第23話

※ 若干ですが血をイメージする描写があります。苦手な方は気をつけてください。






 

 事前の情報と異なる。

 ウェインは静かに舌を打った。可能性としては、情報が古かったということ。彼らが遠征を繰り返している間に、刻々と状況が変化した。


 ――蜘蛛。


 倒しても、倒してもきりがない。ウェインは無言のまま剣で切り裂く。額に汗がにじむ。風の魔術で表面をコーティングされた剣は、通常なら叩き潰すしかないものを、滑るように切り伏せる。器用な男だ、とブルックスには笑われたものだ。


 けれども、部隊の多くはそうではない。中にはウェインよりも未熟で経験の浅い兵もいる。右に、左に。どこからやってくるかわからない蜘蛛と呼ぶには醜悪なそれに翻弄され、潰された目をあえぐ声が聞こえる。


(……撤退すべきか)


 ウェイン一人なら、どうとでもなる。おそらく、この蜘蛛を操っている“何か”が存在する。一匹いっぴきは、大したことはなくても確実にこちらの穴をつくように動いている。その“何か”をウェインは理解している。ぞっとするような感覚とともに、剣の柄を握りしめた。あれには知性がある、計画がある、人間というものを、理解し、逆手にとる。


 洞窟を進んだ先には、女がいた。半分は裸体。けれど、下腹部には蜘蛛の体。「く、食われたのか!?」 震えながら、メイスが叫ぶ声が聞こえる。彼はウェインよりも年は上だが、この中では一番の若手だ。


「……違う」

「え、でも、隊長……」

「見てみろ」


 女は、ゆるりと体を動かす。食われたと思われたその体は、境目など存在しない。女の足が丸い蜘蛛の体をしている。アラクネ、と呼ばれる魔族である。彼らは通常の魔族とは異なり、人に近い脳を持つ。魔王がウェインによって倒された今、生まれるはずのないもの。つまりは生き残り。


 暗い洞窟の奥底でただ静かに魔物を生み出し続けていた。

 女の顔はある。けれど、まるでのっぺらのようだった。ただ、そこに、目と、鼻と、口がついているというだけ。女の腹はうぞうぞと何かが蠢いている。今もなお、生み出されている。背を向けるわけにはいかない。


「各自、撤退! 怪我をしているものは、遠慮なく回復薬を使用しろ! ここは俺が引き受ける!」

「け、けれど」

「走れ!」


 すでに、ウェインの手には聖剣はない。彼はただの人である。しかし、彼は余りあるほどの才を持って生まれた。命を使い切るように旅をした経験が、さらにそれを磨いた。一呼吸の間に、二匹がウェインの足元に崩れ落ちる。それを繰り返す。生み出されるよりも多く屠る。単純な話だ。単純すぎる、話だった。





「メイス、さっさと逃げろと言っている!!」


 多くの兵が撤退する中、メイスはただ足を震わせた。逃げなければならない。魔族は、国一つの兵力にも値する。それほどの存在を一度にぶつけなければ、食いつぶされるだけだ。頭では理解している。けれど、逃げることができない。それほどまでに、目の前の光景は壮絶だった。蜘蛛達の中をウェインはかいくぐり、尋常ではない剣技を叩きつける。剣では足りないならば、拳を使う。それは、メイスが知ることはないが、ブルックスの武術だ。


 一体、ただの人の身で、どれほどの鍛錬を重ね、窮地を乗り越えたのか。ウェインは、すでに勇者ではない。元は勇者であったただの人だ。過去の彼は、きらびやかな剣をその手に握っていた。


 ウェインを勇者と示す剣は、すでに彼の手にはなく、奥深くに封印され、次の来たるべきときを待っているのだという。――まるでおとぎ話だ。けれど、今は現実だ。


「に、にげ、逃げません!」


 すでに明かり役となる魔法使いもウェインの命令の中、消えてしまった。今頃は王都に伝令を飛ばし、指示を仰いでいるのだろう。

 メイスには、魔術の適正がある。この暗闇ではいくらウェインといえども、どこから敵が襲ってくるかもわからない。へたりこんでしまいそうになる足を叱咤し、長い呪文を唱え、火の玉を作り出す。噂に聞く暁の魔女であるのなら、一つ指を振るう程度でメイスと同じものを作るのだろうが、今の彼にはこれが精一杯だ。剣を杖の代わりとして、延々と呪文を叫び続ける。一瞬でも途切れれば、すぐさま火の玉は消えてしまうだろう。


 アラクネに従えられる蜘蛛と、火の相性が悪いらしいことは幸いだった。彼らは炙るような炎に、じわりと後ずさり、メイスには近づかない。ウェインが、彼を守るように戦っているということもある。そのことに気がついたとき、やはり彼が言う通りに逃げるべきだったのか、それともこれが正しかったのか、メイスにはもうわからない。けれど、ウェインがメイスに、逃げろと叫ぶことはもうなかった。


「……すごい」


 少しずつ、蜘蛛の数は減っていく。洞窟におびただしいほどの数で埋め尽くされていたはずの蜘蛛が、今はもう数えるほど。アラクネが産み落とす速度も落ちている。ほっとすると、麻痺していたような感覚が抜け落ちて、遅れてくる恐ろしさにまた震えた。でも、ウェインに比べれば、自分などただ突っ立っているだけだ。


 ウェインの刃が、アラクネに届く。女は悲鳴を上げる。がたがたと体は震えているのに、安堵の息を吐いていた。そのとき、少しばかり視界が回った。

 てっきり、魔術を使いすぎたせいかと思っていたが、それとは違う。ぐらぐらと、立っていることはできない。それでも、どうにか火の玉を維持して、倒れ込み、ひゅうひゅうと咳き込みながらも呪文を続ける。


(なんだ、これは……)


 メイスだけではない。ウェインの動きも、どこか鈍く、体をぐらつかせている。毒だ、と気づいたときには遅かった。密閉した空間の中で逃げ場もなく、全身から汗が噴き出す。息を吸うことができない。「う、ぐ、あ……」 自身の胸元をかきむしる。少しずつ、火の玉が削り取られるように消えていく。薄暗く変わる視界の中で、思い出すのは妻のことだ。自然と、服の胸元に忍ばせた小さな守りを握りしめる。


(隊長……)


 ウェインが、アラクネに叩きつけられ、腹に大きな穴を開け、壁に縫い付けられた。その光景を最後に、メイスの記憶は途切れた。ぷっつりと、まるで切り取られたように。

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