1-6 我が人生、最悪の日

「っ! ゲホッゲホッ! ド、ドリ! ドリデンってなんの話ですか! 知りません! ゲホッ!」


 好きですと言われたことよりも、ドリデンの四文字にビックリした様子だった。知りませんと声を大にしても、明らかに動揺している。


「桑名さんと出会ったのは、今日が初めてじゃありません。先月行われたイベントに、僕はサークル参加している姉の手伝いできていました。『浅草寺せんそうじポセイドン』、ご存知ですよね。アリトは僕の姉です」


 雷門の巨大赤提灯で知られる浅草寺と、ギリシャ神話の海の神たるポセイドン。本来結びつかない単語を足したものが、姉さんのサークル名の由来だ。


 ポセイドンというのも絶妙なチョイスだろう。ギリシャ神話由来でも、浅草寺ゼウスだと売れないピン芸人のように聞こえてしまう。一度聞いたら忘れられない、強烈なインパクトがあるサークル名で、他のサークルと被ることがないので、エゴサーチしやすい。せんポセなんて、略して呼ぶマネージャーさんもいたりする。


 ゲームそのものが始まった当初、姉さんは中学一年生で、僕は五歳児。その頃から姉さんはイラストや漫画を描いており、SNSや投稿サイトにあげていた。今となってはSNSフォロワー四万人と、神絵師と呼んでも差し支えのないレベルだ。もっとも、そう呼ばれるのはあまり好きじゃないらしい。


「え、うそ!? アリト先生の弟!? あ、いや! せ、浅ポセなんて、知りません! 人違いじゃないですか!? 私がそんなイベントになんて……」


「語るに落ちています」


 ナチュラルに略称で呼んでおいて、知りませんは無理がある。うろたえる彼女は、胸ポケットから眼鏡吹きを取り出すと、「すみません」と謝ってから、落ち着かない様子で曇ってもいない眼鏡を拭き始めた。会話中に眼鏡を拭く行動には、早く話を終わらせたいという心理が込められていると同時に、落ち着かない気持ちをおさめる効果もある、と聞いたことがある。まるで裁判で犯人を追及している気分だった。


「間違えようがありません。その泣きぼくろも、そのピンクの眼鏡も、あの時の舞織コスのレイヤーさんです」


 網膜に鮮烈に焼きついた彼女を忘れるわけがない。ミルクティー色のウィッグを被り、深い青色のカラコンを装着すると、あの時の渚舞織になる。これで別人だったならば、僕の目は節穴だ。


「だから知らないって言っているじゃ」


「ビビッときたんです! 上から下まで渚舞織そのもので! えっと、最高だったんです!」


「はぅ!」


 素晴らしいものを見た時、語彙力がなくなるという感覚がわからなかった。『尊い』だとか、そんなよくある表現は嫌だったのに。僕の頭の中からは語彙力と表現力が消えてしまい、出てきたのはありきたりな言葉だ。


「この僕が断言します。桑名さんは最高の渚舞織です。そんなあなたに一目惚れしたんです!」


 しばしの沈黙が続く。吹奏楽部による行進曲の演奏と、運動部の威勢のいい掛け声がどことなく寂しげに響く中、先に口を開いたのは桑名さんだった。


「そ、そんなに、ですか? 私の舞織ちゃん……かわい、かったですか?」


 ひらがなに初めて触れた外国人のように、ゆっくりと言葉を紡いでいく。赤らめた表情も、はにかみ屋な舞織そっくりで、『彼女をモデルにしてキャラクターが生まれた説』なんて、とんでもな考えすら浮かんでくるくらいだった。


「はい。一目惚れするほどでした。僕の姉も、その友達も……ううん。あの会場に来てあなたの姿を見た人は皆、そう思ったはずです。他のレイヤーさんだって」


「あれ、待ってください」


 きっとあなたに嫉妬したはずと言おうとしたら、急に冷静になった桑名さんに止められる。


「それってつまり、好きになったのは私じゃなくて、私がコスプレした舞織ちゃんなんじゃ」


「あっ」


「あっ、じゃないですよ! ちょっと、目を逸らさないでもらえますか!?」


 返す言葉が見つからなかった。要するに僕は、彼女そのものに一目惚れしたわけじゃない。桑名さんの舞織コスに恋をしたのだ。ご本人が現れて浮かれて告白してしまったものの、そもそも僕が彼女について知っている情報は、保健委員の桑名さんでカタギではないということくらいで、下の名前すら知らなかった。


「この数時間、なに一人でてんやわんやしていたんでしょうか……今日は私の人生で最悪の日です」


 ドッと疲れが襲ってきたみたいで、その場にヘナヘナと座り込む。


「いや、その、ほんとごめんなさい」


「ごめんなさいで済んだらおまわりさんはいらないんですよぉ! 人に恥ずかしい思いをさせて……んもぅ!」


 呆れ果てる彼女に向けて、再び土下座をしていた。


「もうやめてください。これじゃあ私が悪者です」


 しばらくして、わざとらしいくらいに大きなため息をつくと、僕に立ち上がるよう促した。それでも許してもらえるとは思わなかった僕は、深々とお辞儀をする。


「そのですね。正直ホッとしているんです。いきなり告白されて戸惑ったのは事実ですし……それに、あのコスプレを良いなと思ってくれた人もいるんだと知れて、嬉しかったです」


「僕の観測できる範囲でですが、SNSでもちょっとした話題になっていました。どこにも写真が残っていないのが、もったいないくらいです」


 イベントによって多少ルールに違いはあるだろうが、コスプレイヤーさんの写真撮影をしたい場合は、基本的に撮影登録をする必要がある。カメラで撮ろうがスマホで撮ろうが事前に登録しないと、撮影はできない。


 ドリドリのマネージャーは、『自分たちは他ジャンルのオタクと違ってマナーがいい!』とえらぶる傾向があった。


 治安がいい界隈なのかと聞かれるとそれは否で、マナーの悪いマネージャーを見つけると、喜んで叩きに行く。暴力による平和だが、そんな自浄作用のおかげで、コスプレイヤーさんもカメラマンさんも、ルールは絶対に守ろうとする。誰だって炎上はごめんだ。


「そう、ですか。話題になっていたんだ。えへへ……」


 嬉しそうに、照れくさそうに顔を赤らめる。やっぱり舞織にそっくりだ。

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