第2話 夏休み
ミンミンと、気が狂いそうなほどの声量でセミが鳴いている。
玄関ドアを開けた瞬間、すぐさま閉めそうになった。肌を刺すような日差しと、呼吸しづらいほどの熱気。セミの大合唱で平衡感覚がなくなる。
「帽子かぶって行きなさいよ」いつまで息子を子供だと思っているのか、洗濯物を抱えた母が俺の背へとそう声をかける。それに曖昧な返事をし、ドアを閉めた。
八月上旬、夏休みに突入した住宅街は独特の雰囲気をまとっていた。
公園からは子供たちの声が響き、狭苦しく並んだ家々はどことなく緩んだ空気をかもし出す。その中をスマホを眺めつつ歩いていた俺の前に、水着姿の少年が飛び出して来た。
「こら! 飛び出したら危ないでしょ!」続いて、母親らしき薄着の女性が怒号とともに登場する。
「あ、ごめんなさいね」
「いえ」
母親は釣り上げていた目を瞬時に緩め、子供の腕を掴んだまま頭を下げた。
子供の方はといえば、じっと不思議そうに俺を見上げている。「こんなにも楽しいことばかりの夏休みに、なぜこの人は辛気臭い顔をしているのだろう」とでも言わんばかりである。俺だって、そういう感覚に覚えがないわけではない。
きゅっとキャップのつばを掴んで会釈し、俺は駆けるように住宅街を抜けた。
大通りに出る。夏休みとはいえ、片田舎の平日だ。交通量はさほど多くなく、コンクリートの道路がギラギラと太陽の光を反射していた。歩道の、出来うる限り日陰になった場所を進む。
ジワジワ、歩道沿いに並んだ木でもセミは鳴き続けていた。キャップのふちとTシャツが汗で湿ってくる。
ふと、足元の道しるべが消えた。日陰が途切れたのだ。次の日陰までは一歩半といったところか。
じわじわ、血管の中をまたあの感覚が這い回る。ぐっとふくらはぎの筋肉を収縮させたところで、「おはよう」と後ろから軽やかな声が聞こえた。
ゆっくりと、力を溜め込んでいた筋肉を解放する。振り返れば、日傘をさした私服姿の
「早いうちから背中は見えてたんやけど、この日差しの中、さすがに走る気にはなれへんかったわ」
「ああ、うん。おはよう」
「おはよ。朝っぱらからあっついな。昼には四十五度くらいまで上がるんちゃうか」
そう言って井崎は俺の隣に並ぶ。頬辺りをかすめた傘の骨をよけつつ、俺は白く照らされた歩道に足を踏み出した。力の行き場を失ったふくらはぎが痛痒い。
夏休みの課題のことや夏期講習の愚痴、井崎のバイト先での珍妙な客の話など、俺たちはたわいもない話をしながら歩道を進んだ。行き先は互いにわかっている。
しばらく歩いたところで目的地に到着した。最寄りのバス停だ。申し訳程度だが、屋根がついている。
井崎は日傘を畳んで薄汚いベンチに腰掛けた。ヒラヒラした白い生地のワンピースが汚れないものかと気になったが、本人が気にしないのならいいのだろう。ベンチの隣に立ち、時刻表を確かめる。目的のバスはあと五分もすればやってくるようだ。
「……うちには、あんたがそんな妙なことするタイプには思えへんのやけど」
井崎は道路を見つめたまま言った。井崎の言う「妙なこと」がどんなことかは分からない。だが、言うのも憚られるようなことであるという認識はきっと一致している。
井崎と同じく道路へと目をやり、俺は口を開く。
「それは、井崎が昔の俺を知らないからだ」
井崎は去年の春、この町に引っ越して来た。だから、昔の俺を知らない。
同じことを話しても、小学生の頃の俺を知る者なら苦笑とも嘲笑ともつかない薄ら笑いを浮かべるに違いないのに。井崎は何も知らないのだ。
「随分、ヤンチャやったていうんは聞いたで」
そう、クラスメイトは含みのある声と顔で言った。今日も唇がてらてらと光っている。井崎の言葉に答えようとしたところでバスがやってきた。町を周回しているバスは、熱気を帯びた排気ガスを吐き出しながら停車する。井崎が先に乗り込み、俺も続いた。
車内の客はまばらだった。数人、かかりつけ医に世間話をしに行くような老人が座っているだけ。市民プールへ行くには反対行きのバスに乗る必要があるため、子供の姿は見当たらない。
井崎は二人並びの席の、窓際に腰掛けていた。少し考えて、その前の一人掛けシートに座る。窓枠と、前のシートのふちに降車ボタンがあるのを確認してからシートに背中を預けた。その時だった。
「まぁ、ええわ。なんでも」
後ろでぽそりと井崎がつぶやく。
バスのドアが機械音声とともに閉まり、動き出す。
「幽霊に会うたら、はっきりするやろ」
俺たちは、ホームセンターの自動販売機へと向かっている。
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