第2話マジテロかよっ!-2

 廊下が騒がしかった。


 休み時間中だから、騒がしいのは当たり前だけど、その日は異様な雰囲気がその男の乱入数秒前にわかった。


 悲鳴が聞こえる。


 歌が止まる。


 ガラッガンッ!


 猛烈な勢いで教室のドアが開けられる。


 男は長い刺身包丁のようなものを持っていた。ぬらぬらと光っている。血だ。血が切っ先から垂れている。


 男は一度包丁を空中で横文字に振った。


 包丁についていた血が飛び散る。


 ピッ、と音がして、血が半円状に教室を満たした。わずかな量の血だったけれど、恐怖はその場にいる人間すべてを支配した。


 翔馬の顔にはちょうど血が一文字を描いた。まるで死のサイン。


 翔馬は動けなかった。


 陽キャたちは男が近づいてくるので、その優れた運動神経をなんとか発揮して、後ずさった。


 運悪く、ギャルの中曾根さんが動けなかった翔馬の足にひっかかって転んだ。


 中曾根さんはあっけにとられた顔で翔馬を見上げた。翔馬はなんだかわからないが、全力で視線をそらした。


 そんなことをしても意味がないのに。


 男が近づいてくる。


「立って!」


 ルラだけが動いた。


 まるでルラだけが支配の魔法から解き放たれたように、中曾根さんの腕を引っ張った。


 中曾根さんはすがるようにルラの差し出された腕をつかむけれど、腰が抜けたのかうまく立てなかった。


 翔馬は凍る頭でそれを見ていた。


 ルラと翔馬の目線が一瞬合った。


 男はルラの真後ろにいた。刺身包丁を頭上高く振り上げていた。そのままルラの後頭部に振り下ろす気だ。


「あ、危ないっ!」


 ダサいことに翔馬はわかりきったことを言った。足が震えて、いよいよ動かなかった。


 でも、ルラにはそれを活かすことができた。


 ルラは上半身をかがめると全身のバネをきかせて、後ろ蹴りをした。


 男は不意打ちをくらい、よろけた。


 ルラはさらに手にもったままだったアコースティックギターを振り向く勢いをのせて男の頭に叩きつけた。


 男は壁に頭をぶつけて昏倒し、刺身包丁は廊下のほうに転がっていた。


 ワッ!とその場が一気に解放されたように沸いた。


 ルラはドヤ顔でみんなにむかってピースして見せた。腰に手を当てている。


『すげぇ……』


 翔馬は感嘆し、同時に己を強く恥じた。


『危ないしか言えないだなんて……、ついさっきテロでも来ないかななんて思ってたはずなのに……』


 陽キャたちが男を取り囲み、男を取り押さえるために不器用ながらジャージを脱いでそれを紐代わりにして拘束しようとしていた。


 翔馬は恐る恐るルラの方を見た。ルラはクラスメイト達に囲まれて賞賛のただなかにいた。


『ああ……、やっぱり住む世界が、人間としての格が違うんだ……』


 翔馬は痛感した。


 けれど、ルラは目が合うと、なんの屈託もなくニッコリ笑うのだった。


 翔馬はますます己がミジメになった。


 そして、そのこと自体がイヤだった。


『ここにきて、自分のことしか考えられてないんだから、はは……、だめだこりゃ……』


「いってっ!」


 陽キャの一人がいきなり声を上げた。


 見ると、男は立ち上がり、手にはさっきの刺身包丁よりかは短いけれどコンバットナイフと言われるものを持っていた。


 陽キャの一人は手の平を傷つけられたようだった。


 教室の生徒たちは群れになって固まっていた。念のため言っておくが、彼らは特段愚かなわけではない。普段なら、このような異常な事態が起きたなら、すぐにでもその場を離れるべきだという感性は持ち合わせている。


 けれど、唐突に襲われて、唐突に助かって、普段とはあり得ない状況におかれたのだ。ましてや男を倒して数十秒しかたっていなかった。


 群れとなったクラスメイト達は、再度固まり、男が近づくと磁力で反発するように押された。群れだから、彼らの足は踏み場がなくもつれた。


 ルラは群れの中心にいた。


 彼女に逃げ場はなかった。


 翔馬は走りだしていた。


 なにも考えることなく、反射的に動けた。


 ほかのクラスメイト達とはちがって、男に近づいていった。


 一秒未満の時間、翔馬はたしかに自由だった。


 けれど、すぐにそれはこと切れた。


 男は翔馬を目の端でとらえ、ハエにそうするように腕をふった。


 翔馬の喉をナイフが過ぎ去っていった。


 翔馬の喉から熱い血が弾けるように飛び散った。


 血が溢れて視界を真っ赤に染める中、翔馬が見たものは自身の死よりも鮮烈に網膜に焼き付いた。


 ルラの心臓に深々と男のナイフが刺さった。


 ルラの背中からナイフが三分の二ほども禍々しく突き出していた。


 そこで翔馬の意識は途絶えた。

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