第54話 現実を知った瞬間

 ブリタニア島に着いて3日目。

 俊夫達はロンドンのホテルで一泊してから、宮殿へと向かう。

 すぐに向かわなかったのは、夜に行って魔神を祝う騒ぎになっても疲れるからだ。

 俊夫にだって睡眠欲求はある。

 歓迎会をされるなら、余裕を持って向かいたい。


(それにしても、ロンドンの宮殿ってバッキンガム宮殿だよな? これは国立公園とかじゃないのか?)


 せいぜいテレビで見るくらいだった有名な宮殿。

 それが、ホテルの部屋から見る限りでは、地平線の先まで壁のように木が綺麗に並び立っているだけだ。

 街中に、こんな広大な宮殿があるとは思えなかった。


(邪竜とか言ってたから、デカイ竜でも入れるようになってるだけか。それにどうせゲームだし、そういう設定なんだろうな)


 俊夫は考える事を放棄した。

 こんな滅茶苦茶なゲームで、真剣に悩んでも無駄だと思っていたのだ。

 

「レジーナ、ここでは宮殿を壁で囲ったりはしないのか?」

「木で宮殿の敷地の範囲を示しているだけです。盗みに入ろうとする者がいても、中にいる者で十分対応できますので」


 それもそのはず、ラスボスのいるような拠点に盗みに入ろうとする者はいない。

 雑魚モンスターも含めて、相応に強い者がいるはずだ。

 そんな場所で盗みを働こうとする者は、命知らずを通り越してただの馬鹿だ。


「なるほど。人間と違って、侵入を防ぐ必要すらないのか」


 魔族といっても様々な種族がいる。

 中には侵入者を感知する能力に長けている者もいるだろう。

 そのお陰で、防壁を作って守る必要はない。


 宮殿の敷地内を、レジーナの先導で進み始める。

 敷地内は花を植えられたリ、木や芝も綺麗に刈られている。

 魔族の国というから、人間の死体を使ったオブジェや、骨の椅子やテーブルくらいはあると想像していた。

 俊夫はもっと殺伐としたものを想像していたので少し拍子抜けだ。


 道の両脇にサイズの大きいベンチがあったり、やけに大きい広場などがある。

 体の大きい魔族用だろう。

 見た限りでは、ごく普通の王宮といった感想だった。


 宮殿が見え始めた頃、そこから大きな影といくつかの小さな影が飛び立った。

 大きさの違いはあるが、両方ともに竜のようだ。


「あれはなんだ?」

「おそらく、私達を確認しに来るのだと思います。しかも、ニーズヘッグ様が直々にです」


 レジーナが興奮気味に言った。

 おそらく、ブリタニア諸族連合でも大物なのだろう。


「凄い事なのか?」

「もちろんです! ただの侵入者に、わざわざ出て来られません」


 レジーナは熱い視線を俊夫に向けた。


「やはり本物だったんですね!」


 感動のあまり、涙を流しながら俊夫に抱き着く。

 良い女に抱き着かれて、嫌な気分になる男などいない。

 俊夫はレジーナの背中を優しく撫でてやる。

 そうする事でレジーナの好感度は上がり、俊夫も落ち着ける。

 俊夫もようやく、ここまでたどり着けたと少し興奮気味なのだ。


(……おいおい、あれデカ過ぎだろ)


 宮殿の大きさを考えると、あの竜はさほどの大きさではないと思っていた。

 だが、それは間違いだったと気付く。

 大きいのだ。

 竜だけではなく、宮殿も規格外に。


 その事は、俊夫の周囲を覆いつくす影が証明していた。

 おそらくはニーズヘッグと呼ばれた竜だろう。

 一番大きい竜が俊夫の上で滞空していた。

 そこから徐々に降りてきている。


 巨大な翼で羽ばたいているので、その風もかなりのものだ。

 ヘリの下で着陸を待っている時よりも強い。

 砂が目に入らないように目をつぶり、さらに腕で覆い隠す。


 やがて、地響きと共に風が止んだ。


「懐かしい魔力を感じたかと思えば、ただの人間か。いや、違うな……」


 ニーズヘッグは俊夫を舐めるように見て回る。

 俊夫は生きた心地がしなかった。


 目の前にいる邪竜は、下手なビルなんかよりもデカイ。

 名前だけの魔神である俊夫などよりも、よっぽどラスボスの風格を持っていた。

 ほんの少し機嫌を損ねただけで殺される。

 ゲームだとは思っていても、本能的に命の危険を感じていたのだ。

 足が震えださないのが、自分でも不思議だった。


「その剣は、邪聖剣リ・アニメイター!! もし、貴方が魔神だというのならば、なぜ人間の姿をされているのです!?」


 数十メートルの大きさの竜が叫ぶ。

 声の振動だけでも、俊夫の恐怖心を煽るのは十分だった。

 レジーナなど、すでに腰が抜けて座り込んでしまっている。

 むしろ俊夫がよく耐えていると褒められるべきだろう。


(プレイヤーがレベルを上げれば倒せる程度のでっかい蛇だ。ビビルな俺)


 何事も最初が肝心だ。

 俊夫はハッタリをかまそうとする。


「お前は狼の姿をせねば、羊も狩れないのか?」

「――ッッッ!?」


 雑魚を狩るのに姿など関係ない。

 そう言い放たれて、ニーズヘッグは驚いた。


「似た言葉を……、千年前にも聞いた気がします」


 ニーズヘッグの目は、過去を懐かしむようなものに変わった。


「すまないが、千年前の魔神とは別人だ。俺はゾルド。お前の名は?」


 俊夫は千年前の魔神と別人だと伝えておく。

 同一人物ではない、という事はハッキリさせとかねばならない。

 千年前の事を聞かれてもわからないのだ。

 知ったかぶりよりも、素直に知らないと伝えておくべきだろうと思った。


「申し遅れました、私はニーズヘッグ。ブリタニア諸族連合をまとめております」


 そう言ってニーズヘッグは首を垂れる。

 サイズがサイズだけに、高層ビル建設用のクレーンが迫ってくるような恐怖感があった。


「魔神とは複数人いるものなのですか?」

「さぁな。とりあえず、魔神しか入れない部屋に入れば、俺が魔神である証明になるかと思ったんだがな」

「なるほど」


 ニーズヘッグは、俊夫の言葉に納得する。


 ――魔神しか入れない部屋。


 そこは千年前の魔神が使っていた。

 前の魔神は、誰も中に入れさせなかった。

 そして、魔神が居なくなった今となっては誰も開く事ができない。

 いまだに謎に包まれている部屋だ。


「それでしたら、宮殿までお連れしましょう。手の上へどうぞ」


 ニーズヘッグは手を差し出す。

 彼の体の中では比較的小さい部位だが、手を広げれば数メートル程度の大きさはある。

 二人どころか、馬車くらいは軽く運べそうだ。


「レジーナ、先に乗れ」


 俊夫は先にレジーナを乗せようとした。

 これはレディーファーストではない。

 なんとなく最初に乗るのが怖かったから、レジーナを先に乗せようとしただけだ。

 だが、レジーナに俊夫の本心を知る術はない。

 俊夫にも優しさがあったのだと、素直に喜んで受け入れた。


(別に乗ったからって、毒になったり麻痺したりはしないか。乗るだけなら安全そうだな)


 ボスクラスになれば、通常攻撃で状態異常効果が含まれている場合がある。

 このゲームは異常だ。

 俊夫は、触れただけで状態異常になるのではないかと警戒していた。

 レジーナが先に乗ってくれたお陰で、安心して手に乗る事ができる。


「それでは行きます。捕まっておいてください」


 ニーズヘッグが指を折り曲げ、俊夫達を落とさないようにする。


(おいおい、怖ぇな。そのままグチャっと行くのはやめてくれよ)


 周囲の圧迫感。

 特にラスボスの風格を持つドラゴンの手の上。

 ほんの少し力を入れられただけで、握りつぶされそうだ。

 宮殿に着くまでの間、少し指が動くたびに俊夫は恐怖を覚えた。



 ----------



 魔神の部屋。

 そこは宮殿の奥深く、さらにその地下にあった。

 道中は周囲の視線が集まったが、ニーズヘッグのお陰でぶしつけな視線はすぐに消えた。

 やはり、彼はボス格なのだ。

 すれ違う者達の態度が明らかに敬うような態度だった。


 そんな彼も、今は人の姿に変化している。

 魔神の部屋への通路は、ニーズヘッグ本来の体では通れなかったからだ。


「ここが魔神の部屋です」


 案内された場所は、5メートルほどの高さと幅がある黒檀の扉の前だった。


(仏壇かよ! 魔神だからって扱い酷過ぎんだろ!)


 その扉は、祖父母の家で見かけた仏壇の扉のような質感と色合いをしていた。

 まるで嫌がらせのような扱いに、俊夫は不満を持った。


 だが、いつまでも不満に思って動きを止めているわけにはいかない。

 俊夫は緊張しながら、ドアのノブに手をかける。

 ドアの大きさの割りに、普通のドアくらいの位置にあった。

 ノブを回すとギィ……、と軋む音を響かせながらドアが開いていく。


「なんだこれは? 千年前とは違うぞ」


 そう口にしたのは、ニーズヘッグだった。

 ドアを開くと、小さなドアが出て来たのだ。

 それも、人間サイズのドアが。


「あ、あぁ……」

「いかがなさいましたか?」


 俊夫にはレジーナの心配する声は聞こえなかった。

 今、目の前にあるドア。

 それは見慣れたドアだった。

 そのドアも開き、中を見る。


(俺の部屋…………)


 ドアを開いた先には、予想通り自分の部屋があった。


 左手側の手前から本棚、テレビ、PCデスク。

 右手側にはベッドがあった。

 正面の窓からは、見慣れた景色が広がっていた。

 

 自然と足を部屋に踏み入れる。


「魔神の部屋という割りには……」


 ニーズヘッグは落胆の色を見せた。

 佐藤家二階、六畳一間の洋室は、彼にはウサギ小屋にしか見えなかったのだ。 


「しばらく一人にしてくれ」


 静かに俊夫は呟いた。


「しかし、歓迎――」


 ニーズヘッグの言葉を待たずに、俊夫はドアを閉じた。

 普通のドアだ。

 だが、薄いドアを閉じただけなのに、ドアの向こう側にいたレジーナやニーズヘッグの気配が消える。

 まるで、次元を隔てたように。


 まずは、ブーツを脱いでドアの脇に置く。

 洗浄の魔法で綺麗にできるが、靴を履いたまま部屋を歩く気分にはなれなかった。

 この世界で慣れていたはずなのに。


 次に俊夫は部屋の明かりを付けようとするが、電気が通っていないので明かりが点かない。

 幸いな事に、日本も朝のようだ。

 窓から入る明かりで部屋の中は良く見えた。

 俊夫は窓に向かい、外の景色を見る。

 そこからは、向かいの家などが見える。


(あぁ、嘘だろ。なんでこんな事に……)


 VRマシンは使用者の服や装飾品を再現するのが精一杯だ。

 部屋を再現する機能も、家の外を再現する機能もない。


 ずっと思っていた、マシンの復旧もそうだ。

 あまりにも遅すぎるし、ゲーム内にアナウンスもしてこない。


 そして何よりも、ゲームにしてはリアル過ぎる事だ。

 味覚や嗅覚まであるのは凄いと思っていたが、快楽や苦痛までも本物そのものだった。


 そういったものの積み重ねもあるが、俊夫は気付いた。

 本能的に気付いてしまった。


 ――ここはゲーム内じゃないと。


 窓の鍵を開けて外へ出ようとするが、鍵がビクともしない。

 

「開けよぉぉぉ」


 窓ガラスに拳を叩きつける。

 魔神としての力も使い、何度も、何度も殴りつける。

 すると、向かいの家のおばさんが外に出て来た。


「ここだぁぁぁ。こっち向けーーー」


 叩く力がさらに強くなる。

 それでも向かいのおばさんは反応しない。

 いつものように、玄関脇の花に水をやっているだけだ。


「開けぇぇぇ、開けぇぇぇぇぇぇ」


 何度殴っても、窓ガラスはヒビも入らない。

 今度はPCデスクの前にあった椅子を持って、窓ガラスに叩きつける。

 それでも、まったく変化がなかった。

 窓ガラスも、椅子もだ。

 やがて、叩きつける音も、涙を流して力が抜けていくに連れ、弱々しくなっていく。


「なんでぇ……、なんで俺がこんなことにぃ……」


 俊夫は、現実に大きな不満は無い。

 細かい不満はあったが、それくらい気にならない程度には充実した社会人生活だった。


 VRマシンも、買う金があったから試しに買っただけだ。

 現実を忘れたいなどの理由で、ゲームをしているのではない。

 現実とは違う体験をしたいから、ゲームをしていたのだ。

 だが、それはこんな形ではない。

 もっと軽い感じを求めていたのだ。

 現実に戻れないゲームなんて、やりたくなんてなかった。


 ふと、俊夫は気付いた。


(ゲームの説明書!)


 俊夫はゲームソフトを探す。

 なぜか部屋が整理されている。

 親が片付けたのかもしれないが、本棚のところまで向かう。


 本棚の前には未開封のゲームソフトや漫画本が積まれていた。

 しかし、今はそれはどうでもいい。

 本棚のゲームソフトを並べられているところを探す。


(『Final Factor 2』これだ)


 クソゲー丸出しの煽り文句の書かれたパッケージ。

 俊夫は慌てて中の説明書を取り出す。

 それはたった一枚の紙きれだった。


”おめでとうございます! あなたは異世界への切符を手に入れた幸運な人です。存分にお楽しみください。現世に戻りたい場合は、ゲームをクリアすればオッケーです”


「ぬがぁぁぁあああぁぁぁ」


 怒りのあまりに破り捨てようとするが、その紙切れも破れないくらい頑丈だった。

 この部屋の物、全部に破壊無効属性でもついているのかもしれない。


「なにがオッケーですだ! 死ねぇぇぇ! のたうち回って死ねぇぇぇぇぇぇ!」


 俊夫は絶叫する。


 ゲームの開発者が何者なのかわからない。

 それでも呪わずにはいられなかった。

 本当に異世界へ行ってしまうのなら、こんな紙切れ一枚を入れておくだけなんて理解ができない。

 先に説明書を見ようとしなかった俊夫も悪いが、こんな注意書きなんて見落としてしまうに決まっている。

 それ以前に、本当に異世界に行くなんて信じないだろう。


 俊夫は子供のように手足を振り回して暴れ回った。

 叫んで、体を動かしでもしないと、頭がおかしくなりそうだからだ。


 本棚を倒し、壁を殴り、床に落ちた物を蹴る。

 しばらくの間、俊夫は我を失っていた。

 そのまま発狂していた方が、本人には幸せだったかもしれない。

 しかし、それは精神異常耐性のせいでできなかった。


「うぅ……」


 俊夫は部屋の真ん中に座り、嗚咽を漏らす。

 すでに床は荒れ放題だ。

 本棚から本やゲームソフトが放り出されて散らばっている。

 ゲームソフトの箱に座っても、壊れそうな気配すらないのが憎たらしい。


(ゲームをやっただけなのに、なんで異世界にいるんだよ……。おかしいだろ、それ)


 怒りを吐き出した次は脱力。

 ただ涙を流し、己の無力さを実感させられてしまう。

 怒りを撒き散らそうにも、この部屋の物は壊れない。

 壁に投げ飛ばした小物が跳ね返ってきて、自分の顔に当たるなど、よけいにストレスが溜まる出来事もあった。

 非常に不愉快だ。


(そういえば、未開封の本とかあったな……)


 俊夫は乱雑に積み重なった本の山から、目的の品を探す。


「あった」


 それは俊夫が買っていた漫画本の続きだったり、好きな作者の新シリーズの新刊だった。

 ビニールを破って読もうとするが、当然ながら本を包むビニールも破れない。


「生殺しかよ!」


 仕方がないので、今まで読んだ本を開いた。

 中身はそのままで、VRマシンではここまで再現できないと、俊夫に確信させた。

 VRマシンの中で妄想しているかもしれない、という可能性を打ち消してくれたのだ。

 いくらなんでも、俊夫の記憶から再現しているにしては正確すぎた。


(そういえば、机の上になんかあったな)


 PCデスクの上、そこには何かを挟まれて膨らんだ大学ノートが置かれていた。

 俊夫はそれを手に取って読んでみる。


 内容は両親の日記のようなものだった。


 最初は俊夫が居なくなってからの事が書かれていた。

 突然居なくなった俊夫を心配している事が書かれ、それはやがて愚痴へと変わる。

 いきなり消えたのだ。

 文句くらいは言いたいのだろう。


 そして、レシートが貼られたページまで読み進める。

 それは俊夫の好きな作者の本や、ゲームメーカーのゲームソフトのレシートだった。

 こまめに値段を足してあり”帰って来たら払え”と見覚えのある字で書かれていた。


(”エロゲーは恥ずかしかったから2倍!”って、親父は何で店で買ってんだよ。通販使えばいいだろ)


 それは嬉しさよりも、恥ずかしさが大きかった。

 買った事のあるメーカーの新作というだけで、マニアックな内容の物まで買ってある。

 さすがにエロゲーまで買い置いてくれるのは、ありがた迷惑でしかなかった。


(家に帰りたくなくなるじゃねぇか)


 どんな顔で親に会えばいいのか。

 俊夫はベッドの端に座った。

 窓際に近い場所で、そこから外を見る。


(10年経っても、家の周囲は変わらないな……)


 大学ノートには、俊夫がゲームを起動した日から10年後の日付が書かれていた。

 この世界だけではなく、日本でも10年の時間が過ぎているようだ。

 それでも、周囲の家の様子は変わらない。


 そう、何も変わらない。

 俊夫がそこにいないだけだ。


(帰りたい……。いや、ここは俺の部屋。もう、帰った。帰って来たんだ)


 俊夫は大学ノートを胸に抱き、大粒の涙を流す。

 嗚咽が漏れて言葉が出せない。

 それでも、俊夫はなんとか言葉を絞り出した。


「ただいま。ただいまぁ……」



 ----------



「おかえり、俊夫」


 俊夫の母親の声は、誰もいない俊夫の部屋に虚しく響いた。


「おい、急にどうしたんだ?」


 声をかけたのは俊夫の父親だ。

 朝食を作っている最中、突然走り出した妻を追いかけてきた。

 彼は妻の異常な様子に、心配そうな顔をする。


「俊夫が帰ってきたような気がして……」


 そう言って、母親はワッと泣き崩れる。


 俊夫の部屋はいつ帰ってきても大丈夫なように、綺麗なままだ。

 もし、帰ってきていたら部屋の入口からでも一目でわかる。

 人が隠れるような場所はないし、隠れなければならない理由もない。


「大丈夫、いつか帰ってくるさ」


 彼は妻を抱き上げると、ベッドの入口に近い場所に座らせた。

 そして、自身も妻の隣に座る。


「親に心配ばっかりかけやがって! 帰って来たら、俺が殴って、お前が説教。いつも通りのやり方で叱ってやろう」

「嫌よ、今回ばかりは私も許せない! 私も叩いてやるわよ!」


 今回ばかりは度が過ぎたようだ。

 温厚な俊夫の母も、怒りを抑えきれない。

 俊夫の父は妻の肩を優しく抱き寄せる。


「そうだな。それじゃ、二人で引っ叩いて、二人で説教してやろう」

「そうね……。その後は、二人で抱きしめてあげましょう」


 この時ばかりは、枯れ果てたと思われた涙が溢れ出た。


”きっとどこかで生きている”

”元気に暮らしている”


 そうは思っていても、心のどこかでは”もう、戻ってこないかもしれない”という考えは脳裏から消える事はない。

 俊夫の事を考えると、どうしても泣きたくなってしまう。

 こればかりは、時間が過ぎても慣れないものだ。


 俊夫と両親。

 同じベッドの端と端に座っている。

 手を伸ばせば十分に届く距離だ。

 ただ住む世界が違うというだけ。

 たった一つ。

 その違いのせいで、彼らの手は触れ合うことすらない。


 この日、佐藤家からは三人分のすすり泣く声が漏れ聞こえた。

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