第6話


 レイシーとラモンドの婚約は、白紙に消えた。

 ラモンドが連れ去られた後も、「彼には随分仲のよろしい女性の“お友達”がいらっしゃるようですね」とウェインから落とされた、まるで爆弾のような発言にその日は改められることとなった。クロイズ王はあらん限りの手腕で、数日のうちに彼の所業を調べ尽くした。結局、ラモンドには数多くの遊び相手と呼ばれる女がいたらしく、アリシア自身も“浮気相手”の一人であったのだろう。


 彼女の心境は察するに余りある。王女であるアリシアの心を射止めた、口説き落としたその言葉は、数々の出会いの場で得た経験があってこそのものであったのだから。


 レイシーはふわふわの草木の中に座り込んだまま、ただぼんやりと川の流れる音を聞き、ここ数日の目まぐるしさを思い出した。破棄された婚約の事後処理、ラモンドの調査への裏付け、事実確認。ラモンドの父であるデジャファン公爵からは、腰がおれんばかりの謝罪を繰り返された。彼女は自身がどう思い込んでいようとも、この国一番の魔法使いなのだから。


「自分で言った言葉がそのまま返ってきたんだ。責任くらいとれという話さ」


 隣ではウェインが口を尖らせて、自身の髪の毛をくしゃくしゃにさせている。それから彼なりのラモンドの気に食わない点を、彼なりに一つひとつ上げていく。どう聞いていいものか、と困っていたはずが、「そもそも、名前が気に食わない。なんだよデジャファン家って。レイシー・デジャファンなんてまったくもって似合いもしないな!」と、とうとう家名にまで口を出すものだから、笑ってしまった。そしたら、ぽろりと一粒涙がこぼれていた。


 レイシー自身も驚いた。ぽとり、ぽとり。声を上げて泣いているわけではない。ただ静かに頬を涙が滑り落ちた。その姿を見て、さらに狼狽したのはウェインだった。いつもの余裕を作った顔もどこかに落として、「いや、あの言葉はひどかったものな!」とレイシーをフォローするかのように必死に両手をあわあわさせている。


「ほら、だいたいな、あいつにレイシーはもったいなかったんだよ、レイシーは間違いなく可愛いから気にすんな。どうせあいつの前で笑ったこともないんだろう」


 たしかにその通りだ。けれども、そんな関係しか築くことのできなかった自身に非があるとも考えている。


「あんなやつの言うこと、スライムに噛まれたくらいに思って忘れろ。しかし、肉付きはたしかに悪いかもな。もうちょっと食えよ、今度一緒に飯でもいくか」


 泣き笑いのようにぐしゃぐしゃになって、杖を抱きしめていた。ウェインは、必死にレイシーを慰めた。けれども本当に申し訳ないことに、決してラモンドに心無い言葉を突きつけられたことが悲しくて涙を流しているわけではなかった。背も低く、可愛らしさもない。それはただの事実なのだから。それよりも、ただ、ただ、レイシーは。


 ほっと、していた。


 あまりにも体が軽かった。ぐずぐずになって、大事に、大事に杖を抱きしめていた。これは、友と呼べる彼らと、一緒に旅をした思い出がつまっている。燃やしてしまうなんて嫌だった。魔王を倒す、ただそれだけのために生きて、子を残すために死ぬのだと思っていた。だから否定をする気も、逃げる気もなく、ただ粛々と命じられるままに求められる道を歩むのだと思っていた。それが、どうだろう。


 大声を上げて、子供のように泣きわめいて空を見上げた。そうして、少しずつ自分の心を知った。魔術しか知らない、世間知らずな自分が旅などできるのだろうかと不安だった。始めはぶつかることもあったけれど、彼らは大切な仲間になった。レイシーが知らないことを教えてくれた。


 姿絵を買ったのは、本当は寂しくて。絵の中に描かれていた彼女は、本当のレイシーとはかけ離れていたけれど、そんなことはどうでもよかった。しっかりとした女性で、真っ直ぐに前を見る、目が覚めるほどの鮮やかな赤い髪をもつ、暁の魔女、レイシー。そうなれたら、どんなにいいだろう。


 ウェインに告げた、身辺の整理をするために家を引き払ったというのは本当だ。デジャファン家にはどうせ何も持っていくことはできないと思っていたし、あの家は、レイシーが手に入れたものではない。クロイズ国の魔法使い、レイシーを捕らえるための檻だった。


 彼らと旅をして、手をひかれて、知らないものに触れて、世界は広いのだと知った。レイシーは常識なんて何も知らない。ただ生まれ持った魔力を磨くため、そのためだけに生きてきた。怖いと思う気持ちは次第に驚きに、わくわくとした気持ちに変化した。それなら、一人ならどうだろう。自分一人きりでも、宿を借りることができるだろうか。知らないというのなら、せめて街を見てみよう。残り少ない時間でできることをしよう。この目で見よう。いいや、見たいのだと。


「あ、うあ、あ、あー……」


 ぼろぼろと溢れる涙は、どこまでも止まることなく、ただ視界をにじませた。唇を震わせて、あえいで、幼子のように泣いた。生きたい。一人で、生きたい。どこまでも、どこまでも、自分の足で歩いて、誰かに縛られることなく、生きてみたい。


 そんなことを思うなんて、許されるのだろうか。



 ウェインはただ、どうすることもできずに泣き叫ぶ彼女を見つめていた。言葉にすることもできない感情を泣き叫んでいるのだろう、と理解して、思わず抱きしめてしまおうかと思った。でももちろん、そんなことをすることもできず、せめて彼女の涙を拭いたかった。手を伸ばす。指先で彼女の涙を拭う、ただそれだけなのに、できなかった。直前まで伸ばされた手を強く握りしめ、代わりとばかりに指を打った。しゅるりと小さな風が吹き、レイシーの目尻を優しく撫でる。


 こぼれた涙が宙を浮き、水玉を作り、くるくると泳いでいた。瞬く度に、ぽろぽろ、くるくる。驚いて、涙が止まってしまった。ウェインを見ると、彼はお得意のいたずらっ子のような顔をして、「はは、成功したな」と口元をにやつかせている。もちろん、それが彼の照れ隠しであることはレイシーにはわからない。


「子供の頃はあまり魔術が得意ではなかったんだ。そこで少しばかりひねくれて、大したものが使えないなら、大した悪戯に使ってやろうとそればかり考えていた」


 そう言った後で、やはり気恥ずかしさがあったのか、口をつぐんだ。レイシーからすると、彼が妙な魔術を使う理由をやっと理解できたという気持ちだ。魔術を使う貴族は、大抵がプライドも高く、彼のような使用方法はまず考えもしない。


「こんな悪戯なら、とても楽しい気分になるね」

「そうかね」

「そう。うん、そう。ねえ、ウェイン」


 なんだ、と腕を組んで、そっぽを向かれたまま、ぶっきらぼうに声を落とされる。けれども一年という時間で、レイシーは彼という人を知ったから、なんてことも気にならない。「私、願い事が一つできたの。もちろん、杖を燃やすということ以外で」 ぴくりと彼は眉を動かした。


「一人で、生きていきたい。誰にも縛られることなく、ただのレイシーとして生きていきたい」


 自分でも驚くほど、すんなりと言葉が出ていた。そうか、とウェインは頷いた。


「お前が、それを求めるのなら、いくらでも力を貸すよ。胸をはれ、大丈夫だ。真っ直ぐに、前を見ろ」


 今度は、ウェインもしっかりと片手を出すことができた。レイシーは彼の手を取りながら、ゆっくりと立ち上がる。わずかに湧いた勇気は、少しずつ大きくなる。ただ真っ直ぐに、前を向き、進んでいく。



 ***




「クロイズ王、僭越ながら、今一度、願いを告げることを……お許しいただけます、でしょうか!」


 途切れ途切れになりながらも、重たいフードを上げて、レイシーははっきりと声を出した。

 ラモンドとアリシアの騒動から、改めるとされていた場だ。まずクロイズ王は、ラモンドの発言に対する謝罪を告げた。彼が今後、どのような罰を受けるのか、ということも続けられたが、そんなことはレイシーにとってもどうでもいい。


 震えながら声を上げた彼女の顔を見つめ、許す、と静かに王は頷いた。


「以前、私は魔王を倒した褒美として与えられる願いを……何もない、と告げました。けれども、やっとその願いに気づきました。私は、生きたい。一人で、誰に頼ることもなく、自分の力で生き抜きたい。……契約紋の解除を、私は、願います!」


 叫んだ。そうしておそろしくて、顔を上げることもできず、杖を握りしめ、がたがたと震える手足を見つめた。どれほどの間があったのか、それとも、ただの一瞬であったのかわからない。ただ、王は一言。許す、と。


「暁の魔女、レイシー。十五年の長き月日を、よくぞ仕えてくれた。お前に、新たな名を与えよう。レイシー・“アステール”。夜と暁の間である星の名を、その体に刻め!」


 まるで幾重にも重ねられた薄い硝子が壊れ落ちるように、弾け飛んだ。重く、彼女を縛り付けていた文様は蝶のように紐解かれ、わずかな光を伴い消えていく。あまりにも、右手が軽かった。嬉しくて、たまらない。そのはずなのに、おそろしくて、立っていることもできない。なぜなら当たり前にあったものが、消えてしまったのだから。


 それでも、静かにこぼれた涙は温かなものだった。隣ではウェインがまるで自身のことのように胸を張って、嬉しげに笑っていた。



 ***



 まるで全てが嘘のようだ、とレイシーは小さくうずくまって座りながら考えた。レイシー・アステール。それが新しい彼女の名で、星の名前だ。

 王との対談の後、ウェインはレイシーの背を叩き、にんまりと笑っていた。だからレイシーも笑った。けれど、不安もある。


 今までは、言われるがままに生きていればいいだけだった。けれどこれからは違う。彼女は自分の足で、真っ直ぐに立たなければいけない。だというのに、レイシーに何ができるというのだろう。人より優れているのは魔術だけで、それも魔物を相手にしなければ何の意味もない物騒な力だ。


 王からは餞別とばかりに王都から少し離れた場所に家をもらった。ゆったりとした土地で、ひどく落ち着く場所だと思った。けれど、もともと人付き合いが得意なわけでもなく引っ込み思案な彼女だ。そうそうに小さくなって座り込んでいるという次第である。


 畑を耕している最中らしく目の前では少年がクワを持って、えいやえいやと必死に汗を流している。頑張っているなあ、とローブ代わりに選んだ大きな帽子のつばをひっぱって、小さくなった。まずは第一歩として、黒尽くめのローブを卒業しようと思ったのだ。でもやっぱり顔は隠していないとむずむずする。


 ぼんやり少年を見つめていると、ふと彼はレイシーを見上げた。「おおーーい」 なんだか手を振っている。自分以外の人だろうかと思って、くるくると周囲を見回した。「そこだよ、そこ! あんた! でっかい帽子を被ってるやつ!」 間違いなくレイシーだった。


「な、なあに!」


 帽子を脱いで、抱きしめて、頑張ってみた。少年は今度は両手を振って、レイシーに大声で話しかける。


「あんた、魔法使いだろー!? それなら、手伝ってくれよ! 魔術って、俺達ができないことをできるんだろーー!!?」


 おっかなびっくり、少年のもとへ歩いていく。深呼吸をしつつ、まずは疑問を投げた。


「な、なんで私が魔法使いってわかったの?」

「だって、変な杖持ってるじゃん。ここらへんじゃちゃんとした魔術を使える人なんていないけどさ、さすがにそれくらいは知ってるよ」


 そして手放しきれない杖を持ちつつ、苦笑した。


「……それで、手伝うって?」

「見りゃわかるだろ? 畑を耕してるんだよ。まあ、本当ならもっと広くしたいんだけど、木が邪魔で俺一人じゃ一生無理なんだよな。じいさんになっちまう」


 なるほど、とレイシーは辺りを確認した。少年がいう場所の周囲には草木が広がり、大きな木も立派に腕を広げている。とはいっても、魔術は万能というわけではない。期待をさせる前に、無理だよと伝えてしまおうと思ったとき、本当にそうだろうか、と首を傾げた。


 レイシーが持っている力は、人や、魔物を傷つけるものだ。いや、魔術とは本来そういったものなのだ。けれど、ウェインは違っていた。幼い頃は今よりもずっと悪戯小僧だった彼は、自由な発想でレイシーには知らない魔術を見せた。丁度、彼女の涙をすくいとったときのように。


「……後ろに、下がっていてね」


 考える。息を吸い込む。杖を掲げて、呪文を口ずさもうとして、やめた。下手に大規模な魔術になってしまっては敵わない。頭の中でイメージをする。――まるで、ウェインの風のような。





「お」 少年は震えていた。両手を開いて、口をあんぐりとあけて、「おんぎゃあああああ!!!?」 


 木々がゆっくりと浮いていく。あれだけ少年の邪魔をしていたはずのそれが、あっさりと浮かび上がって、少女がすい、と息を吸い込むと横倒しになる。草木はまるで意志を持つように消えて、広々とした土地が広がっている。それから砂利だらけで、父親と苦言をこぼしていた畑から細かな石が浮かび上がり、少女が片手に持つ、逆さにした帽子の中に吸い込まれる。


 一体、何が起こったのだろう。すっかり少年が腰を抜かしてしまったとき、重力を忘れていたはずの石が、ずしんと重たく帽子ごと地面に落ちた。「うぐう!」 そして少女もそのまま畑の中に落ちた。慌てて駆け寄った。


「だ、大丈夫か……!?」

「う、うん、びっくりしたけど……空間を把握して風と組み合わせることで、浮遊魔法、というものを作ってみたんだけど、そうだよね、魔術が切れたら、そりゃ重たくなるよね……」

「何を言っているか全然わかんねえよ……」


 とりあえず、軽かったはずのものが重くなってびっくりした、という意味だろうか。小さくて、自分よりも少し年が上の普通の女の子に見えるのに、不思議なことができるのだな、と驚いた。彼女は少年を見ている、と思えば、それよりもずっと先の何かを見ていた。なんだろう、と一緒に上を仰いで見る。空だ。


 真っ青な空を、少女はまぶし気に瞳を細めて見つめている。


「……私に、何かできることがあるかな。何もできないと思っていたけれど、そんなことないのかな。あんまりにも空っぽな自分が、すごく嫌だったんだ。だから、そうだな、役に立つ人間に、なりたいな……」


 畑に転がったまま、体中を土だらけにして言う言葉ではないような気もした。それに彼女が何もできないと言うのなら誰だってそうなってしまう。

 そもそも魔法使いなんて初めて見たから、彼にその気持ちなんてわからない。でもまあ、一つ言えることは。


「そんなことよか、礼を言わせてくれよ! ありがとうな、めっちゃくちゃ助かった!」


 彼の言葉を聞いて、少女はまるで泣き笑いのような顔をした。ヘーゼル色の瞳をわずかに細めて、笑った。でも、やっぱりちょっとだけ泣いていた。



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