愛しちゃいるが

水原麻以

愛しちゃいるが

乾湖に男女がたたずんでいる。砂の海に白目を剥いた干物がえんえんと散らばっている。

「僕は怖いんだ」

「何が怖いの?」

「死ぬことさ!」

「人生は無から生まれて無に帰るの」

「それはわかっているんだ…だけど」

「失うことが怖いの?失う物は何?」

「わからない。だけど僕は恐ろしい」


視点はおびただしい白骨死体を捉えている。

干物にされて白骨になった人間、犬や猫の骸、そして女学生らしい少女の死体も見える。

男はうろたえて逃げまどったすえに転んでしまい起きあがれなくなっているようだ。やがて男が言った。

「こんなはずではなかったのだ!僕は僕のためにこの小説を……」


……そうして場面が変わる。暗い森を歩いてゆく視点の人物は怯えきって今にも倒れそうだ。


「何もないのよ」

「そんな事ない」

「失う物は無よ」


森の木の葉だけが音もなくひらめく……。

男と女は黙りこくっていた。

やがて男が言う。「もう帰ろうか?」


二人は歩き出した。男のポケットからは原稿用紙が何枚か出てしまっているようで風でパタパタ音をたてていた。


それから三日後。二人は練炭自殺した。


『愛しちゃいるが』はベストセラーになり、映画化もされた。


『死なせて!』

私は自分のベッドの上で半身を起こしてテレビをつけたままボーっとしている。隣には私の旦那様であるK氏が寝そべっていて、その顔を見るとなぜか急に腹が立ってきたのでテレビのスイッチを切る。

テレビ画面いっぱいにうつる私の顔を見て思う。どうしてあんな風に撮られたのだろうかと不思議だった。私だって本当はこんな顔をするわけないのに…………

「ねぇ!…ってば」

隣のベッドを見ると宿六は寝息を立てている。

「もういい!」

いたたまれなくなって裏庭に出た。すっかり落葉した木々が白骨のようにたたずんでいる。

その時私の家から一人の女が出てきた。

やつれて落ちくぼんだ目、肩に白髪を垂らし、白いスカートに青白い素足。背中の空いたカットソーからガチョウのような翼を生やしている。

「貴女、だれ?」

私は声を震わせる。彼女の服装はKが三回目のデートで買ってくれたものだ。背中に穴はないが。

「どうしてあんた生きてんのよ!もう…………」

女は窓越しに私のベッドの上の人だかりを見た途端

『お願い!お願い!早く助けて!』と叫んだ。

私はしばらく呆然としていたが、ようやく我に返って

「あ、あの!助けてくれるのですか?」

恐る恐る聞いてみる。そして

「もちろんよ! もう私の命より大事なことがないのは知っているでしょう!?!そんなわけだからね!」

女はそう言うと壁に溶けた。

「待って」

私が慌てて家に入ると女はテレビを消して寝室に入ってきた。

Kは呼吸をしていない。

「この男は私が助けるから……それで良い?」

私は女に言われて、やっと自分が女を助けることができるということに気づく。

「はい。私は…………」

私はそう言って立ち上がって玄関に向かう。

「あんたは行っといで。私は今から仕事だから」


女はそう言うと私の姿を隠すように背中を向けて廊下に出ていった。

「あー、はい」

家を出るとき、ちょうどよく風がまわってきたようで少し気持ち良かった。


そう、私は女を助けたかったのだ。

そう、本当はずっと前から死にたくなんてなかったんだ……でも…… 女の仕事場というのは近くの精神病院の地下にある大教室らしい。

そこに向かう途中に私は女の名前を知らないことに気づいたのだがまあいいかと思ってそのままにした。


地下に続く長い階段は蛍光灯で照らされているがどこか陰鬱な雰囲気を漂わせている。薄暗くて湿っぽいせいかもしれないと思った時突然扉が現れる。

そこには大きくこう書かれていた。    

「精神科治療実践セミナー」と 扉の向こうは広々とした講堂になっていた。


そこには数百人もの人々が集まっている。みな正気を失いそうなくらい興奮しており「早く助けてくれえぇ!」とか、「お前を殺してやる!」とか叫んでいた。


「あーあ……」と私はつぶやく。なんだかどうでもよくなってきたからだ。

私はただ、みんなと同じようになりたかっただけなのに……それならなぜ私はここに居るのかわからない。

もしかしたらここは地獄なのかも知れないと思うほどだった。


ふと見ると見覚えのある後ろ姿が目の前を通り過ぎていくところであった。

背丈の高い痩せ細った男性。彼は会場を見渡して言った。


「諸君、今日はよく来てくれたね。僕はここで君たちに救いを与えようと考えているんだ。どうか僕に任せてほしい……」


彼の話を聞き流していた時にその声が耳に入った。


「彼も精神科医だったわよね」

その時私の脳裏にある言葉がよぎったのだ。『死は最大の救済なのだ』と……。


それは先日見た夢の中に出てきた人物の言葉だが妙によく心に響く。


私はそれを口に出してみた。すると会場中の視線が集まるのを感じた。


「あのう……すみませんが、貴方の話を遮ってもよろしいでしょうか?」

私は彼にそう聞いた。

『僕は自殺するしかないのかな?』

男が一人ポツリと言う。私は黙っていた。


「貴方の書いた『愛しちゃいるが』は映画にもなったんだけどなぁ……。貴方がもし死んでしまったとしたら、誰が貴方の小説を書くのかしら?」


彼はそれに答えず空を見上げる。真っ赤な月が輝いていた。

『もう嫌だ!』男は叫ぶ。

「僕はこれからどこに行けばいい? どこで生きてゆけるというの?」

それからまた沈黙が続く。

『誰も居ない。誰も僕を愛してくれない』やがて男は静かに涙をこぼした。そして言った。

「死ねば楽になれるだろうか?」

男は懐からナイフを取り出し、手首に突き立てるがなかなか刺さらないようだ。

私は男に近づくとその手を掴んで無理やり引き抜いた。傷口が血まみれになるのが見える。

「痛いだろう!どうして止める?」

「止めないと本当に死ぬの?」

「ああ、もちろん」

「私を好きになってくれる人はいないもの?」

「はあ?」と男が間の抜けた声を出す。

「私を助けてくれる人がいるのは知ってる?」

「はっ!何の話だよ!」と男が吐き捨てるように言う。

「あんたは、あの人を好きなの?」

私が質問をかえすと、一瞬戸惑ったが「あ、ああ、そうだよ!それがどうしたというの?」

と返事をする。

「私のこと好き?」

私の問いかけに答える代わりに私の頬に軽くキスをした。私は驚いて後ず去る。

「ありがとう。私の旦那様なんだ」


ヘッドゴーグルを外して、私はふぅっと深呼吸をした。

境界例夫婦の関係を壊し主治医の男と共依存関係になる。

「愛しちゃいるが」でもっとも困難と言われるルートを攻略した。Kというキャラは鳴かず飛ばずの作家で主人公のモニカを束縛していた。


「お腹空いた」

もうすぐ夜が明ける。

家を出て、公園の近くであることを確認すると私は一人立ち止まった。風はすごい速さだったので、まだまだ空は真っ暗でどこも明かりがついていない。

「行ってくる」

玄関に虚ろな声が響く。

もう立ち止まりはしない。そう思って私は歩き出そうとする。私はそこで思い出す。自分に嘘をついていることを。

「あの……さっきお願い…って言いませんでしたか……?」

視界を白い服がよぎる。あの女だ。翼はない。

「……」

「私を助けてくださるんですよね……?」

「…………」

私は常に受け身だった。出来ることは何もない。ここでも、あの場所でもだ。

「……あの、私まだ………」

パタパタとナースシューズが追いかけてくる。

そして私は歩き出す。

「お願い……あの、このお礼を、お願いします」

「…………」

「私、ここがどうなってるかわかりません……! 私に出来ることってなんですか?」

その時だった。

風上から誰かが呼んでいる。


「…………………………」


静かに、だけど確かに聞こえた気がした。

私の心臓の音が速くなり、今にも頭が吹っ飛びそうになる。何も考えられず、その時の私はその音で思考が停止したらしい。

あの男が猛スピードで坂を駆け下りてきた。

「どうしてあんた生きてんのよ!もう…………」

そんな私を見て、なんでもないように彼は「わかんないよ」と返してくる。そうじゃない。だって彼が私に助けを求めていることが──

「……あっ、あの……あの……お願いします。もう私は…………………」

そのときだった。

「…………………………………………………」

その時の彼の悲しそうな目。

──私が救われる前に「もういい」と言っておいた人、それが彼だった。

「……あのさ、ごめん………」

彼はポケットから茶封筒を取り出した。小切手。明細を見なくても桁の数だけでわかる。

「…………売れたんだ」

やっとの思いで私は言葉を紡いだ。

「僕が救わなきゃいけないのは……君さ、でないと、やっていけないから……」

その表情は──どこか悲しそう。何かが彼の中から消えていくような……そんな表情。

請求書は小切手の額より0が一つ多かった。

「………………………………………………」

私は。

その目を、どうすればいいのだろう。


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愛しちゃいるが 水原麻以 @maimizuhara

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