ぽろぶでん
舟
第1話
それがぼくの前に初めて現れたのは、ぼくが小学校四年生の頃だった。その日は七月も終わりに近づいており、よく晴れていてとても暑かった。
その日、ぼくは六時間目の体育が終わって帰りの会が始まるまでの間、保育園の頃からずっと友だちのユースケと、二年の時に関西から転校してきたアッちゃんの三人で放課後の計画を練っていた。
「学校が終わったら全力ダッシュな。遅かったらタケもアッちゃんも置いて、おれ一人で行くから」
校内マラソン大会で三年連続一位というすさまじい足の速さを持つユースケが、ぼくとアッちゃんを見下したような目で見る。
「その代わり、おれらの分のカブトムシも捕まえてくれたり。ユースケは優しいからそういうこともちゃんと出来る子やろ?」
アッちゃんがにやにやしながらユースケに反抗した。
「なんでだよ。おれが捕まえるんだから、全部おれが持って帰るに決まってんだろ」
「そんな大量に持って帰ってどうすんだよ。 一匹だとカッコいいけど、多すぎたらゴキブリみたいで逆にキモくない?」
ぼくが冷静に反対すると、ユースケは少しだけ考え、「確かにちょっとキモい。五匹くらいにしとこうかな」と言って笑った。
「それやったらおれらの分も採ってくれたらええやん。五匹捕まえた後、おれらが到着するまでヒマやろ」
アッちゃんは全力ダッシュをサボろうと必死だ。確かに、ユースケについて行くことを考えれば無理もない。
「さっきからずっとおれにばっか頼ってるけど、普通に走ればいいじゃん」
ユースケが当たり前の反論をした。
「無理言うなよ。ユースケはずっとマラソン大会一位だけど、ぼくとアッちゃんは毎年ほぼ最下位なんだから。ユースケについて行くのは無理」
「うそつけ、タケ去年八位だっただろ。おれ見てたんだぞ」
「ばれたか」
「当たり前だろ。バカじゃないんだから」
「けど、おれは二十五位やったで。二人にはついて行かれへん」
「うーん、それはなんとも言えなすぎる」
「前の学校の時はマラソン大会なんかなかってんもん。長距離は苦手や」
「そうなんだ」
「短距離なら自信あるで。ユースケにも勝てる気するわ」
「五十メートル何秒?」
「十秒六」
「おれの方が一秒くらい速い」
「ほんまか」
今になって考えてみれば、それは打ち合わせというか何というか、あんまり意味のない会話だった。
ぼくたちの住んでいる雨川町のはしっこにはもどり山と呼ばれている小さい山がある。
もどり山は、形だけを見れば何も変わったところのないただの山だけど、あることが理由でこの町の子どもたちには大人気のスポットになっている。
もどり山の頂上には広場みたいに開けた場所があって、その真ん中に大きなクヌギの木がなぜか一本だけぽつんと生えていた。
そのクヌギは夏になると、むらさきっぽくて気持ち悪い色のみつをたくさん出した。それがカブトムシのごちそうになるのか、毎年すごい数のカブトムシが木に集まるんだ。
そのクヌギまではもどり山のふもとから歩いて二十分足らずでたどり着ける。簡単に行けるのもあって、夏場はいつもカブトムシを採る子どもたちでごった返していた。
ぼくたちは前日のうちからカブトムシを捕まえに行こうと決めていたので、その日はぼくもユースケもアッちゃんもランドセルの中に虫かごを入れて学校に来ていた。宿題は忘れるのに、そういうことは絶対に忘れない。
なぜ学校に虫かごを持って来ているのかというと、それには訳がある。
さっきも言った通り、クヌギには毎日大勢の子どもがカブトムシを採るために集まってくる。だから、少しでも家に帰っていると、そのすきに他の誰かがカブトムシを全部捕まえてしまうんだ。
学校から直接どこかに出かけるのは本当は校則でダメと決まってるらしいけど、少しのタイムロスが命取りになってしまうからこればっかりは仕方がない。
帰りの会が終わるやいなや、ぼくたち三人は全力ダッシュで学校を飛び出した。
「アッちゃん! マジで置いていくぞ!」
「はぁ……。はぁ……。もう無理……、もう限界! これ以上走ったら死んでまう! ごめん、二人だけで行ってきて!」
アッちゃんは肩で息をしながら、倒れるようにして地面に座り込んだ。
「仕方ないな。タケ、もうおれたちだけで行こう」
「うん。おーい! ゆっくりでいいから着いて来てくれよ!」
アッちゃんは小さく手を挙げた。返事をする気力すらないらしかった。
ぼくとユースケはアッちゃんを残し、急いでもどり山に向かった。
「キツい……、足が痛い……」
もどり山を走って登ることは分かっていたから学校に居るうちは体力を温存するつもりだったのに、ぼくは体育のサッカーで全力を出してしまっていた。まれに見る白熱した点取り合戦だったから、つい熱中してしまったんだ。
「ハットトリックなんて決めてる場合じゃなかった……」
「分かってただろ。ほら、タケ! 早くしないと六年生が来るって!」
焦ったユースケが、ぼくの手を引いて山を登ってくれる。
「タケ、力抜いてるだろ。重いぞ」
「もうどこにも力入らない」
「バカが」
ぼくはほぼ力を入れず、ユースケの引っ張る力だけで登った。
それから十分後、ぼくとユースケは頂上にたどり着いた。四十メートルほど先に木が見えている。全力ダッシュしたおかげで一番乗りらしく、まだぼくたち以外には誰もいないように見えた。
「誰か来る前に早く捕まえよう」
ユースケが歩いて木に近づいていく。ぼくはそんな体力すら残っていなかった。それでも気力をふりしぼってなんとかユースケの後に続く。
「ゆっくり、静かにな。逃げたら意味ないからな」
ユースケの言葉に「うん」とうなずく。
その時だった。
「ぽろぶでん」
どこかから低い声が聞こえた。
意味の分からない言葉。聞いたことのない言葉。驚いたぼくとユースケの足が同時に止まる。
「今の、なんだ?」
ユースケがとまどった顔でぼくを見た。
「分かんない……。けど、木の裏側から聞こえた気がする」
「おれもそう思う……」
「先生だったらどうする?」
毎年、この時期になると学校から直接カブトムシ採りに来る児童がいないかどうか、先生がクヌギを抜き打ちで見張りに来るらしいという噂が出回っていた。まだ誰も叱られたりした子はいないらしいので本当かどうかは分からないが、もしかするとぼくたちがその第一号になってしまう可能性があった。
けど、先生ならもっと「こら!」とか「何してるんだ!」みたいな意味の分かる言葉を使うだろう。「ぽろぶでん」と意味の分からないことを言う先生はきっといない。
「見に行くか? どうする?」
ユースケは怒られるかもしれないという恐怖より、興味の方が勝っているようだった。
「先生かも」
「先生だったら走って逃げればいいじゃん」
「だから、ぼくもう体力ないって」
「火事場の馬鹿力でなんとか出来るだろ。行こう……」
ユースケは再び歩き出した。多分、この時はぼくもユースケもカブトムシのことを完全に忘れて、その声の主がなんなのかだけを考えていたと思う。
ぼくたちは木の前で立ち止まった。
「せーの、で裏を見るぞ」
ドキドキした。心臓が少し痛い。
それに、最初に「ぽろぶでん」と聞こえてからずっと、パリパリとせんべいが割れる時のような音が聞こえてきていた。その音も声と同じように木の裏から聞こえてくる。どうやっても、木の裏に先生が待ち構えているとは思えなかった。
「おっけい。じゃあ、ユースケがせーのって言って」
「うん。いくぞ?」
びりびりっと恐怖が心臓を撃ち抜く。
「ま、待って。ちょっと待って」
ユースケが困った顔でぼくを見た。
「なんだよ。ビビったのか?」
「うん、ちょっと勇気が出ない」
「落ち着いたら言えよ」
「ふう、ふう、落ち着いた」
「早っ」
本当は、まだ落ち着いてはいなかった。ただ、ユースケに弱虫だと思われたくなく、強がってみただけだった。
そして、そんな緊張で吐き気を催しているぼくと、飄々とした表情のユースケは、「せえの」という掛け声と共に、走って木の裏側に回り込んだ。
それから同時に息を飲んだ。
そこにはぼくの身長より少し大きいくらいの、ワニみたいな顔をした全身うろこまみれの生き物がいた。けど、明らかにワニと違うのは、そいつは二本の足で直立していたということだ。それに、顔らしき部分には大きな目のような物が五つもついていた。
その謎の生き物は器用に両手を使い、カブトムシを捕まえては口に運んでいた。ずっと鳴っていた謎のパリパリ音はカブトムシを食べる音だったんだ。
「や……やばいぃぃ……」
思わずユースケが声を漏らす。
そいつはぼくたちがいることに気づいたのか、ゆっくりとぼくたちを見て、「ぽろぶでん」と喋った。さっき聞いたのと同じ声だった。
「うわぁぁぁああ!!」
ユースケは悲鳴を上げながら、ぼくを残してすごいスピードで逃げてしまった。ぼくもユースケを追って逃げたかった。けれど、足が震えてその場から動けなくなってしまっていた。
少しでも気を抜けば全部もらしてしまいそうなほど怖かった。もしかすると、カブトムシの次はぼくが食べられるんじゃないかとすら思った。
そいつはカブトムシを食べる手を止め、震えるヒザをなんとかおさえているぼくをじっと見つめていた。ぼくもそいつから目を離せずにいた。よそ見した瞬間に飛びかかって来ると思った。どう猛な肉食のハンターと同じやり方で狩りをするだろうと思われた。
何分経っただろう。きっと、そんなに経っていない。それでもぼくにとっては、これまでの人生で最も長い時間を過ごしたような気がした。
逃げなきゃ。
ぼくはようやくまともなことを考えられるほどにまで落ち着いていた。
一刻も早くここから逃げなければいけないのに、ぼくは何をしているんだろう。ヒザが震えていようが関係ない。ここから逃げ出せばいい。もし追って来てもなんとか逃げ切ってみせる。
いや、なんとしてでも逃げ切らなければいけない。火事場の馬鹿力だ。さっき出さなくてよかった。ここで出すんだ。
人生を賭けた大勝負。このままここにいてもらちが明かない。山を降りて誰かを呼びに行こう。そうしなければぼくは食べられてしまう。
「うおおおおお!」
意を決して一歩後ずさりした瞬間、思いっきり木の根っこに引っかかって転んだ。
「ぽろぶでん」
そいつは倒れたぼくのことを上から覗き込んできた。
そこからのことは何も覚えていない。
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