十七 意識

 湯船に浸かってやっと、冷え切った体に気付く。

 ここの風呂場は初めてじゃない。

 絵を描いていて汚れるのは珍しくないし、傘を持っていない日に限って、僕はよく雨に降られる。

 だから英介さんの善意で、僕の着替えがひと揃い置いてある。


 着替えて二階の画室に向かうと、話し声が聞こえた。

「借りが出来たって思わない?」

 自信がそのまま音になったような声。

 江角先生だ。

 僕はそっと眼帯を着けてから、様子をうかがった。

「恩に着るよ」

「そう思ってるならモデルをやってよ。着衣でいいわ」

「当り前だろ。それに、一枚だけだ」

「日にちはそうね。毎週木曜なんてどう?」

「木曜は――」

 僕がここに通う日だ。

 思わず少し歩を進めた。

「言ってみただけよ。暇な日でいいわ」

 英介さんは、僕の気配に気付いたようだった。

「久子。今日はもう帰ってくれ。坂上が困っている」

 別に困ってなどいなかったが、気まずい思いはしていた。しかも、そう言われてしまったからには、これから更にそうなるに違いない。

「あら、こんにちは。相変わらず可愛らしいわね。坂上くん」

「こんにちは」

「木曜でもないのにここに来てるんだ。さすが、秘蔵っ子だけあるわ」

 僕は、江角先生が苦手だ。

 彼女の強さは、自分の認めたくない醜い所を、そして、足りない美しさを確認するようで恐ろしくて堪らない。

 自身の底にある理由はわかっている。だからこそ、認められないのだ。僕は馬鹿で、臆病で、そして、きっとずるいのだ。

 眼帯を着け直して良かった。

 彼女の光は、眼帯をしない僕には余りに強過ぎる。

「久子。悪いが、坂上と大事な話があるんだ」

 事実だが、言い訳がましく聞こえた。

 彼女にではなく、僕に言い訳するような。

「はいはい、帰るわよ。お邪魔さま」

 そう言いながら彼女は、目が合った僕に目を細めて、

「君も大変ね。こんな悪い男に捕まって」

 と、ぼそりと呟いた。

「え?」

「逃げたくなったらいつでもいらっしゃいね」

 彼女はいつだってわざと僕をからかう。

 江角先生は少し、北原さんに似ているのかもしれない。

 踊るように去った彼女を見送り、英介さんは溜息をつく。

「悪かったね」

「どうして、先生が謝るんですか。僕が帰れば良かったんです」

 言ってみて自己嫌悪に陥った。

 八つ当たりしたいわけではないのに。

「坂上。そうはいかない。まだ誤解は解けてない。まあ、座って」

 言われた通りソファに並んで座る。

 目を合わせなくていい事は、今の僕には有り難かった。

「一昨日は大変だったんだろ?現場が騒がしかったから私も見に行ったが、まさか君たちだとは思わなくて」

「お祖父さまから聞いたんですか」

「昨日、休みの連絡があった時に、少し話した。大丈夫か?」

「それは――警察が調べてくれています」

「ならいいが、今日も必要なら送るか、迎えを頼むから」

 いつもと変わらない、優しい先生だ。

「ありがとうございます。それより、どうして、あの絵を売ってしまったんですか」

 緊張はずいぶん解れて、自然に切り出せた。

「この家が彼女の家の物なのは知ってるだろう。古い建物だから、修繕が必要でね。久子の両親は、修理より建て直しをしたいと言っていたんだ。別の物件に移動するようにしつこく交渉されていたんだが、久子は一緒に反対してくれたんだ。なんとか希望が通って、修繕だけでいいことになった」

「建物の修繕、ですか」

 英介さんには長年の住居としても思い入れがある建物だ。

「ああ。だから月末までに、ここを空っぽにしなくてはいけない。君と小出くんの絵は、修繕中の預け先を探していたら、叔父に嗅ぎ付けられた。北原画廊が一番、君たちの作風に合っているのは認めざるを得ないから、買い取りではなく、仲介を条件に交渉させた。君が私を信頼してくれて嬉しかった。私の絵も、もう倉庫に運ぶことになっているが、君からもらった大事な絵と、君に売る約束をした絵だけ、久子に預かってもらったんだ。叔父には預けたくなくて」

 僕は早とちりを恥じたが、英介さんはいつもの様に微笑んだ。

「そうだったんですか」

「昨日話せれば良かったんだが、事件のことがあったからね。それ以前に、決まるまで待たせてしまったけど、君ともしばらく休みにするか、相談しようと思っていたところだ」

 さっき英介さんが笑っていたのを思うと、愛子ちゃんはもしかしたら、話の半分くらいは知っていたのかもしれない。

「坂上?」

「ごめんなさい」

「君に非は無い。こちらこそ、すまなかったね」

 英介さんの余裕が、更に僕を焦らせた。

「先生を疑ってしまった」

「いいよ。ちょっとだけ傷付いたけど、それよりも嬉しかった。自分の絵がそんなに君にとって重要なのかと思うと」

「傷付いたって……」

「君が私より愛子を信じるものだから」

 ああ、そうか。

 僕は何度も否定する英介さんは信じないでいて、愛子ちゃんの言葉を優先したのだ。

 自分に腹が立ったのと、問題が解決された安心感に、涙が僕の頬を伝った。

「啓?」

 慣れない呼ばれ方をされたことに驚いて、目を合わせる。彼も驚いたような顔をしたが、すぐに笑みを取り戻した。

「外した方がいい」

 彼は僕の眼帯を外し、涙を拭った。

「泣くな。君は悪くない」

 自分の身体が重くなるのと同時に、急に意識がぼやけていく。

「……啓?」

 冷たい英介さんの手が、僕の額に当てられ、ひんやりと心地好いその感触に目を閉じる。

 今日はどうして、啓と呼ぶんだろうか。

 ――悪い男に捕まって

 江角先生の囁き声を思い出す。

「熱があるな。今日は泊まっていきなさい。標文すえふみ先生には、伝えておくから」

 そんな呟きの後は、もうはっきりしなかった。

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