1-4 K.O!

「んんー……」


 目を開くと、ひじきが敷き詰められた天井と、鼻をくすぐる薬品の独特な匂い。壁にかけられた時計は一四時をすぎている。あと随分と長い間眠っていたらしい。立ち上がろうとすると、寝ぼけ頭をぶん殴るかのような大声が飛び込んできた。


「やーっと起きたか結星ゆうせい!? 良かった! 心配したんだぞ!」


「うるさいです、先生」


「ああ! すまなんだ!!」


 謝罪すらもうるさく、寝起きにこれはきつい。しかも結星っていきなり下の名前で呼んできますか。随分とフレンドリーだ。彼は僕の担任の藤王ふじおう先生。クマがジャージを着たような、誰が見ても体育教師だと判断する格好をしている。


「しかし入学早々倒れるなんてなぁ。貧血かあ? ちゃんとほうれん草を食べなきゃダメだぞ!? ケツあごの水兵を見習ってだなあ」


「単に寝不足なだけです。ふぁーあ」


「寝不足ぅ!? なんだ、そんなに高校に入るのが楽しみだったのか!?」


 ソシャゲのイベントをずっと走っていたからです、とは言えるわけもなく。とりあえず首を縦に振っておいた。


「そうかそうか!! だが夜はちゃんと寝ないとダメだぞぉ!? 二一時には寝て五時に起きないとな!」


 どれだけ規則正しい生活を求めるつもりなのか。小学生だってもう少し夜更かしするし、教師だってそんな時間に帰れるわけがあるまい。


「反省しています」


 この手のタイプの人は、変に反論すると余計面倒なことになる。反省したポーズを見せるのがベストアンサーだ。


「外で部活動勧誘とかやっているが、体調が良くないんだろ? 今日は帰って休め、な!? 自分で帰れるか?」


「お気遣いありがとうございます。少し休んだら帰ります」


 藤王先生からプリントをもらい、帰る用意をしようとベッドから立ち上がると、足元に何かが落ちている。メモ帳の切れ端に、『屋上で待っています』とだけ書かれていた。時候のあいさつの手紙を書いたみたいに達筆だ。字で人の性格が分かるとするならば、この字の持ち主はさぞ生真面目な人なんだろう。


 しかしまったくもって身に覚えがない。同じ中学だった新入生も少なからずいるが、関わった記憶がほとんどない。


「一応行ってみるか」


 僕を待ってくれているのならば、かなりの時間待ちぼうけをさせてしまっている。急いで屋上に向かおうと早足になるが、僕は今日この学校に来たばかり。入試の時にも来たとはいえ、屋上への行き方なんて知るわけがない。とりあえず四階まで上がってはみたものの、上に行く階段は見当たらない。向かいに位置する特別教室棟からならどうだろうか。階段を降りて渡り廊下を抜け、また最上階まで昇る。寝起きだというのに結構な運動だ。


 息を切らしながらも、屋上への階段を見つけた僕は、鍵が開いていたドアから屋上に出る。


 中学時代は、屋上が立ち入り禁止になっていたのに、無視する生徒も多く授業をサボる不良や、お昼休みにイチャついているカップルがいた。灰色寄りの青春を過ごしてきた僕には無縁な話で、馬鹿なヤツほど高いところに登るよなー、なんてひねくれた考えを持っていたっけ。


 でもいざ自分が屋上に来てみると、思わずため息が出てしまう。町と山と海をぐるりと見渡せるここは、最高のロケーションだ。スマホを取り出して、パシャパシャと写真を撮ってしまう。身近にこんな良い景色があったなんてな。あ、鳥が飛んでいる──。


西倉にしくらさん! 私、ずっと待っていたのですが!」


「わひゃ!」


 写真撮影に夢中になっていたせいで、本来の目的をすっかり忘れてしまっていた。耳元で大きな声を出されて、情けない悲鳴をあげてしまう。恐る恐る振り向くと、彼女はそこにいた。陽の光を浴びた濡羽色の髪が艶やかに輝き、ピンク色の眼鏡の奥の瞳が僕を見据えている。その姿は、夢で見た彼女そのもので──。


「おかしいな、まだ夢を見ているみたいですね。すみません、一発殴ってくれませんか?」


「え、なんでですか」


 お願いを聞いた彼女は明らかにドン引きしている。僕の夢の中の登場人物だというのに、その反応はいかがなものだろうか。さながら僕はイバラ姫。お目覚めのためには、口付けより拳だ。


「なんか僕、夢の世界に囚われたままみたいで。目が覚めるようなどぎつい一撃、お願いします」


 両手両足を広げて『大』の字を体で表現する。いつでも殴ってくださいという意思表示だ。


「なにを言っているのですか……?」


 無言で彼女を見ていると、顔を赤らめながらも僕の本気が伝わったらしい。


「わけがわかりませんが、殴ったらいいんですね? これは合意の上です。あとで桑名くわなに殴られたー、とか言わないでくださいよ?」


 夢の中の登場人物である彼女は桑名というらしい。名前まであるなんて、やけに凝っている夢だな。


「もちろんです。そんな器の小さな男じゃありません。桑名さんが抱いている不満や怒りを込めて、全身全霊の拳をお願いします。さあ、どんとこいです。バッチこいです」


 夢だしね。現実の僕にはなんのダメージもない。だから大丈夫だ。


「……私にはどうしても許容できないものが二つあるんです。一つ、人がスカウトで爆死しているのに、私は引けましたとマウントを取ってくる人。二つ、声優と声優のやりとりに割り込むオタク……」


「あの、桑名さん?」


「……訂正します、三つでした。限定フィギュアを買い占めて、市場よりも高い価格で転売する転売ヤー……連中のせいで私の舞織ちゃんが……舞織ちゃんが……」


 目に見えるほどの怒りに満ちた赤黒いオーラを出していようが、妙に様になっているカンフーの構えをしていようが、気を集めるかのごとく深い呼吸をしていようが。こんな綺麗な人がオタクなわけがない。間違いなく夢だ。ほら、今保健室で寝ている僕にはノーダメ──。


「はぁ!」


「うぶぉあ!?」


 力強い踏み込みからの、土手っ腹に穴が空きそうなほどの強烈な怒りの掌底しょうてい。内臓がつぶれそうなほどの痛みの中、僕は倒れてしまう。そういや舞織もイベントでカンフーに挑戦していたよな、なんて考えながら僕は夢から覚めて現実へ──。

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