第三章 状況の把握
第30話 魔神の目覚め
水深2,000メートル。
深海探査艇でもなければたどり着けない深さの海底で、俊夫は苦しみ続けていた。
もうどれくらい経っただろうか。
俊夫は気を失い、目を覚ますという事を繰り返している。
そのせいで、気が狂いそうなほど長く感じるし、ほんの数時間程度にも思える。
俊夫が選択したスキル。
その全てが裏目に出ていた。
水圧で身動きもできない俊夫は、ただ時の流れに身を任せることしかできなかったのだ。
当初、深海の生物達は突如現れた異物に興味を示さなかった。
俊夫だけではなく、他にも船の残骸や乗客だった物も同時に沈んできたからだ。
だが、いつかは俊夫のもとへも訪れる。
最初に俊夫のもとへ来たのはカニだった。
ローブの端を挟んで引っ張ったりしていたが、すぐに興味を無くしてしまいどこかへ行ってしまった。
この時までは良かった。
しばらくして、一匹のグロテスクな魚が俊夫の指に食いついた。
鋭い牙で皮を齧りとった。
そして、その魚がきっかけだった。
そこに餌があると気付いたのだ。
食べても食べても無くならない、最高の餌場だ。
小さな魚が群れ集い、良質な餌場周辺にたむろする。
やがて、その魚を捕食するモノが現れ、小魚達が散って俊夫周辺が静かになる。
そんな事が定期的に起こり、やがて中型になり、大型のモノが集まるようになってきた。
魚類や甲殻類、時には魔物も。
そしてある日、巨大なタコの化け物が俊夫ごと、それらのエサを口内へと吸い込む。
タコにとっては、ちょうど良くエサが集まっていたくらいにしか思わなかったのだ。
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「今日はこんなにいい天気なのに、まったく釣れねぇなぁ。そっちはどうだ」
「こっちも今日は釣れないな」
「朝早くから出てんのに、こんだけ釣れねぇとうんざりするぜ」
せっかくの晴天、それも波が穏やかな日にボウズだなんて……。
それも専業の漁師がである。
このまま手ぶらで帰ったのでは、家族に会わせる顔がない。
仕方がないので釣り竿ではなく、網で漁をしている者達に声をかける。
数匹でもいいから分けてもらうのだ。
離れた場所で漁をしている仲間のところへ向かう。
「おーい、そっちはどうだー」
「まったくダメだ。それよりも手伝ってくれ。網に何か引っ掛かっちまったようだ」
「なんだよ。魚は釣れねぇのに、流木は釣れるのか」
「うるせぇよ。どうせそっちもボウズなんだろ」
「ハハハハ、ちげぇねぇや。これで網まで失ったら帰れなくなるな」
「だから手伝えって言ってんだよ」
何人かが服を脱ぎ、網にかかった何かを外しに、海の中に飛び込んだ。
「それにしても、これだけ良い天気で釣れないのは辛いよなぁ」
「まぁまぁ、こんな日もあるって」
船上に残った者達は、今日の愚痴をこぼし合う。
小型の漁船は陸地が見えるような距離しか離れられない。
沖合に出るには、中型以上に忌避装置を取り付けてなくてはいけないのだ。
その燃料となる魔石の補充に金がかかる。
なにも釣れなければ、その分が赤字となってしまう。
ついつい愚痴をこぼしてしまうくらいは仕方ないだろう。
船員たちが話をしていると、海の中から潜った者達が慌てて浮き上がってきた。
「上げてくれ。早く、引き上げろ!」
「おいおい、どうしたっていうんだ」
潜っていた者達を船上に引っ張りあげると、今度は”逃げろ”と言い出した。
「タコの化け物だ! 網なんて捨てて早く逃げるんだよ! とんでもなくデケェ」
「マジかよ、忌避装置どうなってやがんだ!」
大慌てで網を切り捨てようとする。
しかし、それを船長が止めた。
「慌てるな! 本当に化け物ならもう襲ってきててもおかしくないだろう。死んでいるのかもしれん」
「でも……」
「俺が見て来る」
そういって、船長は服を脱いで海へと潜っていった。
それからしばらくして、船長は海上へと戻ってきた。
船に戻ると網を曳いていた船だけではなく、釣りをしていた船にも聞こえるように大きな声で話し始める。
「いいか、みんな。よく聞いてくれ。タコの化け物が網に引っ掛かっていたのは確かだ」
その言葉に、周囲の者達がざわつき始める。
中には早く逃げようとパニックになる者もいる。
「落ち着け、化け物は死んでいるようだ。これはチャンスだ! 海の魔物は死んでも、魚や他の魔物に食われて素材が残らない。これを国なりギルドなりに売っちまえば、小さい漁村なら当分遊んで暮らせるかもしれないぞ」
「そ、それは本当ですかい?」
”当分遊んで暮らせる”
その言葉は魅力的だ。
それだけに疑問に思うのも当然だろう。
「俺達だって、あんなにでかいタコを見るなんて初めてだろ? 珍しいもんは高く売れるんだ。ゆっくりでもいい。気を付けて村に持ち帰るぞ」
きっと魚が獲れなかったのは、このでかい化け物の死体があったからだろう。
それに死体だというならば、欲も出てくる。
手ぶらで帰るよりは、何か収穫があった方が良いに決まっている。
始めて見る獲物なら、村にいる家族達も驚かせる事ができるかもしれない。
その場に居る者達は、そのほとんどが船長の考えに賛同した。
「網の先に引っ掛かっているから、網が破れて逃がしたりしないように。ゆっくりだぞ、ゆっくり」
陸上で重い物を引っ張るよりは、水上を引っ張った方が運びやすい。
とはいえ、網は漁師達の手作りだ。
本格的に物を引っ張るには心許ない。
風を受け過ぎないように、帆を調整しつつ彼らは村へと戻っていった。
一攫千金を夢見て。
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(腹が減った……、眠い……、頭が痛い……)
俊夫は己の体調不良に悩まされていた。
今は大丈夫だが、ずっと苦しみ続けてきた気がする。
暗く、重く、苦しく、ずっと眠る事も出来ずに、何者かにその身を削り取られていく。
それは終わる事の無い悪夢だった。
だが、今はその夢から覚めた。
頭は朦朧としているが、現に腹が満たされていく。
味は酷いが、それでも腹に何か入るというのは無類の心地良さだ。
これを味わってしまうと、ダイエットに失敗する人の気持ちもわかる。
食べるという行為は、まさに至上の快楽であった。
俊夫が今齧りついているのは、生のドネルケバブのようなものだ。
屋台などで串に刺して焼いている大きい肉の塊だ。
大根くらいの太さで生ではあるが、腹を満たすには十分だと俊夫は感じていた。
細く曲がった部分の肉が齧りにくい。
(手羽先みたいなもんか……)
全て食べ尽くすと、もう一本のケバブを千切り取り、太いの方から齧りつく。
こちらの側の方が一口で食べられる肉が多い。
まだ作り立てなのか、溢れる血液がちょうど喉を潤してくれる。
(生肉でもいい。あぁ、そういえば生肉の方がビタミンが豊富とかなんとか聞いた事があるな。血のソースなんてのがあるくらいだし、血は調味料くらいに思えばいいか)
昔聞いた事のある事を思い出していた。
不思議と、こういった事は思い出すことができる。
今の状況が思い出せないのに……。
手持ちにある肉を半分ほど食べたところで、俊夫はある程度腹が満たされた。
この食事の前にも、かなり食べていたのだろう。
それでも物足りない。
(あー、そうだ。会計……。カード使える店だよな。あれ、食べ放題の店だっけ?)
俊夫は肉に齧りつき、口内のモノを咀嚼しながら手元を見る。
そこには骨が剥き出しになった、人間の足があった。
大きさを考えればまだ子供の足のようだ。
(足か……。そういや、豚足も美味いけど手が汚れるんだよなぁ……)
口内の肉を飲み込むと、また足に齧りつく。
(手羽先もそうだけど、ああいうのって手や口元が汚れずに食べられたらいいのに)
今も滴り落ちる血液が口元だけではなく、手や服を汚していく。
それでも、空腹を満たすために手が止まらない。
手に持っていた肉を食べきってしまい、骨を捨てると他に食べる物はないかと周囲を見回す。
ここは漁村のようだ。
周囲には数十人分の人間の骨が転がっている。
海岸には巨大なタコが、胴体の半分ほどを失って打ち上げられていた。
多くの綱が引っかけられていることから、村民総出で引き揚げたのだろう。
これは内側から俊夫が食い破り、村民は意識が朦朧としたままの俊夫に襲われたのだ。
新鮮で柔らかい肉を本能的に求めてしまったのだろう。
俊夫のすぐ近くには、先程の足の持ち主の死体が横たわっていた。
首から下は骨だけになってしまっており、半分食いちぎられた顔が虚空を見つめている。
残された部分からみて、10歳くらいの女の子だろうか。
(女の子か。そういや、このくらいの子を性的に食っちゃうとかありなのかな……。いや、さすがにロリはやべぇよな。……食う?)
いくらか意識がハッキリとしてきた俊夫は気付いた。
――今まで自分が何を食べていたのかを。
「オェェェェ、グエェェェ」
発作的に胃の内容物を吐き出そうするが、体がそれを拒否する。
せっかく取り入れた栄養を、体が手放そうとしないのだ。
何度か吐き出そうと試したが、食べた物がでてくる気配がない。
ただ、言葉と唾が吐き出されるだけだ。
俊夫は気分を変えるためにも、何か飲み物は無いかと周囲を見回す。
(なんだこれは……、漁村? 日本にこんな村あったか?)
明らかに日本の建築物ではない家が立ち並んでいた。
木造建築の家や、コンクリートの建物でもない。
石造りの西洋風の建築物ばかりだった。
(あぁ、なんてこった……。まだ、終わってないのか……)
かなり長い間、何らかの理由で苦しんでいた気がする。
それでも現実に戻る事なく、こうしてゲームの中にまだ居る。
目の前にある現実という名の絶望が俊夫を襲う。
それは人間を襲い、食ったという行為をどうでもいいと思わせてしまった。
俊夫にとっては、どうせゲームキャラなのだ。
嫌な気分にはなるが、それ以上ではない。
人間の死体を食ってHP回復というスキルのあるゲームだってあった。
自分がゲームを終わらせられないという事情に比べれば、些末な事に過ぎないのだ。
(いや、今は眠いし、何も考えたくない。どこかで寝よう)
立ち上がった俊夫の裾から、大きなムカデのようなものの死骸がこぼれ落ちる。
よく見れば、ローブには海藻であったり、泥のようなものが取りついていた。
海底にいた間に取りついてしまったのだ。
汚れたままでは嫌なので、体を魔法で洗浄する。
普通なら今の俊夫の状態でそこまで気が回らないかもしれない。
だが”歯磨きの代わりに【クリーン】””用を足したら【クリーン】””風呂の代わりに【クリーン】”と日常的に使っている内に、自然な行為として身に付いていたのだ。
身体が久々にサッパリとした俊夫は、近くの家に入っていく。
そこでベッドが無いか探す内に、台所が視界に入った。
(水……)
まずは水瓶を手掴みで持ち上げ、一気に水を飲む。
そして近くにあった野菜を生のまま齧りつく。
水を飲んでは、何かを食べるというのを繰り返していた。
新鮮な真水を飲んだのは久しぶりだ。
寝る前に食べると太るなどという事は、考えすらしなかった。
今はただ、体の欲するがままに欲望を叶えていた。
「ふぅ」
人心地が付いた俊夫は剣を背負ったまま、ベッドに身を委ねる。
ここは明るい。
身を切るような冷たさもない。
呼吸もできるし、今までのように、何かに抑えつけられるような感覚もない。
マットレスは柔らかくないが、それでも体を優しく包み込むような布団がある。
剣を背負ったままではあるが、俊夫はその程度の事など気にならないほど、深い眠りについた。
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