第20話
やってきたのは、強烈な――におい、だった。
そう。匂いではなく、臭い。
出てきたものは、ただの手甲。そう、門下生達が一律で使用しているものである。ウェインはレイシーほどの反応はないものの、目をつむりながら眉の間にシワを深めている。ブルックスは、二人の反応を確認すると、静かに布で包み直した。
「見ての通りだ」
ブルックスは呟く。いや、と首を振った。「におっての通りだ」 そんな言葉は存在しない。が、なんとなく、ブルックスの伝えたいことが見えてきたような、見えてこないような。
「俺の流派は、体を鋼鉄に変える……変えてしまえば、こんな手甲などいらんのだが、習いたてのものはそうはいかん。怪我をしてしまってはもともこもないからなァ……。まずは、この手甲で慣れて、体を変化させるイメージを持つ必要があるんだが」
なるほど、レイシー達が知るブルックスは、素手での戦闘を得意としていた。ブルックスは、すでに磨かれ終わった後、という話なのだろう。
「街を見てくれた通り俺はそこそこ人気がある。だから、始めにこの道場を開いたときは、入門者があとをたたなかった……はずなんだが、手甲を使用した後、腕を引き抜き卒倒するものが頻発してな……。修行中、どうしても汗はかくからな。しかも崖の上でちょっとはマシとはいえ、年中夏のような街だ」
大声で、がははと笑う姿が似合うはずのブルックスだが、今ばかりはしゅんとして声どころか体まで小さくなってしまっている。
「流派を開いたはいい。けれど、肝心の門下生が増えねぇんだ……」
道場で修行をしているものは、見たところ片手で数えることができる程度だ。建物の広さの割には、随分少ない。当初は活気があったのだろう。壁には門下生達の名札を下げる釘がいくつもあるが、釘の数に対して、札の数は見合わない。
つまり、さきほどブルックスが布で包んだ鋼鉄の手甲は、決してそれ一つが特別なものではないということだ。
先程は思わず涙が滲んでしまったレイシーだったが、それはひどく、非礼なことであったと恥ずかしくなった。なぜなら、これは門下生達の努力の結晶である。それに誰も好き好んで手甲をつけているわけではない。それを外すことを目的として、今も鍛錬を続けているのだ。
「一人ぬけ、二人ぬけ……。今も残ってくれているやつらは本当にありがたい。俺は一人で修行したもんだから、そんなこと気にしもしなかったが……けれど、こいつらが不憫でなあ。周りの目もある」
しょぼくれつつ、ブルックスは背後を見た。道服を来た若者達が、休むことなく、巻き藁を打ち続けている。
「……暁の魔女、レイシー。いや、今は、レイシー・アステールだったか。俺の依頼はこの手甲の臭いをなくすこと。もしくは門下生達が負担なく、修行を行えるようになること、だ。どうだ、依頼を受けてくれるだろうか?」
***
「……どうだ、何か、思いつきそうか?」
「ううん……」
ブルックスの依頼を、彼女にしては珍しく一もニもなく引き受けます、とすぐさま頷いたものの、考えれば考えるほど難しい。さっそく道場で実験を行ってみたが失敗続きだ。気分転換にとウェインに誘われ街に出たものの、考えるのはやっぱり彼らのことばかり。ウェインもそれをわかっているのか、言葉数は少ない。
最初に思いついたのは、風魔法だ。けれど、いつもその場にレイシーがいるのならともかく、タラッタディーニとプリューム村は、祠を使用したとしても、簡単に行ける場所ではない。そもそも、レイシーには単独で祠を使える許可もない。それならレイシーの魔術を魔石に染み込ませ、風の魔道具を作る方法もある。が、魔石に覚えさせる魔術は、どうしても規模が小さくなる。臭いを飛ばすほどの威力は期待できそうにない。
それならブルックスに、いや、門下生の中でも適正がありそうなものに、風魔法を教える……と、考えたところで、勢いよく首を横に振った。なぜならブルックスの武術と、魔術の適正は反比例するのだから。下手に魔術を覚えて武術を覚えることができなくなってしまえば、後悔してもしきれない。
「……中々、頓挫しているみたいだな」
「うん……」
気づいたら両手で杖を握っている。多分、不安になっている。
カラフルな街の中を歩けば、少しばかり気分が上がるのではないだろうか、と思ったのだが、ああすれば、こうすれば、と考えて、必ずどこまで止まってしまう。レイシーはため息をついた。
――決して、報酬に釣られたわけでも、始めたばかりの何でも屋に早くも黒星がついてしまうことが悔しいわけではない。
王に願うほどのブルックスの願いの力になりたいと思うし、それと同時にブルックスについていく門下生達が、気持ちよく修行できるようになってほしい。
「花も売られてるな。なんでもある。元気な街だ。ほら、見てみろレイシー」
「……うん……」
「……わかった。飯だ。飯を食え。考える時間がほしくて食事を抜く。なるほど問題外だ。まずは腹に詰めてから考えろ、海の幸をたっぷりと腹に詰め込め!」
――と、いうわけで詰め込まれた。
以前に海の近くに寄ったときは、味わう余裕もなく、気持ちもなかった。まるで年がら年中お祭りのような街は、ブルックス自身のようだ。タコと呼ばれる謎の生き物が入った熱い球体を頬に詰め込み、イカの姿焼き、丼に載せられた宝石のような赤い粒達。もちろん、それを全て食べることはレイシーの小さな胃袋では困難であったため、半分はウェインのもとへ。
すっかり重くなった体をかかえられ、レイシーはブルックスの屋敷へ運ばれた。満腹と満足を重ね合わせて、借りたベッドですやすやと眠っている。しかし、起きればまたブルックスの依頼に頭を悩ませるんだろう。
ブルックスの屋敷もまた、崖に面している。タラッタディーニの大半は斜面に沿って海を見下ろすような立地だ。漁師達が迷わぬようにと昼には色とりどりのカラーで主張し、夜にはいたるところに小さな魔石いくつも重ね合わせて、光らせている。
部屋の窓からその様子を目にしながら、ウェインは眠るレイシーの頭をゆっくりと撫でた。呆れたようにため息をついて、部屋を出る。そのときだ。
「おお、ウェイン。お嬢ちゃんは寝ちまったかあ」
ブルックスに声をかけられた。音量を調節しろ、とウェインに言われてから、一応彼なりに気をつけているらしい。壁の向こうには寝入ったばかりのレイシーがいるということもある。後手にドアを閉めつつ、ウェインは頷いた。しかしブルックスはウェインの前に立ちふさがったままだ。なんだ、と首を傾げたとき、大きな手で片手にワインの口を持ち、もう片方にはグラスを二つ。
「どうだ、たまには付き合わんか」
にかり、とブルックスは笑った。
「お前とこうして酒を酌み交わしたことはなかったな」
「そうだな。旅をしていたときは、まだ成人していなかった」
一年前、ウェインはまだ十七だった。大きな声でいえる話ではないが、舐める程度の粗相はしていたが、まさか世界を救う勇者がどうどうと悪さをするわけにはいかない。もともとなくても困ることはなかったから、旅の間はジュースで満足していた。
だからこうしてブルックスとグラスを合わせるのは奇妙な感覚だ。
「せっかくだ! ウェインの成人と、レイシーの門出を祝って、存分に酔うぞ!」
「ほどほどにしてくれ。ついでに俺の誕生日は何ヶ月も前だ」
かんぱい、とグラス同士を叩きつけると、軽やかな音がする。バルコニーで椅子を二つ。もたれかかるように空を見上げる。夜になると、陸から海に吹き下ろす風が頬を撫でる。生ぬるくはあるが、そう悪い気分ではない。冷えたグラスと、簡易なつまみ。これはこれで、というところだ。
「レイシーの様子はどうだ?」
「相変わらず、頭を悩ましている様子だ。夢にも出ているみたいだぞ、ぶつぶつと何か呟いていた」
「そりゃあ悪いことをしたなァ」
「いいや。逆に丁度いいタイミングだったよ。レイシーの引っ込み思案は筋金入りだ」
「俺はレイシーに苦手に思われているだろう。他のやつの方がよかったんじゃないか」
「だからこそだ」
何でも屋を始める、となっても、まずは客を探すところから頓挫していただろう。そこでブルックスだ。仲間として、人となりを知っている。けれども、ウェインのように気安い仲ではない。客らしくはないが、間違いなく客だ。
聞きようによっては失礼ととらわれかねなかったろうが、ブルックスはなんてこともなく、グラスを掲げたまま、がははと笑った。グラスの中に入った酒がぴちょんと跳ねる。
「本当に、お前は相変わらずだなあ」
相変わらず。
言われた言葉の意味はわかる。だから、あえて口をつぐんだ。ウェインの行動は、あまりにもお節介だ。レイシーを子供でないと知りながら、そのような扱いをする。いつか、パーティーの誰かにはやされるだろうと思っていたが、それがまさかブルックスだとは思わなかった。
ただ彼は、ウェインよりも年が上で、実のところずっと思慮深く、パーティーの要でもあった。だから、あえて旅をしているときは、そのことを言わなかった。
「ウェイン、お前、レイシーのことが好きだろう」
不意打ちだった。
飲んでいた酒が、喉の奥にひっかかる。ウェインは眉をひそめて、口元を手の甲で擦る。言葉に出しきれない感情をワインとともに飲み込んで、さらに顔を難しくさせる。グラスをテーブルにゆっくりと載せる。
「……違う」
「そうか?」
「いや、そうじゃなく。俺がレイシーに特別な感情を持っていることは認める」
けれども、それがどういったものなのか、ウェインにだってわからない。
レイシーはウェインにとって、保護すべき対象だ。持っている力であるとか、国一番の魔法使いであるとか、そんなことは関係ない。レイシーが、レイシーであるから。
飲んだ酒が、珍しく少しばかり回ってしまっているのだろうか。「わからない」とぽつりと呟く彼の顔はひどく赤い。そっぽを向いた。でもすぐに自身の顔に気づいたから、片手で顔をぬぐった。飄々としているこの男が、耳の端まで赤く染まっている。その様を、ブルックスは茶化すわけもなく、なるほどと頷く。
「そういうこともあらあな」
それだけだ。話は、すぐに逸れた。楽しく酒を酌み交わした。
けれど、その夜、ウェインは少しばかり夢を見た。ウェインがレイシーと初めて出会った、今となってはあまり思い出したくもない日のことだ。
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