第24話

 

 苦しげな声が聞こえる。なのに、レイシーには何もできない。これは誰の声だろうか。わからない、けれどもわかる。


 ――レイシー。


 ウェインだ。いつもの余裕ぶっていて、お節介で、ときどきいたずらっ子のように笑う彼は、どこにもいない。泥の奥に埋まって、ただぽとりと呟いた。そんな声だ。どろどろと、重たいものの中に沈んでいく。次第に声すらも聞こえなくなる。どこに行くの。





「ウェイン……!!」


 飛び起きた。窓の外からは、明るい光が差し込んでいる。ティーとイノシシは、小さなベッドに仲良く丸まっていて、未だに寝息をかいていた。昨日も遅くまで匂い袋を作っていた。夜なべをしているレイシーに合わせて、二匹もギリギリまで起きていたのだ。ちゅんちゅんと、外から聞こえる平和な鳥の鳴き声が、ここは現実なのだと教えてくれる。


 どくどくと、心臓から奇妙な音が聞こえている。わからない。けれど、ひどく怖い。次第に指先まで震えてくる。来客者を知らすベルがちりちりと鳴っている。レイシーはベッドの中から起き上がり、ケープを羽織ろうとして、やめた。外はすっかり暖かくなっている。


 ドアベルの音は鳴り続けている。手すりを持ちながらぱたぱたと急いで階段を下りて、扉を開けようとした。そして、先程の夢を思い出した。ぴり、とまるでドアノブから冷たい何かが伝わってくるようで、開けたくない。けれど、そうこうしている場合ではない。


 あんなものはただの夢だ。勢いよく、扉を開ける。


「よう、久しぶり」


 ウェインがいた。金髪、翠眼の伊達男。上から下まで見てもいつも通りの彼で、何も変わらない。いや、少しだけ痩せただろうか。いつも以上の土産の荷物をどっさりとかかえて、「レイシー、俺がいない間も、ちゃんと食っていたよな?」とお小言つき。


 わなわなと、レイシーは震えた。


「……? どうした」

「な」

「うん」

「なんで、生きているの……!?」

「お前はなぜ俺を勝手に殺している?」




 レイシーの発言は失礼極まりなく、しかも確証なんてものは何もない、ただの夢だ。多分、寝ぼけていた。そして心配していた人物が、なんてこともない顔でひょっこり現れたものだから、混乱したのだ。


 と、いう旨を食卓の席で伝えて、久しぶりの彼の紅茶をゆっくりと飲む。やっぱり、レイシーなんて足元にも及ばないくらいにおいしい。足元ではぶもぶも、とイノシシが鼻を鳴らしてティーがばたばたと暴れている。イノシシを見たとき、「何か同居人が増えていないか」とウェインは一瞬眉をひそめたが、「部屋が多いから」とさらりとレイシーが流すから、まあいいか、と彼もとりあえず頷いた。


 そして話す。考えれば考えるほど恥ずかしくて、小さくなってしまいそうなのに、ウェインは案外難しい顔をしながら、「なるほどな」と納得した様子だった。


「レイシーは魔法使いだからな。強い魔力を持つ魔法使いなら、他人に同調して、少しばかり過去を見ることもあるだろう」


 聞いたことはあるが、同調するほど相性がいいものなど存在もしなかったため、そういうこともあるのだろうか、という程度の感覚だった。


「うん……そうだな」


 言いながら、ウェインはごそごそと服にポケットから、何か小さなものを取り出した。彼の手に隠れていたそれを覗くと、なんてことはない。レイシー印の匂い袋だ。最近は偽物も増えていると聞くが、レイシーの匂い袋には、彼女が必ず星の印を縫い付けているから間違いない。


「ウェインも買ってくれたの? たくさんあるから、ウェインならいくらでもあげたのに」

「……やっぱり、レイシーが作ったのか」


 がっくりといえばいいのか、力が抜けたといえばいいのか。ウェインはため息をついて匂魔具と名付けられた匂い袋を見つめる。どうやらウェインは、これがレイシーが作ったものだと知らなかったらしい。考えてみれば、レイシーがこの袋を作ったのは、ウェインが遠征に出かけてからだ。彼と会うのは、四ヶ月ぶりだろうか。製作者はレイシーの意向で隠されたが、ウェインがいない間に匂魔具はクロイズ国で大流行し、おしゃれに敏感なものは、誰しもが買い求めるようになった。


 昨今では、匂いを操るのがトレンドだそうだ。おしゃれのために、日々様々な種類を求めるマダム達は、もとはブルックスの悩みを叶えるために作られた、だなんて、まさか思いもしないに違いない。


「そうだけど……ブルックスの依頼で。時間はかかったけど、なんとか解決したの」


 自分で言いながら、ちょっと照れた。ウェインは相変わらず眉をひそめたまま、なるほど、と頷く。何か妙な雰囲気だ。おかしなことをしてしまっただろうか? レイシーはない帽子を触るような仕草で、前髪をいじる。顔を隠してしまいたい気分だ。


 ウェインは、先程よりもさらに大きなため息をついた。てっきり、怒らせてしまったのかと思って、椅子の上で小さくなると、「違う、悪い。今のは、自分に対してだ」と彼は慌てて付け足す。それから、覚悟を決めたように、ゆっくりと言葉を落とした。


「レイシー。俺は、お前が作ったこれに、命を救われた」


 一体、どういうことだろう。レイシーのヘーゼル色の瞳が、ぱちりと瞬く。ティーや、ウェインを怖がり、テーブルの下に隠れていたイノシシさえものっそりと顔を出して、首を傾げる。それくらいに、ウェインの声は神妙だ。


「ついでに、以前にもらった薬草。あれも使わせてもらった。悪いな」


 ウェインは、レイシーに確認しながら、一つひとつ説明する。そう、この匂い袋は、ちょっといい匂いがするだけの、ただの匂い袋なんかではない。レイシー特製の魔術が練り込まれている。つまりな、と。続いたウェインの言葉に、レイシーはどんどん眉をひそめていく。彼には、本当に命の危機が訪れた。魔族と、出会ってしまったのだ。


 ***


 ウェインの話をまとめるとこうだ。アクラネは洞窟の中に、毒を充満させた。それを吸い込んだウェインと、メイスという王国兵は、死を覚悟した。けれど、メイスがレイシーの匂い袋を持っていた。彼もウェインと同じく遠征に参加していたから、匂い袋のことは知らなかった。けれども、彼の妻から送られた小さな袋は、丁度いいとお守り代わりにしていたらしい。


 毒は、彼らの意識を奪い取るものだった。けれど、メイスが袋を握りしめた瞬間、洞窟の内部に溢れた毒は吹き飛び、残ったものはかすかに溢れる花の香り。海の街、タラッタディーニでレイシーとともにティーの土産として花の種を買ったウェインには、それがラッカの花だということはすぐにわかった。


 腹に開いた大傷は、レイシーからもらった薬草を貼り付けてやった。最後の手段であったはずの毒でさえも無効化されたアクラネは、能面のような顔に、驚きの表情を浮かび上がらせ、深々と胸の中心部にウェインの剣を埋め込まれた。




「……レイシー、これは、花の匂いを充満させる、そんな簡単なものじゃないな? その場にある空気を浄化し、花の匂いを拡散する。二種類の魔石が縫い付けられているんだろう」


 ウェインなりに、なぜ毒が無効化されたのかと調べたらしい。その通りだったから、レイシーは頷いた。魔石に魔術を練り込ませるにも、小さなものしか難しい。最初に考えたのは風魔法だ。けれど、臭いを拡散できるほどの威力はなく、諦めた。それならと思いついたのは、袋の周囲を、空気ごと浄化してしまうことだ。


 範囲を狭めれば、小さな魔石でも使用できる。もちろんそれができるのは、極端に術式を効率化することができるレイシーのみだ。野外となると難しいが、洞窟のような閉ざされた場所なら、広い空間でもなんとか対応できたはずだ。そして、浄化した空間には、穴ができる。その部分をラッカの花の匂いで埋める。そういう仕組みだ。


 国中に流行した理由は、とにかく強い消臭力。これにつきる。花を直接身につけるものも社交界の中にはいたそうだが、あまりにも微かですぐに匂いも消えてしまう。その点、レイシーの匂い袋なら、浄化された分、周囲の下手な匂いと混じり合うこともないし、新しく種類を出したとしても互いに喧嘩し合わぬように調節しているから、それぞれが楽しむことができる。


 という説明をしつつ、話しつつ、レイシーはウェインの命を救ったという言葉を理解して、むっつりとふさぎ込んだ。最近ではあまり見かけないポーズだが、杖を大きくさせて、抱きしめながらウェインを睨む。怪我はすっかり治ったらしく、ウェインがいつも通りに作る、いつも通りの、いや久しぶりだから、さらにおいしい料理をむっつりと食べる。


 ただただ、レイシーは不機嫌だった。そんなレイシーを見て、ウェインは苦笑した。そうして夜になり、ティー達はベッドに戻る。レイシーも、そろそろというところだ。ウェインには、ウェイン用の部屋ももちろんある。でも、彼らの会話はいつもよりも、ずっと少ない。


「……なあ、レイシー」


 まるで困った子供を相手にするように、ウェインはレイシーに声をかけた。


「ちょっと、外に出てみないか?」






 杖を持ちながら外に出ると、満天の星空だった。雲ひとつなく、きらきらと一つひとつが互いに主張し合うように、星がきらめく。ちょっとばかり、遠出をすることにした。ウェインの後ろを、レイシーはくっついて歩く。言葉はない。決して、レイシーは怒っているわけではない。ただ、そう。後悔、している。


「まあ、とりあえず座ろう」


 どさりとウェインは原っぱの上に腰を下ろした。レイシーも、静かにそれに倣う。

 すっかり過ごしやすい季節になった。プリューム村に来たばかりの頃は、冬の本番を待ち構えていた。それから、コカトリスに出会い、村の人々と顔を合わせて、ブルックスと友人になった。レイシーからしてみると、驚くべき変化の連続だ。


 二人でただ、星空を見上げた。そうすると、子供のようなふりをして、拗ねるようにしていた情けない自分の口が、ひどく柔らかくなっていることに気がついた。ぽろりと、ずっと考えていた言葉が勝手に漏れていた。


「ねえ、ウェイン。まだ、魔族は生きているのね」


 ああ、とウェインは頷く。

 魔族。多くの人を傷つけたもの達。彼らを倒すために、レイシー達は旅に出た。根源となる魔王を打倒した。けれども、全てを倒し終わってはいないだろう。心の底では、そう思っていた。結果、想像の通りだった。

 一つ歯車が狂えば、ウェインもどうなっていたかもわからない。怖かった。だから、続けた。


「……私も、もう一度。国に仕えた方が」


 自由に生きたい。そう願ったのはレイシーだ。その通り、レイシーはプリューム村にやってきて、多くの初めてと出会った。初めて自身の足で立って、進んで、動いていける。けれど……ウェインは?


 ウェインは、未だに一人で戦っている。パーティーはすでに解散した。でもいつかまた、魔族は現れるだろう。そのとき、今回のようになんとかなる保証なんてどこにもない。だから、せめて。レイシーだけでも。


 覚悟の上の言葉だった。なのに、ウェインは吹き出すように笑った。


「いいんだよ、レイシー。お前は自由に生きてくれて」


 いつの間にか、ウェインは頭の後ろに手を組みながら、草の上に寝っ転がっていた。あまりにも軽い口調だったから、でも、とレイシーは言いよどむ。ウェインは、優しい。お節介だ。でも、だからって、一人で苦しむことはない。


「自由に生きる。それが、お前が王に願ったことだろう」


 王から契約紋を解除されたとき、とても恐ろしかったことを覚えている。嬉しくて、溢れる涙はどこまでも止まらなかったはずなのに、心の底では震えていた。新しい道を進んでいくということはそれほどまでに、恐ろしくて、嬉しくて、たまらなかった。


 ウェインがいなければ、きっと思いつきもしなかったことだ。たとえ婚約を破棄されたところで、次の婚約者が与えられ、形ばかりの妻として、一生を終えていただろう。今更、以前と同じ生き方をしたいとは思わない。けれども、仲間である彼を放ってなんておきたくもない。


 声を出そうとした。けれども、うまく感情が動かない。そのときだ、ふと、疑問を思い出した。ブルックスの願いを考えたとき疑問に思った。レイシーは、ウェインの願いを知らない。彼にも王に願う権利はあるはずだから、きっと何かを願っている。――それとも、レイシーのように何もないと告げたのだろうか?


 まるで彼の中には、なんの欲もないようだ。ウェインのことを、レイシーはよくわからない。聞いてもいいのだろうか、と考えて、同時に知りたいと思った。


「……ウェインは、何を願ったの?」


 ウェインは、瞳を大きくさせた。口元を引き結んで、彼らしくもない顔をする。少しばかり、考えているようだった。けれど、ため息をついた。ちょい、とまるでこっちを呼ぶように手を振るから、寝っ転がった彼に覆いかぶさるように近づく。レイシーの長い黒髪を、彼はちょんとひっぱる。


「お前だよ」


 頭の上で、ころりと星が転げ落ちた。



 ***



 言うべきか、少しばかり迷った。言えば、レイシーは重りのように感じてしまうかもしれない。けれども、言わなければ彼女は今の生活を捨ててしまうかもしれない。


「レイシーが、どんな願いを言っても、必ず叶えてくれるようにと願った」


 魔王討伐を行ったものに、何でも一つ、願いを叶える。そんなものは建前だ。レイシーは国一番の魔法使いだ。そんな人間を王が手放すはずもない。だから告げた。たとえ彼女がどんな願いを言ったとしても、それは自分とレイシー、二人分の願いなのだと。だから必ず、叶えてくれるようにと。


「……なんで」


 レイシーは、大きな瞳をあらん限りに見開いていた。そうなるだろう、と思った。ウェインにだってわからない。なぜ、自分がこうもレイシーばかりを気にするのか。嘘だ。記憶を遡らせる。


 ――お前、何もないのか?


 あのときのことは今でも、はっきりと覚えている。

 聖剣を扱える持ち主であると、いきなり勇者ともてはやされ、わけもわからず国中の精鋭が集められたパーティーのリーダーになることになった。能力としては極上でも、話も合わない変人ばかり。頭をかかえた。その中でも、レイシーは異端だった。


 いつも重たいローブのフードを被っていて、真っ黒で、まるで杖が歩いているのかと錯覚するくらいに自己主張をしない少女。何をしたくて、言いたいのかわからない。命令すれば、その通りに動く。小さい体で、誰よりも火力を持ち大規模な魔術を使い、戦力としては十二分だった。ただ、存在感だけがとにかく希薄だった。放っておくと、勝手に消えて、野垂れ死んでしまいそうだ、と今よりも少しばかり冷淡であったウェインは淡々と考えたが、実際その通りだった。


 旅の途中、簡易のテントから踏み出したとき、レイシーはぺとん、とこけた。重さもなく、本当にその中に人間が入っているのかと不安になるほどで、ウェインはレイシーを奇妙な少女だと距離を置いていたものの、さすがに仲間である。大丈夫かと声をかけ、近づいた。


 そのとき聞こえたのは、小さな腹の声だ。

 考えてみると、食事のときでもレイシーは端にて、誰とも話をしない。いつの間にか消えている。


『腹が減ってるのか?』


 問いかけてみると、彼女は不思議そうな顔でウェインを見た。初めてみた彼女の顔は案外可愛らしく、幼い表情をしていた。


 別にお腹が減っても、適当に薬草を食べればいいし、食事だって数日に一度でも死にはしない、といった旨をたどたどしく語るレイシーの首根っこを掴んだ。彼女は目を離すと、いつも一人で鍛錬に向かう。魔術を精密に、正確に使用できるようにと国一番の魔法使いであるくせに、さらにと上を目指している。


 最初よりも、随分会話ができるようになった。

 だから、聞いてみた。旅が終わって、何を願うのか。何をするつもりなのか。

 いつしかレイシーは、ウェインの前ではフードを下ろして話すようになった。彼女はやっぱり子供みたいにきょとんと瞬いて、首を傾げる。婚約者がいるから、結婚する。魔王を倒すために生きてきただけだから、魔術を何かに使いたいとも思わないし、それは自分が決めることではない、と。





「……だから、気がついたら、何もないのか、と聞いていた」

「……覚えてるよ。願いなんて、考えてなかったから、そのときはびっくりした」

「そうか、レイシーも覚えているか」


 なんてこともない会話だったから、レイシーは忘れているものだと思っていた。けれどそのとき、ウェインの中でかちりと何かが噛み合わさったような感覚があったのだ。


「……俺は、シェルアニク家の次男で、家督もないから、多分適当にどこかに婿入りさせられるものだと思っていた。貴族だからな、仕方がない。年をとれば飲み込むことができるようになったが、子供の頃はなんでだと暴れたもんだ。表向きは品行方正な悪ガキは、ちょっとばかしひねくれていた」


 今でこそは人よりも魔力量はあるが、子供の頃は極端に少なかった。魔力が低いものは貴族の中で肩身の狭い思いをするしかない。考えてみると、あれは勇者としての才が、小さな体に見合わず、うまく使いこなすことができなかったのかもしれない。


「結局、勇者だのなんだと言われて、国に縛られる代わりに、ちょっとは自由になった。だから、お前を見ていると昔の自分を見ているようで、やるせなかった」


 それに、レイシーはウェインよりもずっと深く、自身の中の願いすらも気づかなかった。


「理由を言うなら、そんなところだ」


 だから婚約が白紙となり、大声を上げて泣いた彼女を見て、できることなら、抱きしめたかった。でも、そんなことはできないとも思った。


「……私は、ウェインを私から解放したいと、思ってた。ウェインは、お節介で、世話焼きだから、こうして一緒にいてくれるけど、そんなの、本当はだめだと思って……」

「はは、なんだそれ」


 別に、ウェインは誰にでも優しいわけではないし、レイシーと初めて出会ったとき、もっと優しくしてやればよかったと今でも後悔する。細い彼女の手をひっぱる。ひゃあ、と小さな悲鳴を上げて、すぐにレイシーは、ウェインの隣に転がった。


「離れるなよ。俺のそばにいてくれよ。お前は自由に、生きて、それを一番近くで、俺に見せてくれ」


 レイシーの前髪を片手で持ち上げ、こつりと額をつける。わずかに、レイシーの瞳には涙が滲んだ。

 彼女のことをこんなに想う気持ちがあるのに、ウェインは自身の感情がわからない。おぼつかない足で歩く少女を不安に思って、ただ手を出したくなってしまっただけなのか、過去の自分に重ね合わせただけなのか。


 レイシーは、ウェインと離れることを願った。自分の足で真っ直ぐに立って、彼に不安をかけぬように生きるようにと。一緒にいたいと願う気持ちを箱の中に入れるように封じ込んで、ウェインの幸せを願った。


 互いに、互いを想って、気づいてなんかいない。けれども、


 レイシーが大声を上げてウェインの前で泣くのは、これで二度目だ。きらきらと輝く星の下で、まるでどこまでも続くような原っぱの中に二人で転んで、今度は、ウェインは彼女を抱きしめることができた。


「こんなの、泣くことなんかじゃないだろ。泣くなよ、な、泣くなって……」


 でも、涙をぬぐうことはできなかったから、どうしようもなく声を出して、彼女の小さな頭を自身の胸元に押し付けた。

 ぐずぐずになって、肩をひくつかせる彼女に笑った。何度も、レイシーの頭をなでた。何度だって。




 ***





 ある日のことだ。ウェインは、プリューム村に訪れた。

 暑い季節になると、とにかくブルックスが元気になるから、そろそろあいつもやってくるかな、と思いつつ屋敷に向かう。ふと、屋敷の前に見覚えのある少年がいた。この間会ったときよりも背が伸びているが、成長期なのだろう。オレンジ髪で元気なそばかすを頬に散らしている少年は、とんてかんとトンカチを振り回し、レイシーの屋敷の前に、何やら立て看板をたてている。


「おう、アレン」

「ああ、レイシーの彼氏さんか」


 アレンはじっとウェインを見つめて、「やっぱり金髪だよな? 黒髪やら茶髪じゃないよなあ……」と首を傾げている。隠蔽魔法の影響だろうか。それはさておき、「何してるんだ?」 不思議なことをしている。


「アレン、ありがとう、どんなかんじ?」

「レイシー姉ちゃん。ばっちり上々。見てよほら」


 丁度レイシーが扉を開けた。ふと、アレンと比べると彼女も少しばかり背が伸びているような気がする。どきり、とした心臓の付近をウェインは触って、首を傾げる。何のことはない。そろそろ彼女だって十六だ。背だって伸びもする。今までが小さすぎたのだ。


 自分のその気持ちがときめきであるだなんてまったくもって気づかず、普段どおりに近づき、自慢げにするアレンの手元を覗いてみる。看板には、『何でも屋』と彫られている。その下には見覚えのない言葉だ。


「あの、匂い袋で、貯まったお金があるし、何に使おうかと考えて……」

「別にこんなもんいくらでもタダで作ってやるんだけどさー」


 彼女が得た金は、もちろんこんなものではないので、普段が倹約家のレイシーだ。思いつかず、やっとひねり出して、というところなのだろう。看板が一つあるだけで、随分雰囲気が変わるものだ、と驚いた。昔のレイシーと同じように、来るものを拒む雰囲気が屋敷にはあった。レイシーが住むことで、少しずつ薄れてはきたものの、今はそんなことはすっかり忘れたかのように、明るく、手を広げているようにも思う。


「……この言葉は?」


 難点と言えば、看板の高さがちょっと低いところだろうか。ウェインは背をかがませつつ、何でも屋、と彫られた下にある言葉を指差す。するとレイシーは少しばかり照れたような顔をして、両手を合わせた。


「あの、えっと、ババ様が、名前と一緒に、どう進んでいくのかが重要と言っていたから、目的、のようなものを、書いてみた、んだけど……」


 自信がなさそうに、耳の後ろを赤くしている。つまりは、店の名前ということだろう。


「いいんじゃないか? 綺麗だし、レイシーに似合ってるように思う」

「ほ、ほんと?」

「ああ」

「俺を無視するのはやめてくれよ」


 ついでに彫ったのは俺だけどね……とアレンは静かに呟く。ごめんなさい、と慌ててレイシーは屋敷の扉を再度開けた。


「ウェイン、いらっしゃい。アレンもお疲れ様。お茶とお菓子を用意してるから、よかったら寄っていって」

「やったね!」


 ぴょこんとアレンは跳ねて、一目散に屋敷の中に消えていく。その姿を見ていると、下手をするとこの屋敷に一番来ているのは、ウェインではなくアレンなのでは……? という疑問も湧く。相変わらずティーはイノシシの上に乗って、キュイキュイぶもお、と畑を駆け回っているようである。元気そうでなによりだ、とウェインも屋敷の中に入る。

 涼しい風が吹いているのは、レイシーの魔術だろうか。器用に使うようになったものだ。


「……あの、ウェイン。実は、なんだけど」

「……ん?」

「今更、なんだけど、私、手紙を書いて」


 誰に、と聞くほど、ウェインは野暮というわけではない。すぐにレイシーの頭に手のひらを載せた。


「そうか、あいつらが来たら、また騒がしくなるな」

「……来てくれるかな」

「当たり前だ。むしろ、ちょっとくらい怒ってるかもしれないな。そして多分俺も一緒に怒られる。なんで言わないってな」


 けらりと笑う。

 そんなウェインを見ながら、どうだろう、とレイシーは不安に瞳を伏せた。手紙の宛名を書きながら、少しばかり指が震えた。でも、もちろん後悔はない。楽しみと、不安が混じり合った気持ちで、アレンを追った。




 ***



 レイシーが手紙を出してから、それほど日が経つことはなく、ことりといくつかのポストに手紙が入った。一人は、気づくまで、随分時間がかかった。もう一人は竜便が来たみたい、と告げられた言葉に首を傾げて、ありがとう、と柔らかくお礼を伝える。


 宛名を見た。

 彼女のもとには、いつも多くの手紙が届く。


 ――光の聖女、ダナ様へ。


 覚えがない筆跡だ。不要な手紙も多いから、さっさと捨ててやろうと思って今度は差出人を確認する。


『何でも屋、星さがしより』


 やっぱり覚えがないけれど、不思議と彼女は封を開け、ぷっくりとした唇をわずかに開いて驚いた。それから、少しばかり笑った。


「ねえ、私、ちょっと旅に出てもいいかしら?」


 驚きの声を気持ちよく浴びながらも、彼女はいそいそと旅支度をする。忙しさにかまけていて、すっかり旅などご無沙汰だ。さて、何をもっていこう。荷物を詰め込みながら楽しくなる。





 一つのきっかけが、一つを呼び、それからたくさんに広がっていく。

 これからもっともっと、たくさんの関わりを抱きしめることをレイシーはまだ知らないけれど、ゆっくりと、のんびりと知っていく。


 きらきらとした、星空を歩くように。少しずつ。

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