1-11 我が人生、最高の一日

 色紙の上を、鉛筆がすらすらと走る。目を隠す前髪をクリップで留め、いつもは潤んでいる瞳が、いつになく真面目に見える。何かに取り憑かれたように、下書きを描いていた。


「どうしましょう、西倉さん。私、生でアリト先生のお絵描きを見ています。明日、死んじゃうかもしれません」


「僕の姉はベクシンスキーじゃないんですから」


 さすがに客人を前に趣味に没頭するのはどうなんだろうと思わなくはないが、桑名さんはというと憧れのアリト先生による生お絵描きを見て、いたく感激している。三〇秒に一回くらいのペースで、曇ってもいない眼鏡を拭いてはかけ直す。本人が楽しそうなら、それでいいか。下書きを終えた姉さんは、ボールペンで線画を進めていく。


「晩御飯できた……ありゃま、ゾーンに入っちゃった感じ?」


「その感じ」


 常に締め切りギリギリの原稿デスマッチを繰り広げる姉さんだが、気分がのって作業に取り掛かるのがいつも締め切り間際なだけで、決して筆が遅いわけじゃない。むしろスイッチが入ると、周りの声が聞こえなくなるくらいに集中するし、作業スピードはかなり早い。ウサギとカメで例えると、背中にロケットをつけた亀なのだ。


 そして、今みたいに前髪を留めた時の姉さんは、誰にも止められない。僕らはそれをスポーツ漫画よろしく、ゾーンに入ったと表現していた。この調子だと、二、三時間ほどでカラー色紙が出来上がっているだろう。


「こうなったらご飯に呼んでも来ないのよねえ……そうだ。藍月ちゃんさえよかったら、うちで食べていかない?」


「ええ? 良いんですか? それは悪……ちょっと待ってください。ちょうど今、親から連絡が。えー! 私抜きで外食しているのぉ!? ……お言葉に甘えてもいいでしょうか?」


 と、桑名さんを交えた西倉家の食卓が始まった。姉さんはというと、何度声をかけてもこちらに反応せずお絵描きに没頭している。


「いいんですか? アリト先生のご飯がないんじゃ」


「むしろあの状態の純ちゃんに声をかけたら怒られちゃうわ。カップラーメンでも作るでしょうし、大丈夫大丈夫」


 姉さんの分だったハンバーグやミネストローネはそのまま桑名さんの夕食となった。折角姉さんの好きなチーズ入りハンバーグなのにね、あとで恨み節を歌っても知らないっと。


「さ、遠慮しないで食べて食べて!」


「い、いただきます……」


 促されるままに箸を手に取り食べ始める。背筋をピンと伸ばして、マナー講師がお手本にしなさいと言いたくなるくらいに丁寧な箸使いを見せた。


「お口にあったかしら?」


「はいっ。家だと和食が中心なので、特別なご馳走を食べた気分です……あの、そう凝視されると恥ずかしいのですが。何かおかしいでしょうか?」


「いえ、その逆です。箸の持ち方が綺麗だなって」


「よく言われます。でも気にしたことないんですよね。そういうものだと親から躾けられてきましたし」


 さも当たり前のように言ってのけるが、正しいお箸の持ち方をしている人はそこまで多くない。お昼休みの教室や食堂を見渡せば、大抵はお手本とは離れている。僕たちも西倉親子も例外じゃなかった。


「オタクとしてのマナーを教える前に、日本人としてのマナーを僕に教えるべきだったと思うんだ。どうお考えですかお母様」


「うぐっ! 私だって親から箸の使い方は教わっていないし……」


 桑名さん、見てください。これが大和魂と奥ゆかしさを忘れてしまった日本人の末路です。無様と呼ばずなんと呼べばいいのか。


「そんなに難しいものじゃないですよ? こうやってですね」


 みっともない親子を見かねたのか、おかしそうに笑った桑名さんは僕たちに正しい箸の持ち方をレクチャーしてくれた。


「そうです。上手ですよ」


「そ、そうですか?」


 褒められていい気分になる。心なしか、綺麗に箸を持って食べるご飯は、いつもよりも美味しく感じた。しかし本来箸の持ち方は最低限持ち合わせておくべき常識である。それでいいのか一五歳。


「見て見て? 綺麗じゃない? 私もマナー講師になろうかしらねー?」


 それでいいのか四六歳。


「ところで。ゆうちゃんは藍月ちゃんとはどうやって出会ったの?」


 箸の正しい持ち方を学べた有意義な晩餐の後に、デザートのドーナツを食べていると思い出したように尋ねてきた。


 寝不足で倒れて朦朧とする意識の中、「好きです」と告白してしまったんです──とは言えるわけがない。思い返すだけで恥ずかしいし、桑名さんだって同じはず。


「ひょんなことだよ」


 ひょんなこと──意図しない、思いがけない出来事のことを指す。あらすじを書くときには欠かせない魔法の六文字だ。これを使わないであらすじを書くのは、意外と難しい。


「あれをひょんなことで済ませるのは無理がありませんか?」


 そんなことを言われましても。説明に困った時はこれを付けておくと、大抵どうにかなるものだ。ひょんなことからと頭につけるだけで、異世界に飛んでしまっても女体化してしまっても世界が滅亡してしまっても、「ああ、なんかあったんだな」と流せる便利なワードだ。


「その中身が知りたいのよー」


「あ、そういえば。さっき桑名さんが、イグニスクロスを履修したいなって」


「よし、待ってなさい! Blu-ray BOXを貸してあげるから! 陽子ちゃんがダイレクトマーケティングしてあげる!」


 そう言って自分の部屋へと駆けていく。布教モードになると、僕と桑名さんの馴れ初めを聞くことも忘れてひたすら語り始めるはずだ。


「私、今日は帰れるのでしょうか?」


「あはは……適当なタイミングで僕が止めますよ」


 とは言ったものの。ヒートアップしたオタクを止めるのは至難の業だ。声をかける余裕すらないほどに母さんは白熱して、真面目な桑名さんは全部にリアクションを取るものだから、語る口は止まらなくなる。結局脱出できたのは二一時を過ぎてからだった。


「ごめんなさい。ごまかそうとした結果こんな遅くまで付き合わせちゃって」


 時間も遅いので、駅まで桑名さんを送っていく。この辺りに変質者が出たなんて話は生まれてこの方聞いた覚えはないが、女性ひとりで夜道を歩かせるのには抵抗があった。


「帰ったら母さんにはキツく言っておきます。強引な布教は逆効果だって」


「それは悪いですよ。自分が好きなものを好きになってほしいって気持ちはよく分かります。私も妹相手に、色々語っちゃいますから。同じです」


 柔らかな笑みを浮かべる彼女にドキッとしてしまう。それは渚舞織としてではない、桑名藍月という綺麗な先輩に抱いてしまったものだ。気恥ずかしくなった僕はつい歩幅が大きくなる。桑名さんもそれに合わせて早足になったものだから、ペースを落とした。


「それに。アリト先生から素敵なプレゼントも貰えましたから。これは家宝にします」


 子供を抱くみたいに色紙を大切に持って、ニヘラととろけた表情を見せる。姉さんがカラー色紙を描きあげたのは、桑名さんが家を出るほんの少し前。世界に一枚だけの、舞織コスの桑名さんの色紙だ。姉さんにとって、口で語る言葉と絵に込めたメッセージは同じ価値がある。


「夢を見ているみたいです。アリト先生に直接感想を伝えられて、生お絵描きも見学できて……西倉さん、殴ってください」


「もう、それはなしにするって話だったじゃないですか」


 やっぱりというべきか、ずっと擦られてしまいそうだ。自分のコスプレにインスパイアされて、推し絵師に色紙を描いてもらえた桑名さんは、そのまま空に飛んでしまいそうなほどに舞い上がっている。


「欲しいですか? ですよね? 残念、あげませんよーだ」


「いやぁ、僕は毎年誕生日に姉さんから舞織イラストもらっていますし」


 マウントを取ってきたので、スマホを見せて取り返す。SNSには上げていない、僕のために描いてくれたイラスト集だ。食い気味にくるかなと思いきや、桑名さんは呆れたように眉を細めた。


「うーわ、マウントとりますかそうですか。保健室と屋上でのやりとりみんなに言いふらしますよ?」


「それだけは勘弁してください」


「ふふ。冗談ですよ。今日は人生で、最高の日です」


 しかめっ面を崩して、アインシュタインみたいにべーっと舌を出す。桑名さんの人生最悪の一日は一八〇度回って最高の一日へとかわった。弟のしくじりをカバーする姉、これもある種の姉弟愛だ。


「今日はすごく楽しかったです。駅まで送ってくださり、ありがとうございました!」


 改札を抜けて手を振る彼女に会釈をして家路へとつく。学年は違えども、学校はそこまで広いコミュニティじゃない。廊下ですれ違ったとき、あいさつをしよう。


「あっ、そうだ。家路だ」


 夕方流れていた町内放送の曲のタイトルを思い出した僕は、なんだかすっきりとした気持ちで歩き出すのだった。

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