第15話

 

 あれはコカトリスと出会った日のことだから、二、三ヶ月前のことだったろうか。

 アレンは妹か、弟かまだわからないけれど、兄妹が生まれるのだと言っていた。その日のことを、レイシーはよく覚えている。椅子に座ったまま、声変わりが終わったばかりの声を嬉しげに弾ませて、アレンはテーブルに肘をつきながら両手にほっぺたを載せていた。


 その子が、今日生まれるのだと言う。

 アレンに腕を引っ張られてときおり足元をひっかけそうになりながらも片手に杖を持ちつつ必死に彼の背中に続く。


「母ちゃん!」


 飛び込んだベッドの上には、オレンジ髪の女性が苦しげに唸っていた。



 ***



 大きく膨らんだ腹を見て、レイシーは静かに息を吸い込んだ。命が消えていく瞬間は、数え切れないほどに目にしてきた。けれどその反対、命が生まれる場となると昨日からの連続で、尻込みしてしまう。


 けれど、飛び込んだカーゴとアレンの姿を見て、そんな場合ではないとすぐさま首を振る。


「血、血が、止まらなくて、だから父ちゃんが、薬草を探して」


 レイシーは出産に対する知識はほとんどない。が、森に自生しているような、安価な値で取り引きされるような薬草でも煎じて飲めば体力の回復につながることは理解できる。民間療法の一つだ。家の中にいる人間は、おそらく家族だけではないのだろう。子供以外にも、たくさんの大人達が入れ替わり顔を出して、声をかけ、額の汗をふく。


 悲鳴や、怒声、子供の鳴き声と、まるで一つの戦場だった。アレンの母の枕元には、すでにいっぱいの薬草が詰まれている。けれども、それでも足りない。夫であるカーゴは、少しでも質のいいものを探して、走り回っていたのだろう。怪我をしたのはその中の不幸だった。むしろ、レイシーがその場にいたことは彼にとっては僥倖だった。


 枕元の薬草を、再度確認する。事前に準備をしていたのでなければ、一般の家庭にこれほどの量の薬草があるわけがない。薬草は、魔力を込めた水の中にひたし、専用の瓶に入れると長く保存することができるが、そうでなければ日を追うごとに効力が失っていく。理解した。そして、家から飛び出す。驚き、アレンは彼女の名を呼んだ。


「レイシー!?」

「回復薬はないけど、薬草ならたくさんあるから、とにかく、たくさんお湯を沸かして待っていて!」




 屋敷に戻って、こんもり茂っている畑に向かい、とにかく手が届く限りの薬草を収穫した。すっかり目が覚めていたらしいフェニックスが、キュイキュイと首を傾げていたから、帽子をひっくり返したまま、ついでとばかりに持っていく。そのまま屋敷に置いたままにしておくのもどうかと思ったのだ。帽子の中にフェニックスと薬草を詰めて、再度アレンの家まで向かい、玄関から飛び込んだ。


 自分でも、なぜこんなに必死になっているのかわからない。

 生きて、死ぬ。そんなの当たり前のことだ。誰もが一度は経験する。けれど、レイシーの行動一つで、何かが変わってしまうかもしれないと思うと、指の先まで熱くなる。命じられたからではなく、レイシーが助けたいと思うから、行動する。


 邪魔になる長い黒髪を一つにくくった。

 回復薬を作るには時間が足りない。並行して、ただの薬草湯を作成する。


「……魔法使いなんて、見たこと、ねえけど」


 誰が、呟いたのかわからない。ただ呆然としながら、ぽつりと。


「こんなに、すごいものなのか……?」


 いくつもの作業を同時に行うレイシーの様を、村人達は固唾を呑んで見守った。彼女が指を振るう度に、薬草は形を変えて変化する。湯の中に漬け込み、絞り、細かくすりつぶし、適切な炎で温度を調節させる。ただの小さな少女が、驚くべきスピードで形に仕上げていく。


 けれども呆然としている場合ではない、と村人達はすぐさま自分達ができることを探して行動する。小さな村だ。全員が家族のようなものなのだろう。レイシーは、まずは出来上がった薬草湯をアレンに渡した。アレンは恐るおそる、木のスプーンで湯をかき混ぜながら母の口に流し込む。ほんの僅かに、ゆっくりとだが顔に赤みが戻っていく。ほっと、幾人もが息を落とした。


「カーゴさん。回復薬の鍋は、火の具合を勝手に調節するように魔術をかけておきました。このまま漬け込んで一時間ほど経てばできます。それまでは薬草湯でつないでください」

「あ、ありがとう。感謝してもしきれない」

「お礼はコカトリスに」

「キュイッ!」


 コカトリスがいなければ、回復薬を作ることはなかっただろう。何度も作り、失敗した経験がレイシーの中で生きている。フェニックスはまるで自分が言われたとばかりにレイシーの頭の上に乗って、ぐいっと両翼を広げていた。もちろん、言われた側のカーゴといえば瞬きを繰り返している。それよりも、と慌てた様子で彼は部屋の中に消えていく。戻ってきたときには、片手に布袋を握りしめていた。


「もうしわけない……手持ちの金は、今はこれだけなんだ。おそらく足りないと思うんだが……」


 ぎょっとした。

 いりませんと言おうとして、ふとウェインの言葉が頭をよぎる。


 ――自分の力で生きるっていうんなら、まずは金を儲ける手段を作らないといけない。わかるか?


 助けたい、と願ったのはレイシー自身だが、善意を伝えるだけでは意味がない。少し考えて、その中から数枚の硬貨をもらう。材料費と手間賃を考えるなら、この程度だろう、とあたりをつけた。


「アレンには、普段から世話になっているので。このくらいで」

「しかし」

「今回は、緊急事態の押し売りのようなものですから、私の良心も痛みます。また機会があれば、そのときに」


 それを何度か繰り返して、レイシーが握った硬貨よりも、さらに倍を上乗せする形で収まった。それでも、カーゴは恐縮を繰り返している。握りしめた布袋はぐしゃぐしゃだ。それこそ、虎の子の資金だったのかもしれない。それに、レイシーにできることはこの程度で、あとは本人の体力次第だ。カーゴも、歯がゆい気持ちをごまかすように苦しげに表情を歪めている。


「……本当は、子供が今日生まれるということは託宣師に言われて、わかっていたんです。だから、医者が来る前に万一があってもいいようにと薬草もたっぷり準備していたのに」

「……託宣師?」

「レイシーさんが住んでいらっしゃった場所にはいませんでしたか。子供が生まれる前に、生まれる子供の人生にふさわしい名付けをしてくれます。あとは、いつがその子の始まりの日となるのかを占ってくれるんです。うちの村には医者がいません。ですから、子供が生まれるときはその日に合わせて、近くの街から往診を依頼します」


 レイシーに親はいない。だから、どのように彼女に名がついたのか、彼女は知らない。“レイシー”であることに、意味など考えたこともなかった。

 キュイ、と頭の上のフェニックスが首を傾げて、今度はレイシーの肩に移動する。人生にふさわしい名があるというのなら、どうか健康に生まれてくれることを願った。フェニックスの首筋をちょいといじると、嬉しそうに喉を震わせている。


「……それなら、そのお医者様は、なぜいらっしゃらないのですか」

「嵐が」


 レイシーは瞬いた。カーゴは、とにかくどうにもならない感情を吐き出すように拳を震わせている。


「昨日の、嵐で、村をつなぐ唯一の橋が流されました。規模の割には、想像よりも早く嵐は通り過ぎていきましたから、期待もあったのですが、だめでした。水の流れも速く、新しく橋をかけることも、船を出すこともできません」


 まるで駆け抜けていくように消えていった嵐の原因の全ては、レイシーの魔術だ。切り裂いた空は屋敷の周囲のみだったが、それでも中心部をくり抜いたのだ。いつもよりも早く四散したのは道理である。けれど、やはり傷跡は残った。


「もうすぐそこに、来ているのがわかるのに……!」

「……橋ではなく、別の場所から来てもらっては」

「どこまで嵐の影響があるかわかりません。道が崩れている可能性もある。無理を伝えることはできないし、そもそも伝える手段もない」

「……そうですか」


 向こうには向こうの、こちらにはこちらの事情があるという話だ。いつの間にかフェニックスが、レイシーが持ってきていた薬草をついばんでいた。こらこら、と驚きつつ、体を捕まえる。それからもう一度肩に載せた。小さくて、可愛らしい。


「カーゴさん、もしよければですが、もう一つご依頼なさいませんか。大したことではないのでただのおまけですが」

「……依頼……?」

「はい。お代は、お安くします。とりあえず、“名前”なんてどうでしょうか」




 ***




 なるほど、とレイシーは荒れ狂う河川を見つめつつ理解する。これでは下手をすると死者がでる。無理に渡ろうとするものがいなくてよかった、と帽子をかぶり直した。水は小柄なレイシーを飲み込まんばかりに荒れ狂っている。砕けた橋の残骸が、ゆらめき突き刺さる。


「レイシーさん、大丈夫ですか!」


 カーゴの言葉に振り向かずに返答する。


「もちろんですよ。カーゴさんは、もっと距離を置いておいてください!」


 杖を持った。その隣では、フェニックスが器用に小さな両羽を動かし、キュイ、キュイと不満げな声を上げている。この子の親は雨が苦手だった。だからこの場にいるのも辛いだろう、と考え、「あなたも、あっちに行っていてね」と伝えたとき、「ンンン、キュイーン!!」 フェニックスは小さな体を震わせ、力の限り叫んだ。


 そのとき、ごう、と炎が舞い上がった。レイシーと、フェニックスを包む炎の結界である。先程まで降り掛かっていた水滴は、結界にふれることなく蒸発する。わあ、とレイシーは嘆息した。


「……あなた、生まれたばかりなのに、随分すごいことができるのね?」

「ンキュイッ!」


 レイシーの頭の上で自慢げに胸をはっている。

 フェニックスの親は、魔力羽を切り取られ、かつ魔封じの鎖をつけられ、弱りきっていた。そうでなければ、同じことができたのか、それとも個体差になるのかはわからないが、すごいことに違いはない。


「これなら、ちょっと派手なこともできるかも」


 と、言いながら普段から派手なことを繰り返していることをレイシー自身は理解をしていない。

 さて、と歩を踏み出した。彼女の周囲には球体のような炎で包まれている。この炎は、全ての水を弾くのだろう。さらに、レイシーの風魔法で補強する。荒れ狂う水の中に踏み出した。「……あっ、あぶな……!」 彼女の背後で、カーゴが叫んだ。


 向こう岸で、壊れた橋を呆然と見つめていた男達もいた。おそらく、あの中に医者がいる。何があったと瞳をすがめて、そろってレイシーを見つめていた。両手で握りしめた杖を水平にしたまま、ゆっくりとレイシーは進んでいく。水の上を歩いていく。


 彼女が歩く度に、水面に静かに波紋が広がった。理解ができない、とばかりに向こう岸の男達も、カーゴも自身の目を何度も拭う。間違いがない、と気づくと、どよめきに変わっていく。小柄な少女が、荒れ狂う川の上を歩いている。まるで、夢か何かでも見ているのではないかと疑うような光景だ。


 川の中心部まで行き着いたとき、まるで彼女を飲み込まんとせんばかりに、大きく水が跳ね上がった。悲鳴が響く。けれど、ただレイシーは冷静に呪文を唱え、杖を振った。出来上がったのは氷の波の彫刻だ。そしてすぐさま、杖を“地面”に突きつける。そのとき、全ての“水”は静止した。ただ、レイシーの杖を起点として、少しずつ姿を変化させる。波打つように岸にたどり着いたそれは、すっかり“氷”に変わっている。もちろん、今度は別の意味で悲鳴が上がった。


 ふう、とレイシーは頬を膨らませ吸い込んだ息を、ゆっくりと吐き出した。それから、カーゴに振り返り、破顔した。




「しばらくの間は、これで大丈夫ですよ! 歩いて渡ることもできるかと!」

「あ、ああ……」


 川の真ん中でカーゴに手を振るレイシーは気づいてはいないが、すっかりカーゴの腰は抜けている。あまりにも現実味のない光景見て、カーゴは少女の名前を思い出した。暁の魔女と同じ名だ、と彼の息子であるアレンが笑っていた。それはもう、レイシーはすごい魔女なのだと。


 てっきり、子供の戯言かと思っていたが、息子の見る目はたしかだったらしい。


(暁の魔女様と、同じ、名前……。いや、そんなまさか)


 噂で聞く魔女とは、まず見かけが違うし、もし本物だったとして、こんな田舎にいるわけもない。にこにこと手を振るレイシーを見ていると、すっかり思考がそれてしまったが、こんなことを考えている場合ではないとカーゴは勢いよく立ち上がった。


「く、う、わあ!」


 そして、気合を入れて、氷の上を滑走した。人生で初めての体験だ。けれどもおそらく、これから一生ないことだろう、とも考えた。




 ***




「……と、いうことがあって」

「お、おお……」


 レイシーはウェインとともに歩きながら、つい一週間ほど前のことを伝える。どこまで言っていいものか、と考えつつだったが、結局全てを言ってしまった。どこかを隠せば、どこかが破綻するし、下手なごまかしをするくらいなら、とすっかり正直になってしまった。


 薬草のくだりについては、ほいほい渡していいものじゃない、と言った彼の言葉を思い出して、ひどく言いづらいものだった。けれど、同じことがあったとしたら、おそらくレイシーは何度だって繰り返す。


「……まあ、人助けなら仕方ないんじゃないか?」


 腕を組みながら、ウェインはレイシーの考えを見透かしたように呟いた。仮にも、彼は勇者であり、選ばれ、人々を救うために旅立った。それがたとえ貴族として、政治的に関わり合い、否応なくの結果なのだとしても、お人好しなことに変わりはない。

 ウェインの言葉に、レイシーはそっと息をついた。けれども、今回はやはり考えなしだった。急いでいたとはいえ、もう少しスマートにできなかったものだろうか、と考えつつ、ウェインと一緒にてこてこ歩く。


「……で、俺達は一体どこに向かっているんだ?」

「そのう、報酬を受け取ろうと思って」


 あのときは必死だったし、アレンがいるからと思ったが、それでも大勢の人がひしめく場所に行くのは緊張する。「ウェインがいれば頑張れる」という旨を伝えると、彼は心底微妙な顔をして、困ったようなため息とともにレイシーの頭をなでた。


「どこ行くんだよ、アレンって子の家か?」

「ううん、そうじゃなくて……あっち、だと思う。教えてもらったから」


 小さな村だから、それほど場所は変わらないが、アレンの家をさらに進んだ村の端、つまりはレイシーの屋敷と対極の場所に位置する、少し古ぼけた家だ。レイシーの頭の上に乗っていたフェニックスに声をかけ下りてもらって、帽子を脱ぐ。


「失礼、します……」


 薄暗くて、年季が入っている、と思った家だったが、入ってみると意外なことにも住民達が楽しげに集まっている。もちろん中にはアレンも、彼の父であるカーゴもいる。各自座り込んで、わいわいと話し合っている中で、すぐにアレンがレイシーに気がついた。続いてカーゴも。


「レイシー! それに……誰だよ?」


 ウェインはにっこり笑って片手を振る。嘘を応えるくらいならそもそも返答しない。これがウェインのスタイルである。レイシーはウェインを連れてきたはいいものの、どう説明すればいいのか考えていなかった。ええっと、と口元に手を当てて考えている間に、「わかった彼氏か!」 ぽんっとアレンは両手を叩いた。


「違うわ……」

「いいからいいから。随分男前を連れてきたな?」

「ふふ、そうだろう」


 ウェインはニヤつきながら胸をはる。実のところ、今現在のウェインは姿をごまかすために、自分自身に隠蔽魔法をかけている。本来の彼はひと目見れば忘れられないほどの男前だが、今の彼は十把一絡げの容姿に見えているはずだ。なので、先程のアレンの言葉はちょっとした冗談である。それをわかってウェインは肯定している。二人共見つめ合ったあとに、ゲラゲラと同時に笑い始めた。馬があっているようでなによりだ。


「それで、レイシー。……みなさん勢揃いだが、ここは?」

「託宣師のお家よ。大勢いらっしゃる理由は……わからないけど。言ったでしょ、お代は名前をもらいますって。名前には意味があるもの。この子のこと……いつまでも、ちゃんとした名前で呼ばないのは、よくないかなって」


 フェニックス、という部分はとりあえず濁す。レイシーのもとへ来て一週間。名前もないままのフェニックスの子供は、キュイキュイと首を傾げている。


「レイシーがつけてやったらいいのに」

「嫌だし、無理よ。この子には、この子の人生にふさわしい名前があるのなら、ちゃんとしてあげたいって思う。私がつけようとすると、真っ赤だから、フォティア、とか、そんな適当なことになっちゃう」

「別にそれでもいいと思うけど。あと人生じゃなくて、鳥生じゃないか?」

「そういうのはいいから」


 ウェインの口元に、背伸びをしたレイシーが人差し指を伸ばす。ウェインがぐっと口を閉ざしたのは、決して彼女の口上がうまかったわけではない。誰にも気づかれない程度に、ウェインは耳の後ろを赤くしつつ、部屋の中を見回した。レイシーも、託宣師と呼ばれる女性を探す。


 見ると、部屋の奥に老婆がいた。ころころとしていて、可愛らしい。笑い顔がすっかりくせになっているのか、刻まれたシワには好感が持てる。「ババ様」とカーゴが彼女にそっと近づく。


「この方が、レイシー様だ。娘と妻を救ってくださった。名付けをお願いしたのは、彼女とともにいる鳥だ」

「ふょほう」


 わざとなのかそうではないのか。不思議な返事をする老婆だ。ババ様と呼ばれた彼女は、おいでおいで、とレイシーとウェインを片手で呼んだ。


「あたしはね、ババ様でいいよ。ちょっと長く生きてるからね、この村での顔役もかねてりゅの。だから気づいたらみんながお家に来るのよね」


 わざとではないらしいが、やっぱり語尾が舌についていかない。それをごまかすように、にっこり笑うと、シワの中に瞳さえ埋まってしまう。素敵な年のとり方だな、とふとレイシーは考えた。これから、レイシーはどうやって生きていくかを考えなければいけない。それは終わりまで、どんな道を進んでいくのかということを決めなければいけないということだ。


 誰かに決められた道を歩むことは、あんなに簡単だったはずなのに、今は真っ暗な夜の中にいるようで、ふと、恐ろしくなった。どこに向かえばいいかなんて、まったくもってわからない。


「それで、名前? そにょこの。あらあ……フォティアでいいんじゃない?」

「いやいやいやいや」


 おそらく彼女はレイシーとウェインの会話を聞いていたのだろう。「いいじゃにゃい。フォティア。火という意味ねぇ。炎みたいな子だものね」と言いながらころころと笑っている。


「あの、こちらではきちんとその子にあった名前をつけていただけると聞きました。ですからどうぞ、この子に一番の名前をつけていただきたいんです」


 名で生き方が変わるのだと思うと、あまりにもレイシーには重たすぎる責任だ。フェニックスを抱きかかえて、ババ様に差し出す。ちゃんとした意味のある、立派な名前をつけてあげてほしい。レイシーは自分のことなど、何一つ信用なんてしていないのだから。


 ババ様は、小さな椅子に座ったまま、うふふと笑った。


「レイシーしゃん。名付けなんてものはねえ、別に、何もないところから思いつくものではにゃいの。あたしができることはね、生まれてくる子供達に、『こんな名前はどうかしら?』って聞くことだけ。お腹の中にいる赤ちゃんに、教えてねと伝えるの。でも、その子はもうここにいるもの」


 生まれたての頃よりもぐんと大きくなったフェニックスは、すっかりレイシーの両手からはみ出てしまっている。レイシーと、ババ様を見つめて、首を傾げて、キュイッと声を上げる。


「まずは親が、どういった名前にしようと決めて、私が生まれる子に確認すりゅのよ。……たまに、決めかねて、生まれてからも揉めている子もいるけどねえ。そんな子は、生まれる日付だけ教えてあげるけど」


 ちらりと、とババ様が向けた視線の先では、「レイシー!」「ダナ」「レイン!」「ダーナ!」と聞き覚えのある名前をアレンとカーゴが言い合っている。あのとき生まれた子は女の子らしいが、まさかまだ名前が決まっていないのだろうか……? 決まるにしても、レイシーはちょっとやめてほしいかもしれない。と、一瞬思考がそれてしまった。あんな感じよ、とババ様は笑っている。


「それだけ大切なもにょだから、迷う気持ちもわかるけどねえ」


 そうだ、大切なものだ。だから自信がないと怖くなるし、責任だって重たく感じる。素敵なものに、なってほしいと願うから。


「でも込められた意味と同じくらい重要なのは、本人の生き方だもの。もらった名前と一緒に、どう進んでいくのか。……進んでいくことが、できるのか。ねえ、不安なら聞いてみたらどうかしら。その子ならきっと教えてりゅわ」


 くるくると、金色の可愛らしい瞳がレイシーを見上げていた。レイシーの腕の中ですっぽりと収まりながら、キュイ、キュイ、と歌うように首を傾げて、楽しそうで、温かい。


「……フォティア?」


 あんまりにも不安だったから、とても小さな声で呟くように、伝えてみた。ぱっとフォティアは両方の羽を広げた。「ンキュイーーーー!!!」 ざっぱん、とまるで大きな波が叩きつけられたようだった。足元がふわふわして、右も左もわからなくなる。たしかに、自分は今、命を抱きしめているのだと思うと、体が震えた。ふらついて、ウェインの手に支えられて、気づけば柔らかく、フォティアを抱きしめている。ふわふわの羽毛が温かい。


 まるで、暗い夜の中の道標だ。そう思うと、胸の奥が奇妙に熱くて、不思議だった。そっとウェインが、レイシーの背をなでている。


「レイシー! 名前は決まったの?」


 けれど、アレンに話しかけられたものだから、すぐさまウェインはレイシーから距離をとった。そしらぬ顔である。


「……うん、フォティア。言いづらいから、ティー、になるのかな」

「キュイッ、キュイッ」

「嬉しそうだし、いいよなあ。うちはまだ決まってないんだけど、結局俺達が揉めたところで母ちゃんの鶴の一声で決まりそうな気がする」


 今はまだ養生中なのだろう。レイシーはくすりと笑った。「そうだそうだ、父ちゃん。この兄ちゃんがいるなら丁度いいや、家から持ってこようよ!」 アレンの言葉に、カーゴはそうだな、と深く頷き、「少しばかり待ってくれ」と言葉を残して消えていく。


「さすがに、代金が名付けってのはさあ。ババ様がビシッと決めるものじゃないし」

「たしかに、想像とは違ったかも。でも別にこうして決まったんだから……」

「いやこっちの気がすまない、ということで、父ちゃーん!」


 ババ様の家と、アレンの家は比較的近い。すでに用意もされていたのだろう。戻ってきたカーゴが抱えていたものは、箱詰めされた山盛りの野菜だ。ただでさえ、アレンから定期的に配達してくれるというのに、とどすんとカーゴの手から下ろされた箱を見て、レイシーは呆然とした。「最高じゃないか!」 その中で、ウェインは両手を打って喜んでいた。どんな形でもウェインはレイシーに食わせることを目的にしている。


「俺がいない間のレイシーは君に任せた」

「任されたよ!」


 本人を差し置き、ぐっとアレンと握手まで組み交わしている。


「けれどアレンくん。多分あいつは言わないだろうから一応伝えておくが、レイシーはこれでも十五だからな。多分君より年上だ」


 ウェインが続けた言葉を聞きつつ、別にそんなことを今言わなくてもいいじゃないだろうか、と呆れたところ、アレンはウェインと握手をしたまま、「エッ!!!!?」とあんぐりと口をあけて幾度もウェインとレイシーの間を視線をさまよわせている。そこまで驚くことだろうか。……驚くことだったんだろう。


「レイシーじゃなく、レイシー姉ちゃんだった!?」という驚きの声と、ざわつく周囲の声を聞いて、別になんでもいいですと答えている間に、家の外ではまた元気な声がする。


「いやあ、ここが村長のお家ですか! いやね、そろそろお暇させていただこうと思いまして、ご挨拶にねえ。はいはい、失礼しますよ、失礼しますよ……はうあーーーー!!?」


 やってきた初対面の人間になぜだか震えるほど驚かれた。ぱっと見、狐のような男だった。ツリ目がちの瞳をきゅぅっとさせて、全身全霊で驚いている。「あのときの、水の上を歩いていた少女ォ!」 どこかで出会ったかな、と思ったら、そういうことらしい。


「こんにちはァ! あたしはねえ、定期的にこの村に行商に来ているものなんですけど! あのときは困った困った。積み荷をダメにしちまうところでした!」


 そう言って、レイシーの両手を持ってぶんぶんと力いっぱいに振る。ゆっくりとウェインは間に割って入った。レイシーをひっこめて前に立ち、無言で商人を見下ろす。


「……なんですか、この怖い人」

「普段はもっと愛想がいいですよ」 


 たまにウェインは重たい迫力を出し始める。何にせよ、ありがとうございましたと男はやっぱり狐のように笑って、またこちらには伺いますので! いつかのときに! とババ様と村人達に挨拶をしつつ消えていく。知らぬうちに、多くの人達とレイシーは関わっている。


 プリューム村に彼女が来たのは、本当に、ただの偶然だ。けれど、レイシーが初めて自分自身のために選んだ道の一つでもある。


 どこに進めばいいかもわからない暗闇の中を、闇雲に突き進むのは、とにかく怖い。けれども、決してそれは意味のないものではなく、振り返ると、歩いてきた自分の足跡がよく見える。そう思うと、少しだけ恐怖は消えていた。それは本当に、少しだけではあるけれど。


 レイシーにとっては大きすぎるほどの変化で、変わった不安は嬉しさに、消えた恐怖は、ほんのちょっとの楽しみに。

 ほんの少しずつ、変わっていく。

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