第二十六話 ふたつの世界は手を結ぶ

26ー1 和平の使者

 小さなツノの姿で魔界に戻ったライラヴィラは、久しぶりに仕事の合間を縫って新たな絵を描いていた。魔王の執務室の片隅に立てられた、イーゼルの画板に貼られた紙。そこには在りし日の賢者フォルゲルの姿が浮かび上がっている。


 ——自らの残されし命を、世界のために捧げたじいさま。

 小さい時は厳しかったけど、褒めてくれることも多かった。

 初めて光球ライトフレアを魔法で作り出した時は、魔力の調整がうまくいかず、暴走する寸前で爺さまが止めてくれたんだった。でも暴走をとがめず、素晴らしい魔力だと言ってくれた。

 空を風魔法で初めて飛んだ時も、嬉しくてずっと空中を漂っていたら、とうとう浮いたまま降りられなくなって爺さまに降ろしてもらった。その時も長時間飛空状態を持続できるのは良いことだと、褒めてくれた——。


「ご休憩中に失礼します。地下のミラリスゲートから、人界人と思われる客人が二人来られてます。ひとりは『原点の賢者』だと、名乗っていますが」


 ゲート番の衛兵がライラヴィラの執務室に入ってきた。あらかじめ聞いていた彼らだろう。


「すぐにここへ通して」


 程なくして、二人の男が衛兵に付き添われて現れた。


「邪魔する、ライラ」


 賢者となった巨人族タキラディルクと、もうひとりは魔界では初めて見た人間族ヒューズだった。


「各国から親書を託されて、持参したんだ」


 トラヴィスタ王国の王太子ニコラスである。

 二人とも普段着や戦闘用装束ではなく、スーツやローブの改まった格好である。それは人界ライトガイアの国王や首長の使節として、正式に大魔王城へと出向いたことを意味した。

 ライラヴィラはすぐに侍従長ベルントを呼んでこの場に同席させた。彼らが何のために来たのかは予想していたので、気持ちを引き締める。


「絵を描いてたのか、フォルゲル様か。いつもながら素晴らしい出来栄えだな」

「まだまだよ。ここから爺さまの表情を柔らかく、深く、表現したいの」


 画板に張られた紙をディルクが目を細めて眺める。これは下絵の状態で、さらに絵具を重ねていくのだと、ライラヴィラは彼に説明した。


「ライラヴィラは絵描きが趣味なのか。剣技や魔法術式の研究が趣味なのかと思っていたよ。意外だね」

「小さい時から絵を描くのが好きだったの。剣とか魔法とか、そういうのは必要に迫られて始めたんだけど、今ではやりがいをもって武術も魔法も取り組んでる」


 ライラヴィラは画材を片付けながらニコラスにも応えた。

 二人の顔を見て、つい先日の翁のお別れ会のことを思い出した。あの時は賢者の家で号泣したまま何もできず、リリスと語る機会が欲しいと言ってなかなか帰らない人界の有力者たちに、彼らが対応してくれたのだった。そして賢者継承の儀式を終えると、魔女ゲルナータを賢者の家に残し、魔王レグルスに付き添われて魔界へ帰ってきたのだった。


じいさまの家は、ディルクが引き継いで住んでるのよね? 今度最後の片付けに行くわ。お別れ会の時は時間がなかったし……」


 画材を片付け終えると、彼女は執務室の当主専用の大きな机の前に座った。


「ここでライラヴィラは仕事してるのか。そうして見るとやっぱり魔王様だね」


 初めてスペランザ城に来たニコラスは興味津々で執務室を見回したあと、彼女に人界各国からの親書を差し出した。


「和平条約と交易協定についての正式な文書だよ。各国元首のサインも揃ってる。わたしたち二人は人界各国の使者として来たんだ」


 ライラヴィラは親書を魔眼を通しててから開封した。目の前のニコラスを疑ってはいないが、念のため妙な術が施されてないか確認するためだ。

 国家元首たちは非公式に会談した相手もいるから、リリスに対してそこまでの敵意はないはず。ただ長き歴史が積み重ねた魔界の大魔王に対する憎悪の念は、彼らから消えることはないだろう。


「いよいよ、この時が来たのね。長らく望んでいた人界との和平が、ついに叶う」


 これは夢ではなく現実なのだと、ライラヴィラは文書に綴られた文字を何度も読み返した。

 人界は魔界との平和で対等な関係を望む——。そのために必要な条約終結を願うと。五人の国家元首のサインには並々ならぬ決意が込められていることを魔眼が映す。


「こちらの勝手な事情だけど、調印式は人界でお願いしたいんだ。だから魔界の皆さんには人界にご足労願いたい。人界の国王や首長たちを魔界に連れてくるのは闇耐性の、暗蝕あんしょくの問題がある。わたしはたまたま問題ないけど、こうして実際に魔界に来てみて、空気中の成分が肺を突くのは感じるよ。和平条約調印式には国王である父が出席したいと申されたし、どうか頼みます」


 ニコラスは親書を手渡したあと、ソファーに座ってライラヴィラを見つめた。彼の言う通り、魔界の空気は人界の者には毒となる成分があるため、各国のトップ全員が耐えられる保証はなかった。魔界側が何もしていないと言っても、国家元首暗殺の陰謀論が湧き起こるかもしれない。


「どこか良い場所があるの?」

「警備の問題と、無闇にあなたがた魔王の姿を一般人には見せない方が良いかと考えてる。人界側のガイアトンネルの関所、コルネイに新たに建屋を作ってるから、そこで開催したい」

「あの場所はコルネイって名付けられたのか。わたしも良いと思う。あそこは人があまり寄らない場所だし」


 ライラヴィラは侍従長ベルントに視線を送った。ここからは彼に交渉を頼もう。


「日程を調整したいのだけど」

「陛下のスケジュールを確認いたしますので」


 ベルントは執務室を出ていき、しばらくするとノートを手にして戻ってきた。


「準備が必要ですので十日ほど後でしたら、陛下が人界へ赴かれるのも可能かと」


 侍従長がソファーに座るニコラスたちの前に立った。


「こちらは五つの国からそれぞれ代表が出席する予定だけど、魔界側からも何人か出てくれると嬉しい」


 ニコラスから言われて、ライラは誰を連れて行けそうか考えた。


「こちらはわたしと、あと二人か三人くらいかな」


 魔王レグルスと魔女ゲルナータには頼むとして、あと誰が行けそうだろう。向こうは国家元首が揃うというから、魔王か、それに準ずる人物である必要がある。


「大魔王が公的に人界に来るというのが大事だから、無理に人数合わせをしなくてもいい。あんたさえ良ければだが」


 ディルクがライラヴィラの悩む様子を見て察した。


「分かった、調整してみる。ロイ、お願い」


 ライラヴィラの足元の影から、黒ヒョウ姿の幻獣が音もなく現れた。


「ベルントの指示に従って。和平条約調印式に同席してくれるよう、魔王たちとの交渉を手伝って欲しい」

「承知」


 侍従長の側に控えた闇の幻獣をニコラスとディルクは凝視した。二人の戸惑いの表情を見て、ライラヴィラは彼らに笑みを向けた。


「ああ、彼はわたしの眷属なの。父の代から仕えてくれてて、ここスペランザの守護獣よ。今後は彼もよろしくね」

「俺は一度見たことがあるが、もっと大きな姿だったよな?」


 ディルクはかつてライラヴィラが大魔王だと、彼がサンダリットで深淵の鍵を暴いた時に現れたロイのことを話した。


「ロイの本来の姿は大型の翼獣だけど、闇の幻獣だから変幻自在なのよ」

「そうなんだ。人界では伝説の生き物だね。まるで童話みたい。こんなすごい幻獣を従えてるなんて、さすがは大魔王様だ」


 ニコラスは不思議そうにベルントの影から出たり消えたりするロイを見つめた。


「わたしじゃなくて、父が凄かったのよ。実の父はここスペランザを立国した『魔眼の覇王』と、あるいは『奇跡の錬金術師』とも呼ばれてた。父が亡くなる直前に、一度だけ会えたの」

「陛下、魔王レグルス様から段取りを手伝うとの連絡が来ております」


 ベルントがロイの告げる伝言を受けて、ライラヴィラは任せると返事をした。


「では、二人にはわたしからの返事を持って帰ってもらわないと」


 ライラヴィラは人界からの和平の申し出を受ける旨、感謝の意を伝える親書を綴りはじめた。


「魔界文字で書いても、そちらの皆さんは読めないよね?」


 ライラヴィラは人界の使者として、二人が持ってきた親書が人界文字で書かれていたのを気にした。人界の有力者が揃っていた賢者のお別れ会で、自分がおきなの遺書を読み上げたことから、きっと大魔王が人界文字を読めることは承知の上で、これをしたためたのだろう。


「そうか、ライラは両方のルーツがあるし、どちらの世界の文字も読み書きに不自由しないが、文字の問題があったな」


 ディルクはそこまで考えてなかったと頭をひねった。


「話し言葉はそんなに違わないんだけど、書き文字は全然違うから。でもわたしが大魔王として書くなら、魔界文字が相応ふさわしいか」

「人界にも魔界文字が読める者はいるし、俺は読めるから問題ないだろう」


 ライラヴィラはディルクの返事を聞いて、魔界文字で文面を綴っていった。


「うーん、署名はどうしよう」

「人界では、君のことはみんな『深淵の大魔王リリス』と呼んでるから、そう書いてくれたらいいかな。ライラヴィラの名は伏せておいてもいいよ」


 ニコラスが答えるとライラヴィラは署名をし、書き上がった大魔王の親書に深淵の紋章を表面に刻んだ。そして封印を施された親書は使者であるニコラス王子の手に渡った。

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