回る亡者のような金切り声を上げてぼくは逃げた。
最短ルートで玄関に向かう。
靴も履かずに外へ飛び出すと、お母さんの運転する車が戻って来たのが見えた。
危険を承知で車の前に飛び出す。お母さんは死にそうな顔で急ブレーキを踏み、「何してんのばか!」と怒鳴った。
「家の中に入って来た! ぽろぶでんが家に入って来たんだよ!」
いつの間にかぼくは泣いていた。号泣していた。助手席で妹がぼくの濡れたズボンを見て笑っている。そんなことは最早どうでもよかった。
お母さんと妹と三人で家に戻ると、そこには割れた窓があるだけで、ぽろぶでんの姿はどこにもなかった。
翌朝、十時。
仮眠をとりつつ進めた事情聴取が終わり、ようやく警察官たちが帰った。
お父さんは仕事を休んでいる。さっきまで家にいて、業者さんが窓の修理をしてくれたのを見届けた後、出掛けて行った。
地元消防団の作業に参加するらしい。消防団指揮のもと、百人単位の大人で組まれた捜索隊がもどり山に入っている。
昨日、アッちゃんが塾から帰らなかったらしい。最後に彼を見たのは、ぼくだ。
いたずらっぽく笑う彼はきっと、いや、考えたくないけれど、そういうことなんだろうと思ってしまう。
ぽろぶでん、お前は何者なんだ。
この町で何をしようとしているんだ。
雨川町に訪れた最大のピンチは、まだぼくだけしか気づいていない。
ぽろぶでん 舟 @6nennsei
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