2-2 人の初恋を笑うな
学校から徒歩一五分ほど、海沿いに建つマンションの三〇三号室が、桑名さんの部屋だ。
「親が共働きで帰るのが遅いんです。兄は大学の友達と徹夜で麻雀するって言っていましたし。妹も友達の家に泊まるみたいで家族に見られる心配はないかなと。なので遠慮は不要です」
「そういう問題ではないと思うのですが……って桑名さん、お兄さんもいたんですね」
妹さんと同じ部屋で生活して、二次元と三次元のコンテンツが混在しているとは聞いていたが、お兄さんの存在は初耳だ。
「兄は大学生です。でも遊んでばっかりで単位がギリギリだって嘆いていますよ」
「あはは、なんというか、大学生ってそういうものですよね」
つまり、桑名さんの家で二人きりというわけで、心臓の鼓動が加速していく。人間を含めた哺乳類は、生まれてから死ぬまでの間に心臓は一五億回打つという説がある。桑名さんの部屋を前にして、僕は寿命を全力で削っていた。
「ただいまー」
ご家族の方は不在なので返事はない。それでも女子の家に入るのには抵抗があった。姉さんの部屋に入るのとはわけすすが違う。遠慮するなと言われてもどだい無理な話だ。扉の向こうから、オレンジの甘く爽やな香りが鼻をくすぐる。アロマオイルで迎え入れてくれるなんて、推しキャラクターの等身大パネルを置く母さんにも見習ってほしい。
「……お邪魔しまーす」
おっかなびっくり、隠れている忍者が命を狙ってやしないかと怯えつつ玄関に入る。オレンジの香りに包まれた僕は、足が臭くないかなと心配をしていた。
「ふにゃあ」
「わっ、にゃんこ」
「ただいま、ステラ」
誰もいないと思っていたから、足元に猫が現れてびっくりしてしまう。ステラと呼ばれた茶トラ猫は、甘えるように桑名さんの足に体を擦り寄せる。これは一種の愛情表現だろう、随分と懐いている様子だ。
「ステラってラテン語で星、でしたっけ?」
「そのステラです。妹の好きなアイドルの曲名から取られているんですよ」
彼女が言うには、近くで捨てられていた子猫を妹さんが拾って来たという。その時は飼う、飼わない、で大いに揉めたが、今では桑名家の立派な一員なのだとか。
「コーラとお茶、どちらがいいですか?」
と言いながらも、手にはコーラを持っている。実質一択だ。
「じゃあコーラでお願いします」
氷入りのお洒落なグラスにコーラを注ぐと、シュワッと小気味いい音がした。炭酸音というのかな、僕は涼やかなこの音が好きだ。まだ四月なのに、なんだか夏がやってきたみたいな気分になる。よく冷えたコーラを飲んでいると、借りた〈イグニスクロス〉の円盤を持ってきた。
「ちなみに、どのキャラが推しになりました?」
「そうですね……ユウセイかなあ。私の好きなタイプでしたし」
名前を呼ばれて、タイプだと言われて、ドキッとしてしまう。
「あ、えっと! 今のは西倉さんではなくてですね! フジバヤシさんの方です!」
はい、分かっていました。この文脈の流れで僕がタイプなんですってなるわけがないもん。
「あれ。もしかして、下の名前の由来って」
「お察しの通りです。息子に推しキャラの名前をつけたんですよ。でもまあ、それなりに気に入っています。星を結ぶって、スケールが大きいですし」
少なくとも、母さんの推しキャラの名前が今時の日本人らしいものでよかったなとは思う。もしもレオナルドやミケランジェロという名前ならば、どんな漢字になっていたのかな。
「私からも西倉さんにずっと聞きたかったことがあるんです。どうして、舞織ちゃんを好きになったのですか?」
「うーん、ちょっと恥ずかしい話なんですが……言わなきゃダメですか?」
うんうん、と興味ありますと言いたげに首を縦に振る。自分の中では、運命的な出会いを果たしたと信じていても、ほかの人が聞くと笑う話だ。でも、桑名さんになら話してもいいかなと思えた。
「舞織のことを初めて知ったのは、ゲームが始まったばかりの頃、一〇年も前なんです」
当時の僕は五歳児。母さんの膝の上で、録画していた深夜アニメを一緒に見ているような子供だった。おかげでみんなと話がなかなか合わなかったのだが、それはさておき。
「元々ドリドリを始めたのは両親なんですよ。鳴り物入りで始まったゲームで、当時から話題になっていたみたいですしね。あの二人が手を出さないわけがありませんでした」
携帯をポチポチする時間が増えたなー程度に思っていたある日、やけに機嫌の悪い母さんが携帯を見せて僕にこう言った。
『ゆうちゃん! 何も考えずにこのボタン押して!』
と。意味もわからず言われるまま押すと、ガチャポンの画面が出てきたのと同時に、さまざまな女の子がポンポンと出てきたのだ。
「その時、母さんの推しアイドルがピックアップされていたんですよ。ドブりにドブって半狂乱になった母さんはやけを起こして、五歳児の僕に全てを託しました」
今は天井があって、一定額課金すると欲しいキャラがもらえるゲームも多いが、当時はそんな良心的なものはなかった。青空の下で出てくるまで石を積み続ける、賽の河原の刑となんら変わりがない。
「そ、それは……私も時々妹やお兄ちゃんに代わりにボタン押してもらうので気持ちが分かる気がします」
「あなたもですか」
「来て来てと思っている時に限って、来てくれませんからね。確定演出だ! って思っても、同じ時期にピックアップされている別の子が引けるんですよ。物欲センサーとはよくいったものです。ホント、許せません」
甲子園を前に地区予選決勝で敗れた球児に負けないくらいに、悔しそうな顔をして呟く。どれだけ爆死してきたのか、心中お察しします。
物欲センサーなるものは馬鹿にできないものだ。お腹すいた眠たい遊びたいくらいの欲求しかない五歳児の指を借りたらお迎えできるはず、と母さんが考えるのも自然な流れ……でもないか。
「それで、西倉さんは引けたんですか?」
「いえ、残念ながら。さすがにそれで怒る母さんではありませんでしたが、だいぶしょげていましたね」
結局推しをお迎えできずテンション駄々下がりの母さんとは対照的に、僕は生まれて初めてのトキメキを覚えていた。
「でも、僕は違ったんです……笑わないでくださいね?」
「え? はい。大丈夫ですよ、私お笑い番組を見ても笑わないタイプなので」
桑名さんは得意げに語るが、それは単純に番組が面白くないだけではないのかな。
「こほん。言いましたからね? 笑ったら怒りますよ? あの日のスカウトでやって来てくれた渚舞織に……一目惚れしたんです」
『お母さん! ぼく、この子と結婚する!』
それが僕の、叶うわけがない初恋だった。ほら、桑名さんも吹き出す馬鹿らしい話……。
「素敵じゃないですか」
「え? 笑わないんですか?」
「どうして笑うんですか?」
僕と舞織の馴れ初めを聞いた友達は、みんな吹き出していた。『○○は俺の嫁』と三ヶ月ごとに違う嫁を作っていたオタクですら、笑ってしまって気まずそうな顔でコーラを奢ってくれたのに、本当に笑わないで聞いてくれた。
「おかしなことじゃないです。だって私も、似たようなものですから」
自分だけ聞いてしまうのは不平等だと考えたのか、それとも桑名さんと舞織のファーストコンタクトを知り合いと思ってしまった僕の心を読んだのか。懐かしむように、昔話を始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます