オトヒメ

ウラシマは固唾かたずを呑んでその姿が現れる様子を注視していた。しかし、水が静まり、清明に彼女の姿が見えた瞬間、ウラシマは咄嗟に目を伏せた。同時に片膝をつき、旧来の臣下のごとく頭を垂れた。なぜそのようにしたのか、ウラシマ自身にも判然としない。ただ、自らがひどく穢らわしく、いとわしい存在のような気がしたらしい。以前にも、高貴な身分の者に膝を屈したことはあった。ただ、そのときは「相手が」高貴であるから従っているという感覚はあっても、「自らが」下賤だとは意識しなかった。これらは相対的な高低だけを考えれば変わりない。しかし、今回は自らに対する認識を変えた。ウラシマ自身にとっては絶対的な変質であった。

「我を見ることを許す」

およそ、人の声とは思われぬ、繊細で、それでいて明確な言葉がウラシマの耳を打った。ウラシマは声に従って顔を上げ、乙姫の姿をじっと見つめた。この間、彼は非常な迷いに囚われていた。脳髄の奥で、恐怖と歓喜とが激しく渦巻き、いかなる意志も確立し得なかった。彼は何らの決心も持たず、ただ水の低きに流れる如くに従ったのであった。

 乙姫は、年の頃17、8歳位の少女だと思われた。格別に美しい、とは思われず、むしろ平凡な顔立ちに見える。しかし、その顔について詳しく説明せよと言われてもウラシマには答え難く思われただろう。説明するには、何かしら特徴がなければならない。普通、平凡な顔の女と言われても、それは涼し気で美しい眼だが、厚ぼったく下品な口元が良くない。などのように、いくつかの特徴の重ね合わせの結果だ。しかし、その顔には特徴らしいものがまるで見当たらない。幾度、目線を上下に滑らせてみても、どこにも取っ掛かりがない。たしかに人間の女の顔だ、という印象は残る。それも、美醜いずれとも言い難い平凡な顔だという印象が残る。だが、なぜそのような印象になったのか、という経緯がすっぽりと抜け落ちてしまう。年齢にしてもそうだ。17、8位という印象はあるが、なぜそう思ったのかは説明できない。もしかすると、この世で最も美しく魅力的な容姿をした老婆ではないか、あるいは最も醜い顔の赤子ではないか、などという馬鹿げた思いつきが幾度となく去来した。

「我をオトヒメと呼ぶがよい。これは仮の名ゆえ、爾が口にしても構わぬ。さて、如何なる義によって竜宮へ来たのか、述べよ」

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