三 麗人

 放課後、絵の師匠である高梨英介たかなしえいすけの画室に寄り、学校とは別に描いている個人の作品を進める。

 英介さんはまだ二十六歳だが、幼少時からその才能を認められてきた。幻想的な作風は僕と通じる部分が多く、専門学校に入る前から、祖父のつてで師事することができた。弟子は今、僕と小出の二名だ。

 背が高く細身だが、堂々とした振る舞いと、整った顔は人目を引く。

 爽やかな色気は老若男女に好かれるが、本人はあまり、俗っぽいことに興味は無いようだ。


「私は君の絵に吸い込まれる夢を見たことがあるよ。恐ろしいのに、胸が高鳴った」

「僕はただ、見えたまま写すだけです」

「君ほど適切に写せる画家はそういないね」

「先生、僕は画家じゃありません」

 彼はそれを聞くと、意味深に唇の端を上げた。

「画商の叔父が君の絵を、画廊に置きたいと言っている」

「僕の絵を?」

「今日こちらに来るそうだ」

 耳を疑った。

 二十歳になりたての、無名の学生の絵を置きたいだなんて。

「僕は、あなたに見てもらえれば満足だし――先生のあの絵を買えるようになったら、もう、絵を描くのをやめてもいいんです」

 英介さんの作品の中で、どうしても欲しいと思ってしまった一枚の絵。

 画展で得た賞金を貯め、あの絵と、絵を飾るのにふさわしい家を手に入れるのが夢だ。

「光栄だが、絵を描く事と、それを教える事しか出来ない私だけが見るには、もったいない。君も絵が売れれば、夢がすぐ叶うかもしれないだろ。喜んでほしいな」

 喉まで反論が出かかった僕の背後で、靴音が響いた。


「随分ご謙遜じゃないか、高梨画伯。学生時代から何をやらせても優秀だった君がね」

「叔父さん」

 どうやら待ち人が来たらしい。

 振り返ろうとした僕の顎を、英介さんが引き戻した。

「叔父は不思議で美しいものが大好きだから、眼病の振りでもしないと、玩具にされてしまうよ」

 囁く低い声に、操られる気がした。

 こういう時の彼は少し恐い。

 自分の目が美しいと思った事は無いが、取り敢えず右目を眼帯で覆って、振り向いた。


 ぞくりとするほど綺麗な男が、入口に立っている。

 黒で統一された服装に引き立てられ、光を帯びる白い肌。そこに浮かび上がる様に鮮やかな唇。形の良い、高く細い鼻。日本人離れと言うより、人間離れしている。


 人形。


 生命ある美しい人形の右目は、緩やかに波打つ黒髪で隠されていて、妙に親近感が湧く。

 と、同時に、自分が右目を除けば余りに平凡だと再認識させられ、気が滅入った。

 日頃、疎ましく思っている右目は、自分を構成するに不可欠な要素でもある。

 僕はいつも、つまらない劣等感に苛まれつつも、くだらない優越感に浸るのだ。


「扉を叩いて下さいと言っているのに」

 英介さんは小さく溜息を吐いた。

「次からそうしよう。しかし英介。叔父さんはあんまりだ」

「仕方ないでしょう。叔父なんだから。十二も年上のくせに若ぶって、都合が悪くなると急に年上ぶるんですよね。呼び方は変えませんよ。諭介叔父さん」

「十二も年下のくせに、年寄りみたいな事を言うなよ」

 彼を横目で見て、英介さんはまた溜息をついた。

「さっさと自己紹介でもなさったらいかがですか」

「ああ……失敬。初めてお目にかかります。北原画廊店主、北原諭介きたはらゆうすけと申します。英介の叔父――母親の弟にあたります」

 北原画廊なら知っているが、彼を見たことはなかった。

「初めまして。坂上啓です」

「坂上先生。貴方の絵を、是非私の画廊に置かせていただきたくて、お願いに参りました。できれば、全ての作品を。細かい取引については、高梨先生と標文先生に立ち会っていただいて、損がないようきちんと確認していただくかたちでいかがでしょう」

 英介さんをちらりと見ると、彼は答えを促す様に頷いた。

「断る理由はありません。高梨先生が確認してくだされば、取引にも異存はありません。ただ」

 そうだ。

「先に、高梨先生に一点、作品を貰って欲しい」

「え?」

 予想出来なかった様で、二人はひどく驚いた。

「欲しい作品が無ければ、全て北原さんにお任せします」

「いいのか坂上」

 僕が頷くと、英介さんは数秒考えてから、やや得意げに笑った。

「じゃあ、あの絵を貰うよ」

「あの絵ってどの絵だ、英介」

「秘密です。見せたらあなたも欲しくなる。少し待って下さい。私の部屋に隠します」


 画室を出て行く英介さんを見送ると、北原さんは拗ねたように椅子に座って、僕を見た。

「その眼帯は、眼病かな?」

「光に弱くて……あなたは?」

「まあ、似たようなものだね」

 英介さんの言葉を思い出す。

 ――玩具にされてしまうよ

 人形に遊ばれる玩具なんて、英介さんらしい。

 しかし英介さんは一体どの絵を選んだのだろうか。

「どの絵を選んだのかなあと、思っている?」

 驚いて見詰めると、彼は奇術師のような笑みを浮かべた。

「そんな目で見詰めていたら、英介に捕まってしまうよ」

「捕まる?」

 玩具にされるか、捕まるか。

 どちらも僕の非力さや頼りなさが原因の、からかいなのだろうか。

「いや……英介が君から逃げられなくなるのかな」

「よく、わかりません」

「君は英介が好きなんだね」

「尊敬していますし、憧れています」

 好きなのは確かだが、ひと言で言い表すのは難しい。

「憧れ?ふうん」

「なんですか」

 彼は答えず立ち上がり、歩み寄って来た。

 近くで見ても本当に綺麗だ。

 僕も美しいものは好きだ。

 彼と気が合うかもしれないとも思った。

 けれども、まだ彼は未知の領域にいる。得体の知れない美しさの力は、僕を脅かすものだった。

 しかし、何故だろう。僕の手を取る彼の手を、振り払うことが出来ない。

「君の手が欲しいな。私もあんな絵が描けたら……君の、目も欲しい。その目を通せば、あの景色が見えるのだろう?」

「――僕の目があれば、僕の手は要りませんよ」

「どうして?」

「あの景色が好きなら、直接見ればいい」

 彼は首を横に振った。

「絵画を見る事は想像する事だ。一つの景色を切り取る経緯。その後の未来。作者の想い。作者の中の作者自身。私は絵を通して作者も見ているんだ。君の絵は、君の見た景色を伝えるだけでなく、君自身を語ってくれるんだよ。間にあるのが君だから意味がある」

「それは、わかりますけど」

「どんなに精密に模写しても、君を知らなければ、絶対に何かが不足する。同じ物を描いても違う絵ができることを、君はよく知っているはずだ。君も――君の見ている景色を、共有できる誰かを探すために、描いているのでは?」

 質問なのか、語りかけているだけなのか。僕は答えず、ただ彼の操る杖の先を追っていた。

「私は君のように描きたくても、きっと出来ない。君になりたいわけではない。君の絵を第三者として見て楽しむ喜びを、もう知ってしまったから。私は私のままで、絵を通じて君の思考をなぞることを求めている」

 なんだか急に悲しくなった。

「僕は、ただの病気なんです」

 僕はこんな景色、見たいわけじゃない。

「わかってないな」

 彼は僕の眼帯に手を伸ばした。

「君はそんなに素晴らしいのに」

 何故か止めようとは思わなかった。

 と、突然扉が開いた。

「叔父さん!」

 英介さんは一直線に駆け寄って、僕たちを引き離すと、北原さんを睨み付けた。

「……叔父さん。倉庫に案内します。商談に入りましょう」

 北原さんは大きな溜息をついて頷いた。

「坂上はどうする?」

「僕は帰ります。もう遅いから」

「気を付けるんだよ。最近物騒だから」

 いつもの英介さんに戻った。

「体の一部を切り取られるというやつですか」

 全く、僕には理解不能な犯行だ。

「犯人はまだ捕まらないらしいからね」

「ええ。気を付けます」

 帰り際に目に入った北原さんの視線が、妙に気になった。

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