猫が人間の言葉をしゃべるなんて聞いていないんですケド

 八畳間の和室に、私はれいにゃんを押し倒していた。

 れいにゃんは私に手首をつかまれて動けない。

 何とか私を振りほどこうと身をよじらせ抵抗しているが、それは無駄な努力だった。

 大学のバレー部で鍛えた現役選手の力に、三十五歳の細身の腕では太刀打ちできるはずがない。

 れいにゃんは私に向かって何か言おうとした。もしかしたら罵倒だったのかもしれないし、誰かに助けを求めていたのかもしれない。しかし、その言葉が紡がれることはなかった。彼女の口は私の唇に塞がれた。私は舌を入れた。しばらくの間、和室にはさらさらとした液体が跳ねる水音が流れた。

 れいにゃんは乱れた喪服から白い乳房を出して、うつろな目で助けを乞うている。そんな目をしないでよ。キスに飽きたので、私は彼女の口から唇を離した。お互い何も言わない。次は、何をしようか。

 おもむろに、私がうなじを舐めると彼女の体が跳ね上がった。それ以降、彼女の抵抗がやんだ。

 夕暮れが長い影を落とす部屋に、鳩時計が鳴った。夕立がやってきた。トタン屋根を雨水が叩いた。仏壇に精悍せいかんな顔つきの男性の写真が飾られている。

 彼は青空の下で笑っていた。どことなく、れいにゃんに似合っていた。

 長くそびえ立つ線香の燃えカスが灰受けに落ちた。毎晩きちんとケアされている肌からは、白檀びゃくだんの香りがした。

 れいにゃんが泣いている。悲しませてしまったかもしれない。それならば、私の熱で、少しでも寂しさを紛らわせてあげられたら。私は無造作に自分の股間に手を伸ばした。そうして、私は、れいにゃんを悦ばせてあげられないことにハタと気づいた。

 私には、ちんぽが無かった。これでは彼女熟れた肢体を慰めてあげることができない。

 私の夢はそこで途絶えた。


「い゛た゛ぁ゛い゛!」

 突如、顔面に鋭い痛みが走った。人肌ほどの温かさと小学四年生女児ほどの重量感とともに与えられた引っかき傷は、私の薄皮一枚を、綺麗に引き裂いていた。トホホ、この傷、治るんだろうか。

「もう、ゆず! 顔で爪とぎしないで」

 目を覚ますと、ゆずが馬乗りになっていた。時計を見ると十一時だった。どうやら少し寝すぎてしまったらしい。

 私が睨むと、ゆずは「おっ、起きた起きた!」とでも言うように、私の顔をひと舐めした。

「もう」

 身体を起こすと、ゆずが私の身体から飛び降りた。

 それにしても、さっきの夢は酷かった。夢とはいえ、年齢も性別も違う私が恩人のれいにゃんにあんな狼藉ろうぜきを働こうはずもない。片腹痛いとはこのことだ。

「もしかして私、れいにゃんが欲しいのか。性的に。欲求不満か?」

 そう言って笑って、テーブルの上に置かれた書き置きに目を留める。なるほど、れいにゃんは出かけていて夜まで帰らず、昼食は冷蔵庫の中、温めて食べて。ゆずのことよろしくね(=^・^=)。任されましたとも!

 書き置き通り、昼食をレンジでチンして、ソファに身を投げる。テレビを付けると、未亡人が配達員のお兄さんに言い寄られていた。

「おい、人間」

 テレビに夢中になっていると、誰かに声をかけられた。はて、ここには私とゆず以外、誰もいないはず。ゆずは人間の言葉をしゃべれないはずだし。

 隣を見ると、ゆずと目が合った。

「吾輩が声をかけたのに何で黙ってる、人間」

 小学生の顔が声に合わせてぎこちなく歪む。私は思わず飛び退いて、ソファから落ちそうになった。

「うっわ、ゆずが喋ってる。それに、私、菜々っていう名前があるんだけど。後、ちょっと堅苦しくてゆずのイメージに合わないからもうちょっと柔らかく話してくれると嬉しい」

 ゆずは「注文の多い人間だな」と言って、顔のストレッチをする。そして、発声練習の後に、また話し始めた。

「そんなのは些細ささいなことでしょ」

 些細なことなのかなあ。相手の名前を覚えるのってコミュニケーションの基本だと思うけど。

「さっき寝てるときの顔、どうせ変なことでも考えてたんでしょ」

 すんません。考えてました。痛いところを突かれた場合は、話題を変えてしまおう。

「そういえば、ゆず、前から聞きたかったんだけどさ」

「なに」

 ゆずは何だか私と話すのがいやそうだ。そんな顔しなくてもいいじゃない。

「何でゆずは人間になっちゃったの?」

 ゆずはだるそうにしっぽをパタパタと振る。

「吾輩がこの姿になったのは玲菜ママが毎晩泣いていたからだよ。猫の姿では、彼女の心を癒せないと思ったからね」

「人肌恋しいってこと?」

 ゆずが私の質問に「そうかも」と、曖昧あいまいな肯定をする。

「ママは旦那さんが亡くなってから、ずっと一人ぼっちだったんだよ」

「じゃあ、どうやって人間になったの」

 私が続けざまに質問することに嫌気が差したのか、ゆずは何も言わずに私のお腹の上に乗っかり、大きな欠伸をした。そして、何回か深呼吸した後に、ゆっくりと事の顛末てんまつを語り始めた。


「人間が神様と呼んでいるやつに出会った。吾輩が捨てられた日、ママに出会った日にね。白い光で、とてつもなく温かい存在だった。もしかしたら太陽よりも温かいかもね。諦めの底に、微かな生への執着があったんだと思う。言葉も分からなかったけど、生きたいと強く願った。そうしたら吾輩が死ぬまでに、目を開けてはじめて見た人を幸せにしなさいと言われた。吾輩がはじめて見た人は、ママだった」

 ゆずは思ったより長く喋った。そして、心底しんどそうに深呼吸を何度かした。

「人間に頼みがある。吾輩の代わりにママを幸せにしてあげて欲しい」

 振り絞るような声で、ゆずはそう言った。

「どうして? 死ぬまでママを幸せにするんでしょ? ゆずも一緒にいてあげたらいいじゃない」

 ゆずはしっぽで私を何度も叩いた。

「ヒトの姿になると、あまりこの世界にいられなくなってしまうんだ。その点、人間ならママより若いし、先に死ぬなんてことはそうないでしょ?」

 聞き分けのない子を諭すかのように、ゆずはそう言った。

「そもそも吾輩は、あの日ママに拾われていなければ死んでいた身だから。いまさら、この生命なんて惜しくないよ」

 ゆずは疲労の中に微かな笑みを浮かべてそう言った。元の猫から人間の姿になるというのは思った以上にエネルギーを使うことらしい。

「それにさ、強がりのママが一人ぼっちなんて弱音、猫の吾輩以外にこぼせる訳ないでしょ」

 ゆずが私から落ちそうになったのを抱きとめる。

「だから、この姿でいられるうちに、お前には伝えておくぞ」

 私は、ゆずの肩を支えた。

「ママの、家族になってあげてくれ」

 いきなりのことで頭がぐちゃぐちゃになったが、ゆずの話をまとめるとこうだ。

 ゆずはれいにゃんに死にかけていたところを助けられた恩があり、恩返しをしようと人間になった。しかし、人間になったからといって長生きできるわけではなく、ゆずが死んでしまった後はまた、れいにゃんが一人ぼっちになってしまう。だから、長生きできる私に、ゆずが死んだ後のことは任せたぞ。と、そういうことらしい。

 って、そんなめちゃくちゃ重い人生をかけたお願い、自分の進路にすら迷っている大学生にしますかね?

「ちょ、ちょっと待ってよ! 家族になってくれって、人間には一緒になるにも理由がいるんです。そんな簡単に家族になれって言われても困るんです」

 私は思わず大きい声を出してしまった。

「申し訳ないけど、一緒にいる理由は人間が考えて欲しい。大丈夫。お前なら、安心して任せられる。まあ、ちょっと頼りないところはあるけど」

 何よ、勝手に。

「吾輩はもう行かなければならない」

 そう言うと、ゆずはふらふらとした足取りで家を出ていった。

「ちょっと、外に出てくる」

「待って!」

 追いかけたけど、ゆずの姿はどこにもなかった。

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