謁見

 ウラシマは軽々しく竜宮に来たこと、いや、オトヒメの前に来たことを悔いた。先刻も、亀を打とうとしていたことによる含羞がんしゅうの念と露見への恐怖から後悔した。しかし、それとは異なる、純粋な恐怖に身を凍らせていた。先の恐怖は、いうなればフカが鮪を食い破るのを見た時、あるいは武士共が白刃をがちゃつかせながら道を過ぎるのを聞いた時のようなもの。しかし、これは、静謐な新月の夜に波打ち際から水平線を眺めやる時のように、心が引き剥がされ、当てどなくさまよい続ける運命を課されるような、永遠への恐怖だった。にもかかわらず、言葉はすぐに喉元を圧し、ウラシマの口を開かせた。

「私は、オトヒメ様の側仕えをしている1頭の海亀を救いました。如何なる事情かは、存じ上げませんが、彼は現し世の浜に打ち上げられていたのです。そこへ、腹を空かせた童共が群がり、彼を捕らえようとしていました。私はその様子が哀れに思われ、童共を追い払い、海亀の命を守りました。海亀はそのことを謝すため、私を竜宮へ導いたのです」

あれほど強張り、混乱していた頭と体であったにもかかわらず、整然と義を述べられたことに、ウラシマ自身、不審だった。しかし、それにもまして、自分が正直な意図を吐露せず、建前を語っていることが気味悪かった。これほどの畏れを感じながら、保身のための、見え透いているかもしれない建前を嘯けるとは。

「大儀であった。褒美は存分に取らせよう。しばし、竜宮に留まり饗応を受けた後帰るがよい」

オトヒメがそう言うと、再び水が揺らめき始め、たちまち彼女の輪郭は水中に没した。ウラシマはぼんやりとした心地のままゆっくりと振り返り、謁見の間を出た。


 ウラシマが例の垂直の回廊に出ると、亀が朗らかに出迎えた。

「お目通りは滞りなくなされたようですね」

亀の言を聞いて、初めて自分が無事に部屋から出おおせたことに気がついた。と、同時に自分を縛り付けていた見えない糸が解けたような気分になった。やはりオトヒメには、卑俗な者を圧する霊力があるのだろうか。

「しかし、ウラシマ殿はご立派でございます。私めも斯様な方をお連れできて誠に嬉しく存じます」

自らを褒めているらしいことは分かった。が、何を褒められたのかわからない。確かに、オトヒメには身を凍らせるような霊力があった。自らはその霊力に踊らされていたとしか思えない。

「俺はただ自然だと思うように振る舞ったまでだ。きっとどこか、不相応な振る舞いもあっただろう。一体何が立派だというのか?」

亀は始め不思議そうな顔をしていたが、やがて童の純朴な考えに気がついたときのように微笑した。そして、こともなげにゆったりと答えた。

「竜宮では、なりたいものになるのです。乙姫様に謁見してなお現し世の身を保つ者はほんの僅かしかおりません。大抵は、魚や海老、私のような亀に変じます。そして、言葉を解することもなくなるのがほとんどです」

それを聞いて、ウラシマは驚嘆した、が、すぐに怒りが湧き上がり、それは亀に向けられた。

「では、俺は今人でなくなるところであったのか!何という恐ろしいことだ!貴様は何も言わなかったではないか!俺が貴様のような亀に成り下がったら、帰りを待っている母はどうなる?」

亀は、少しばかり面食らったような感じでウラシマを見つめていたが、あいかわらずゆったりと答えた。

「なるほど、竜宮では当たり前の事ゆえ、改めて説明するまでもないと思ってしまいました。いらぬご心配をおかけして申し訳ないことです」

「当たり前だと?俺が魚になることが?」

「まず、身を変ずるといっても、それは竜宮にいる間だけのことなのです。この街を一歩でも出れば、現し世の姿に戻ります。それから、変ずる先は、間違いなくその者が望んでいたあり方なのです」

「待て、お前はオトヒメに謁見して後、姿を変ずるといったはずだ。つまり、オトヒメが俺に何か霊力などを働かせて姿を変えようとしたのだろう」

「いやいや、そうではありません。単に多くの場合、乙姫様に謁見した際に、自らの望みが明らかになるだけのこと。実際、竜宮に入った途端に姿を変える者も少なくありません」

確かに、オトヒメを見た時、俺はただ畏れ、自らを卑俗な者と直観したかもしれない。あれが、俺の望みだとでもいうのか?しかしなぜ、俺は元のままなのだろうか。

「しかし、もし俺が魚などになれば、ここから帰ろうとする意志も失われてしまったに違いない。そうしたら、俺は永遠にここから出られないではないか」

「そんなことはございません。魚や亀にも帰る場所はあり、帰ろうとする意志もあるのです。もし、それが現れないのなら、それは意志がなかったというだけのこと。実際、ウラシマ様は、人の身を保ち、しかも、母君のためにこうしてお怒りになっている。このように高貴な心をお持ちの方に、そのようなご心配は全く不要なはずでございます」

ウラシマはやはり釈然とはしなかったが、これ以上言い争っても仕方がないという気分になり、怒りを鎮めた。実際、自分は魚にも亀にもならず、元のままなのだ。褒美とやらをもらった後、すぐに立ち去ればよい。そう思い直して歓待を期待することにした。

「分かった。もういい。それで、褒美とやらはどこにあるのだ」

「もちろん用意してございます。こちらへどうぞお越しくださいませ」

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