第62話
***
「……え? きっかけじゃ……ない?」
アリシアは、自身の口からどうにも間抜けな声が出てしまったことに気がついた。
目の前にいる少女――レイシーは、まるで困ったような顔をしてアリシアを見ていた。いや、もしかするともともとこんな顔だったかもしれない。いつだって八の字眉毛で、自信がなさそうな顔をして、こちらの顔色をうかがうような、アリシアにとってレイシーとはそんな少女だった。
レイシーがウェインとともに魔王を倒すための旅をして暁の魔女として名を馳せる以前からアリシアはレイシーのことを知っていたし、自分よりも年が下で才能があって、それなのに妙におどおどしているこの少女のことが気に入らなかった。会う度にお前の顔なんて知らないというように初対面のふりを繰り返したが、本当はずっと彼女を目で追っていた。どろりとした感情がこぼれる度に自分が苦しくなった。
アリシアには何もない。
あるものは王族という立派な血筋だけで、それに見合う才能もなく、頭もなく、ティーポットの湯を温める程度の魔術しか覚えることもできなかった。
なのにレイシーは違う。初めにあった気持ちは純粋な称賛だったように思う。自分よりも年が下で血筋もないただの少女が、大の大人にも負けないほどの魔術を行使するという噂を聞いて、こっそりと演習場に足を伸ばしそっと覗いた。そのとき見たレイシーは今よりもさらに幼く小さくて、簡単に折れてしまいそうなほどに細く、頼りない姿だった。そしてその場にいる誰よりも力を持っているのに、そのことをまるでわかっていないかのように下ばかりをうつむいていた。
がっかりしたのだ。純粋な羨ましさや尊敬のような感情がいつしか苛立たしさに変化していた。
レイシーは旅立ち、赤髪で背の高い成人女性という実際のレイシーの姿と異なる噂は不思議に思ったが、『暁の魔女』と呼ばれるほどに、今度こそ身の丈にあった姿になっているに違いないと思ったのに、魔王を討伐して戻ってきたレイシーは結局何の変わりもなかった。アリシアには手に届かないはずの大きな才能を持っているくせに、まるでそれをなんてことのないふりをする。
嫉妬であることは認めたくはなかった。だから、レイシーの婚約者であるラモンドに声をかけられたとき、言いようもない感情がアリシアの胸の中で躍り狂った。あの、『暁の魔女』の婚約者に自分は愛されていると思うとぞっとするほどの嬉しさがあった。……結局、アリシア自身も世間知らずで、ラモンドに騙されていた形だったのだが。
「アリシア様、ですから、その……」
目の前で口ごもりながら、おずおずと話すレイシーの姿に、アリシアは奇妙な違和感があった。たしかに、自分に自信がないように話すのは以前と同じだ。けれど、何かが違う。過去のレイシーはアリシアがこうして怒りをあらわにしたのなら、きっとすぐに引き下がって逃げてしまっていた。なのに、今の彼女はびくびくとしながらも、アリシアに近づこうとしている。
逃げずに、まっすぐとアリシアを見つめている。
「写真を、撮りませんか!」
「……は?」
「ですから、写真を撮りにこの部屋の外に出ましょう! 私が作ったこの道具をきっかけにするんじゃありません。アリシア様自身の行動を、外に出るきっかけにするんです! フォトフレームは先程お伝えしたように、まだまだ撮影魔法に耐えることができます。つまり、写真を保存する容量がたっぷりあるんです。私は、最初、写真は花嫁を思い出に撮るものだと思っていました。でも、その反対でもいいと思うんです」
反対。意味がよくわからない。いつの間にか困惑して後ずさっていたのはアリシアだ。逆にレイシーは一歩を踏み出した。胸いっぱいに空気を吸い込み、頬を真っ赤にしてアリシアを見上げている。
「あなたが、撮るんです。あなたが、この国を写すんです」
そのとき、あまりにも大きな風が吹いた。ぶわりとカーテンが膨らみ、丸みを作る。アリシアのドレスすらも揺らしていた。ちらちらと降り注ぐ光があまりにもゆっくりで、まるで光の粒がこぼれ落ちているのかと感じた。
レイシーがカメラを握りしめた両手を力いっぱいアリシアに向けている。
(……私が? 一国の王女が、“カメラ”を使って、“写真”を撮る……?)
レイシーの言葉が、アリシアの脳裏を揺さぶった。なんて、馬鹿馬鹿しい。そう思っているのに、それ以上の声が出ない。
レイシーは真っ赤な顔をしていた。それはアリシアだって同じだ。いつの間にか、ほんの少し指先を伸ばして、アリシアにとって、不思議な魔道具を受け取った。カメラとは、小さな部屋という意味だと言う。アリシアは。
アリシア・キャスティールは。
――“小さな部屋”を抱えて、こもりきりの部屋からこつりと足音を立てながら、踏み出していた。
「何よ! この“カメラ”! 写したいものが全然写らないじゃない!」
「撮影魔術を使っている分、撮影時間は短いので三脚は不要かな、と思ったんですが、やっぱり必要でしたかね……」
「よくわからないけど、私の細腕では支えきれないわ! レイシー、手伝いなさい!」
「は、はい!」
カシャリ
「配置がうまくいかないわ。どうしてかしら……バランス? 城の全体が入らないのよ! どうしたらいいの、レイシー!」
「あ、アリシア様、さすがに大きすぎるものは写らないです! 限界があります!」
「なんですって!? そんなのちょっとずつ撮っていくしかないじゃない……!」
「けっこう頑張ってしまうんですね!?」
カシャリ、カシャリ
「お父様! もっと素敵に写ってくださいませ! 私が思い出として持っていくものですのよ! 人生で一番素敵な姿になるように努力いただけませんと!」
「す、すまぬ……」
「く、クロイズ王にもご協力いただいてしまうんですか、アリシア様……!」
「当たり前です! あとはお兄様方やお母様にもご助力いただきませんと! お父様、それではいけません、ポーズをなさってください。そう、すばらしいポーズを! 手のあたりをどうにかなさった方が……そう、それ! ちょき! 蟹のお手々のようでナイスですわ、はいピーーーースッ!」
「ピースってなんですかアリシア様!? そしてなんだかチープな感じになってますがいいんですか!?」
「ニュアンスよ! 私が大切に持っていくものなんだから王としての威厳なんてくそくらえよ!」
「お口がものすごく悪いですアリシア様……!」
カシャリ
カシャリ、カシャリ
カシャリ
写真を撮る。
一枚、二枚と思い出が増えていく。その度に強張った体が柔らかく変わっていく。心が変化していく。
「アリシア様」
小さな体でカメラを抱える手伝いをしてくれながら、レイシーはほんの少しだけ口元を緩ませてアリシアに告げた。
「このカメラは、まだ作られたばかりで誰も知らないものかもしれません。でも、いつしか誰もが当たり前に知るものとして浸透します。いえ、そうさせてみせます。この国は変化します。変わらないものはありません。少しずつ、変わっていきます」
そうなのだろうか。
アリシアは、変化が恐ろしかった。なのにレイシーはこんなにも堂々と、嬉しそうに変化を待っている。
この子は、変わってしまった。
そう気づいたとき、アリシアの胸の奥から、ころりとこぼれてしまう声があった。「……なんで、あんなに必死に、考えてくれたの?」 アリシアだって、レイシーの気持ちに気づかないほど鈍感ではない。不思議で、理解ができないことだ。だってアリシアは、彼女に嫌がらせをした。そのときは深く考えることはなくても、女としての醜い感情を、きっと彼女に知られていると思った。
「なんで……?」
アリシアはレイシーの婚約者を盗んだ。たとえレイシーがラモンドに対して愛情がなかったとしても。彼らを見れば、レイシーとラモンドがあくまでもただ婚約という契約に縛られていただけだということは理解できる。
どうしてなの、と声を呟く。アリシアの言葉を聞いて、レイシーは困ったような顔をしていた。答えを出すことができずに、互いに階段を踏みしめて高く、高く登っていく。石畳を歩き、城のてっぺんまでたどり着いた。ひゅうひゅうと冷たい風が吹いて、少しだけ息がしづらい。
人々はちっぽけで豆粒のようだ。こんなに歩いたのはもしかすると初めてだもしくは、結婚なんてことは考えもしなかった、幼い頃以来かもしれない。足がぱんぱんに膨らんで痛くてたまらないのに、城下では多くの民達がいつもどおりに街を歩いていて、きっと変わらず騒がしい。
頭の上の空があまりにも近いから、どうにかなってしまいそうだ。
「……アリシア様が、お困りでは嫌だと、そう思って……」
アリシアの後ろに立つレイシーが、ぽつりと言った。あんまりにも小さな声だから、振り向いて確認しつつも何かの聞き間違いかと思った。それから何を言っているんだろうと考えて、さきほどアリシアがした問いに対する返答だと気づいたとき、笑ってしまった。
なによそれ、漏らしながらカメラを城下に向ける。カシャリ、カシャリとボタンを押す。このボタンは、本来レイシーが作ったカメラにはなかったものらしい。撮影魔術を動作する仕組みを作るため、急遽追加でつけたと説明していた。だからちっぽけで、頼りない。ボタンを押すことでレンズが開き、一瞬で閉じる。カシャリ、カシャリ。ボタンを押す。
不思議と指が震えていた。押すごとにそれは大きくなって、息が苦しい。周囲に誰もいなくてよかった。こんな姿、誰にも見せられない。でもレイシーがいる。そのことでわずかな躊躇はあったが、少しだけだ。何かを伝えようとしたが、声が出ない。いや、勝手にこぼれていた。
ぬぐっても、ぬぐっても、情けなく頬から水が滴り落ちる。
レイシーが驚いたような声を上げて、駆けつけようとして何度も足を踏みしめていた。けれども結局飛び出した。どうかなさいましたか、不都合がありましたか。遠い場所で聞こえるような声がする。返事もせずに、ただ必死でボタンを押した。でも結局落としてしまいそうになったから、レイシーにカメラを渡してせめてもの矜持で唇を噛み締めて、ひきつく喉を隠した。もちろん、隠せてなんていなかったけど。だからせめて、手のひらで顔を覆った。
「ごめんなさい……」
謝るもんか。
だってこっちは王女よ。臣下の男を盗って何が悪いの。そう言っている自分がいる。でもそうじゃない自分もいる。
「ごめんなさい……!」
初めから、彼女は自分に目もくれていなかった。気がついて、虚しくて、腹が立って、でもとても、嬉しかった。レイシーがアステールの魔道具師だと知ったとき、まさかと驚き、なぜか誇らしい気持ちもあった。初めてアステールの魔道具を手にしたとき、不思議な感情があった。そのときは、それが何かわからなかったけれど、きっとレイシーのように思ったのだ。すばらしい力を秘めているのに、それをなんてこともない顔をして平然とそこにいる。そんな姿が。
「――――!」
ドレスの裾が風の中で揺れている。真っ青な空が一面に広がっていた。アリシアの声はどこまでも空に上っていく。
やっと涙が収まって、どうにか息も落ち着いたとき、レイシーは一体どうすればいいかわからないような顔をしてアリシアを見上げていた。涙でぐしゃぐしゃになった顔を今更隠すことさえ恥ずかしい。だから、笑ってやった。
「あの、アリシア様……さっきのは、どういう……」
「違うわよ、ただの言い間違い」
どう言えばいいかと考えた。けれども結局、彼女という人間は胸を張って尊大に伝えるしかない。
「ありがとうって、言いたかっただけよ」
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