第63話

 

 目の前にいる彼は、ひどく優しげな風貌の男性だった。アリシアは幾度か顔を合わせたことがあるものの、出会いを重ねる度にほっとする感情が湧き上がる。――はるばる隣国からアリシアを迎えに来てくれた男性だ。


「アリシア様、お会いできてとてもうれしく存じます。相変わらずお美しくいらっしゃいますね」


 歯の根が浮くような言葉だが、キーファというこの王子はさらりと告げる。初めはラモンドと同じ側の人間なのだと思った。女が喜ぶ言葉を知りつくして、それを利用しているのだと。けれど、キーファとラモンドでは利用するべき先が異なっているのだとある日知った。


 ラモンドは、ただ我欲を満たすために。キーファは、アリシアを通してクロイズ国そのものを見ている。虚しくはない。キーファの背にエハラジャ国そのものがかかっているのだから。ラモンドよりも彼の方がずっと誠実で、アリシアにとって望むべき人だ。ゆっくりと、そう思えるようになった。


「キーファ様にそうおっしゃっていただくことは、とても嬉しいことですわ。けれど、本当はすべて一人の少女のおかげですけど」

「……一人の少女のおかげ、ですか?」

「ええ」


 今のアリシアは、自慢のピンクブロンドの髪にいくつもの宝石を携えて、この日のために用意したドレスに身を包み、たっぷりとした化粧を施されていた。自身でもよくぞまあここまで磨き上げたものだと呆れてしまう。すべてはアリシアのために、メイド達が精一杯にアリシアをあしらってくれた。けれど、もしレイシーがいなかったのなら、アリシアは子供のような癇癪を抱えて部屋から出ることを嫌がり、今もふてくされた顔をしていたかもしれない。


 アリシアは、いわば一つの品だ。美しくあることすらも自身の仕事の一つで、クロイズ国とエハラジャ国を結ぶ架け橋なのだ。そのことに対する自覚が抜け落ちていたことを恥ずかしく感じた。

 レイシーは、アリシアにいくつものことを思い出させた。アリシアにはレイシーのように誇るべき才はない。だからこそ与えられた役割を必死にこなすべきだった。レイシーがアリシアに対して『星さがし』として相対してくれたように。


 アリシアが嫁入り道具の一つとして持った箱の中には、彼女が作ったフォトフレームがひっそりと入っている。


「その少女とは、一体誰のことなのでしょうか?」


 不思議そうに、けれどもゆったりと問いかけるキーファに、アリシアは微笑んだ。


「我が国の、誇るべき魔道具師。……けれども、とても小さな、可愛らしい女の子ですわ」




 そしてその頃、レイシーは。



 ***



「あば、あば、あばばばば……」


 相変わらずの王都にあるぼろぼろの家の中でがくがくと震えつつ、いつもの杖を握りしめていた。


「あう、あう、あう……」

「レイシー、大丈夫か意識をしっかり保て……!」


 ウェインが崩れ落ちそうになるレイシーに声をかけてくれたから、しゅるしゅると消えてしまいそうになっていた自分の魂の尻尾をきゅっと握ることができた。ごくりと唾を呑み込む。そして改めて目の前を見た。「ひ、ひいっ……!」 大量の金貨が入った立派な箱がどどんと置かれている。きらきら、どころかぎらぎらとレイシーの目を焼いてしまいそうなほどに激しく輝き、思わず目を隠しつつ後ずさる。魔王を倒した際の報奨金以上で、むしろ何倍もの量がある。ここまでくるとお金が怖い。


「この後、さらに追加でお持ちいたします。複数にわけて護衛をつけ運搬しておりますので、お手数をおかけいたします」

「ひいい! 十分です、いえ違いますここにある分だけでも多すぎです! 持って帰ってください!」

「とはいえ、必ずレイシー様にお渡しするようにと私どもも王から仰せつかっておりまして……」

「どうぞ……どうぞご勘弁ください!」


 もはや何に対して泣きながら嘆願しているのか、レイシーすらも謎である。



 レイシーは、アリシアにカメラとフォトフレームを渡した。そしてアリシアにカメラを使って自分で写真を撮ることを提案したのだ。レイシーはずっと道具を作る自分と、受け取る人は別のものだと考えていた。けれど同じでもいいのかもしれないと思ったとき、カメラを撮るのは、決してレイシーだけである必要はないと気づいたのだ。写真を撮るということだって、きっと大切な思い出になる。


 ――暁の魔女、いいえ、アステールの魔道具師さん。私が行ったことを改めて謝罪するわ。


 真っ青な空の下でピンクブロンドの髪を遊ばせながらアリシアはレイシーに告げた。

 王族として頭を下げることはできない。けれどもアリシア個人として謝罪をしたい、とはっきりとレイシーを見ていた。


 レイシーとしてみれば、謝罪と言われても一体なんのことだと驚くばかりで、彼女がレイシーの元婚約者であるラモンドとの経緯を謝罪しているのだと気づいたときは、面食らってしまった。だって、レイシーにとってそんなことは、どうでもいいことだったのだから。


 むしろラモンドとの経緯があったからこそ、レイシーは自分に正直に、前に踏み出すことができた。だから、なんとも思っていないと伝えるべきかと悩んでふとアリシアを見たとき、重ね合わされたアリシアの手が真っ赤に染まっていることに気づいた。


 尊大な態度に見える。けれど王女として山のようなプライドを持つ彼女が、ただの魔法使いに頭を下げている。それはどんな気持ちなのだろう。レイシーには想像することしかできないが、きっと恥辱にふるえているはずだ。そうまでしても、伝えるべきだと思ってくれた。じゃあ、どう返答すれば、自分はアリシアに応えることができるだろうか。そして、アリシアの気持ちが楽になるのだろうかと考えた。


 一体どうして、アリシアはレイシーに謝罪をしているのだろうかと。


(……そうか)


 ごめんなさいと謝って、求めているもの。そんなの、ただの一つに決まっている。


『私はアリシア様を許します。……ですから、お顔を上げてください』


 それこそ、恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだった。


(な、何が許しますよ……!)


 何様だ、と自分自身を殴ってやりたい。なのにその瞬間、また泣き出してしまいそうな、けれどもほっとしたようなアリシアの顔を見て、どうでもよくなってしまった。


(こんなことをお伝えするのは、失礼なことかもしれない)


 そう思うのに、勝手に言葉が飛び出してしまう。


『アリシア様、お茶とお菓子、おいしかったです! ありがとう……ございました!』



 そこまでがアリシアとレイシーの経緯だ。もう数日前のことになる。

 あのときアリシアはレイシーの言葉を聞いてぎょっとしたように瞳を見開いて、それから今まで出していた紅茶が菓子が全て自分が準備したものだと気づかれていたのだと知り、さらに赤面した。けれどじわじわと照れたような笑みに変わっていったアリシアのかわいらしい顔を思い出して、伝えてよかったとレイシーは心の底から思った。


 ……しかし今、目の前の状況はレイシー自身の処理をあまりにも上回る。アリシアが外に出たことに喜んだ王はレイシーに報酬を与えるとたしかに言っていたけれど、これはどう考えても想像以上だ。


「……別に正当な報酬だろ? もらえるものはもらっといていいんじゃないか?」

「ウェイン、これのどこが正当な報酬なの? う、受け取れません! こんなにたくさん、困ります!」

「しかし……」

「うけっ、うけとれませぇんぐ!」


 大声を出しすぎて舌を噛んだ。王から遣わされたという青年もすっかり困り顔でレイシーを見ている。これがダナならすべて、あらん限りに頂戴します、と親指と人差し指をくるっとくっつけるに違いないが、何事も適度というものはある。


「だいたい、そんなに受け取ったら私は王家に恩を感じてしまうことになってしまいます! それは! 私の心情に! 反します!」


 必死に叫んだ。レイシーは決して一つの国や、王に縛られたいわけではない。


「まあたしかにレイシーの言う通りか……」


 ウェインも納得したように親指で顎を触っている。しかしもらえるものはもらっておけ、なんて彼も貴族の次男であるはずなのに即物的過ぎるような。

 魔王を倒すための一年の旅は、貴族の青年がすれてしまうためには十分過ぎるほどの時間だったに違いない。


「かしこまりました……では、お持ちするのはこの箱の分のみといたします」

「いえこれも持ち帰ってください! 多すぎなんです!」

「そして、クロイズ王からもう一つレイシー様にさらにご伝言がございます。どうぞお楽しみくださいますようにと」

「聞いてくださーい!」


 叫んだ後に、いや楽しむって? とレイシーは目を点にした。その瞬間、青年はぱちりと指を鳴らす。どたどたと部屋の中にやって来たのは幾人もの兵士やメイド達だ。彼らはレイシーを軽々と持ち上げた。「ひーーーー!」 いきなりのことで抵抗するのも忘れてしまった。無理やり馬車に詰め込まれるレイシーを見て、ウェインはほうほう、と腕を組んでその様を見守っている。問題があるならいくらでも逃げることができるだろうというレイシーへの信頼の証のような気がするが、そんなにまったりしていないでほしい。


「勇者様も、もしよければ」

「ん、俺もか?」

「はい、こちらに。お渡ししております金貨は、きちんと保管しておきますので」


 そしてウェインとレイシーは王宮に向かった。色んな所をひっぱられたり、むかれたり、わしゃわしゃにされたり。レイシーは静かに死んだ。


「あら! どこもかしこも細くいらっしゃいますわね」

「コルセットは不要かしら? むしろ詰めたほうがいいかもしれませんわ」

「タオルを! さあどんどん持ってきてくださいましっ!」


 お風呂でつやつやにされて、色々塗られて乾かされて、そしてまた塗られていく。


「肌が白くいらっしゃいますから、おしろいはあまり必要ありませんね。羨ましいことですわ」


 どう考えてもおべっかだ。化粧をされた自分を見てそう思う。何をされたところで、ちんちくりんで重たい黒髪が邪魔をしている。

 好みのドレスを聞かれたってわからない。言われるがままに袖を通して、「できあがりましたわ!」とやりきった表情でふうと息をするメイド達に頭を下げた。口々に褒められはするものの、どう返事をしていいかもわからない。せめてため息をつくのだけは我慢した。必死に着飾

 ってくれた彼女達に失礼だと思ったから。


 行ってらっしゃいまし! と放り出されたのはパーティー会場だ。レイシーの支度にも随分時間を使ったから、すでに日も落ちている。


「これは……一体? もしかして……」


 王宮のフロアすべてを絢爛に飾り付け、花に埋もれるような会場を見て、理解した。そうしたところで、レイシーに声をかける男女が二人いる。アリシアと、もう一人は知らない男性だ。「レイシー!」と明るい声でアリシアは笑いながら、けれども優雅にドレスの裾を揺らしている。


「来てくれたのね」

「アリシア様、こちらがあなたがおっしゃっていた可愛らしい魔道具師様で?」

「それはもちろんそれは秘密ですわ、キーファ様」


 豪奢なドレスに身を包みながら、隣の男性と腕を絡ませアリシアは歓談している。レイシーはハッとした。キーファと言われればエハラジャ国の王子だ。レイシーはぎくりと体を硬くする。王族を前にして緊張しているというよりも、初対面の相手に対してがちがちになってしまう。


「私達の婚姻パーティーに来てくれてありがとう」

「あ、その、はい……」

「とっても綺麗よレイシー。楽しんでね。あなたに会えてよかった。フォトフレームとカメラは大切に持っていくわ」


 アリシアの様子はどこか憑き物が落ちたかのようで、すっきりとした顔だ。「一体それはなんのことですか?」と尋ねるキーファに、「これも秘密ですわ」ともう一度さらりと流す。


「パーティーを、どうか楽しんでね」


 そう言って、アリシアは去っていた。呆然としてしまう。


(……やっぱり、アリシア様と、キーファ様の婚約パーティーだったんだ)


 つまり周囲にきらびやかに聞かざる人々はすべて貴族、また周辺国の貴賓ということになる。だらだらとレイシーの背中に嫌な汗が流れていく。


 アリシア以外にも、クロイズ王からも楽しめと伝言をもらったと言っていた。無理やり極まりない行為だったが、たしかにあそこまでされないとレイシーはパーティーに参加しようなんて思わなかっただろう。でもそもそも国の一大イベントである婚約パーティーを楽しむことができる精神なんてどこにもない。まったく偉い人が考えることはよくわからない、と思いつつも、アリシアが嬉しそうな姿を見ることができてよかったと感じた。


「おっと失礼」


 とりあえず端に逃げておこうかと考えたとき、軽く男性とぶつかってしまった。「大丈夫ですか? 大変失礼しました」 少し言葉の端にクロイズ国以外のなまりを感じる。若く見えるが、彼も他国からの国賓なのだろう。


「大丈夫です、こちらこそすみません」

「怪我がないのでしたらよかった」


 朗らかな笑みの青年だった。頭を下げたものの、自然と目が追ってしまう。青年はテーブルに置かれている料理を見て、あっと驚くような声を出した。なんだろう、と不思議に思ってこっそり後ろから覗いてみると、なんと飴細工が菓子の上に主張している。


(ま、まさかセドリックさんが!?)


 思わず周囲を確認したが違うに決まっている。レイシーの脳裏に、ふわりと狐目の商人の声が流れ込む。


 ――とりあえず、まずは王宮にお高く売りつけてもかまいません?


 クッキングペーパーについて、彼はそう言っていた。


(ら、ランツさん……!)


 確かに無茶しない程度に、と許可は出してしまったが、まさか本当に実現するとは。くらりと目の前が遠くなってしまう。アレンともども、行動力が溢れすぎている。


「なんですか? このお菓子は。硬く、つやつやとしてなんとも不思議な……そして美しい……」

「花の姿以外にも、色々と形を作ることができるのですね。本当に食べてもいいのかしら、もったいないわ」

「なんでもクロイズ国の魔道具師が考えた道具を使用しているとか……。レシピもその方の発案だそうよ」

「まああ……! なんて多才な……!」


(ち、違います!)


 思いっきり叫びたかった。

 たしかにレイシーはクッキングペーパーを作ったが、それがなくても飴細工は作ることはできるし、実際にはセドリックや子供達、全員で考えたものだ。それを一人の手柄と言われるのは耐え難い。あと単純に恥ずかしい。


 驚いている貴婦人達の背中に向かって、レイシーは唸ることしかできない。言うべきか、否か、いやしかし、とレイシーがぴょんぴょん飛び跳ねて人の波の向こう側を見ていると「何をしてるんだ」と聞き覚えのある声がした。(……ウェイン?) そういえば、彼も連れられていたんだった、とレイシーは思い出した。ウェインは男だからレイシーよりも身支度の時間は短かっただろう。それなら随分待たせてしまったかもしれない。謝るべきかと振り返ったのだが。


「…………」

「…………」


 互いに無言だった。

 瞬きをしながらレイシーとウェインは、じっと見つめ合った。


 ウェインは金の髪をなでつけて、きっちりと首をつめ、赤い正装に身を包み肩には彼の髪と同じようなエポレットをつけている。

 一番に意識を取り戻したのはレイシーだ。なんせウェインの正装を見るのは初めてではない。魔王を倒し王都に帰還した際に凱旋した際、今と同じくらいにきっちりした格好をしていた。ちなみにそのときのレイシーはウェインやダナ達の後ろで逃げ回って相変わらずの黒いローブで、重たいフードをすっぽりとかぶっていた。


「ん……なんというか」


 だから今のレイシーの格好はウェインにとって摩訶不思議に映るに違いなかった。細い体をごまかすために首元はレースを重ねて、あまり肌が出ないものを選んだ。婚姻のパーティーでは花の装飾は花嫁のみが身につけることを許されるから、変わりに大粒のダイヤがリボンとともに胸元で揺れている。


 何を着せられてもわからないと思っていたのに、裾にいくにつれて深い青に変わっていくドレスを目にしたとき、はっと視界を奪われた。そんなレイシーに気づいたのか、『お似合いですよ』とメイドはレイシーに微笑んだ。


 嘘だ、似合うわけがない。そう思っているのに、ウェインがレイシーの姿を見て言葉を探している姿を見ると、胸がきゅうっと痛くなる。辛くて、逃げ出してしまいたくなる。「あ、あの、ウェイン!」 だからこっちから言ってやろうと思った。こんなの変よね、笑っちゃう。お化粧なんて初めてしたのよ、なんて。


「あんまり、気にしないでね、私、自分でもびっくりしてて」

「うん」

「なんていうか、すごく、緊張していて」

「うん」

「こんな……ね? 髪だって真っ黒で、こんなのどうしたって」

「うん、すごく似合っている。悪い、驚いてすぐに声が出なかった」

「に、にあって……?」

「前からもったいないなと思ってたんだ。どうにか着飾ってくれないものかと考えてた。でも想像以上に綺麗で、びびってる」


 聞き間違いだろうか。

 ウェインが言ったはずの言葉を頭の中で繰り返して、確認する。綺麗。そう言われた。


「黒い髪と青いドレスが、夜空みたいだ。……なあ、なんでその髪留めを使ってるんだ? 俺が贈ったやつよりも、もっといいものがあっただろう」

「な、なんでって、その……せっかく、きれいな格好をさせてもらえるのなら、つけたいなって、ドレスの色も、ウェインの髪留めと、よく似合うなって……」


 いつの間にか壁まで追いやられて、髪を一房、そっとすくい上げられた。高い背で覆いかぶされるように問いかけられるとウェインの陰に隠れてパーティーの喧騒が遠のいていくようだ。そして混乱しつつ自分の心の奥底にあった気持ちを言語化していくと、最後にあったものはどうしようもない恥ずかしさだ。


 レイシーの言葉を聞くと、ウェインはそっと息を飲んだ。耳に、息が吹きかかるほどに近い。体中がおかしくなってしまったみたいだ。「本当に、かわいいな」 今度こそ聞き間違いかもしれない。


 やっと距離を置かれた、と思ったとき、周囲の曲が変化していることに気がついた。自分にいっぱいいっぱいでそれどころではなかったのだ。


「レイシー、踊るか」

「えっ」


 手のひらを差し出される。

 何に誘われているのか、レイシーだってそれくらいわかる。でも、踊り方なんて知らない。


「大丈夫だ、いいか、上手いやつは踊りを知らないやつでも十分にサポートできるんだよ」


 言うからには相当の自信があるんだろう。けれど、レイシーが戸惑っているのはそれだけではなかった。


 ――おい、大丈夫かよ……怪我はないか?


 カメラの靴を作りたい、と駆け出したとき、こけてしまったレイシーにウェインは手のひらを伸ばした。レイシーはその手を握ることができなかった。嫌ではないとウェインに伝えたのはその通りで、奇妙な恥ずかしさがあったのだ。そのときと、まったく同じようにウェインはレイシーに手のひらを向けている。


 本当は、彼の手を取りたかった。でもそうすることができなかった。なぜだろう、と自分自身に問いかけて、すでに気づいてしまっている感情がある。


「……レイシー?」


 ゆっくりと、ウェインの手に指先を載せた。にかりと嬉しそうに笑う彼を見て、ぎゅっと胸が締め付けられるように痛い。


(私)


 指の先が熱い。引っ張られるようにレイシーはぱっと飛び出した。フロアのいたるところを反響して音楽が鳴り響く。きらきらと金の光が輝いていた。


(……ウェインが、好きなのね)


 いつからかわからない。けれども、ずっと、ウェインに恋をしていた。


(恋なんて、自分と関係のないものだと思っていたのに)


 けれど、本当はこんなにも近かっただと知って、甘いような、苦いような。わけもわからない感情を、レイシーは静かに飲み込んだ。


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