第9話
あらゆる学部がありあらゆる生徒がいるこのウィステリア学園で、例え生徒一人がいなくなろうとも気にする人間はそうはいない。気付くとすれば親しい人間だろうけれど、きっとその数も少なかった。
「賢い選択をしましたのね」
「……おかげで目が覚めました」
「汚名返上をしっかりとなさることですわ」
目の前で頭を下げる男子生徒にわたくしも多少なりの助力はした。けれどそれも目の前の男に対してではなく、大切な友人のため。一人の生徒を学園から追放させる、それだけで彼がやってしまったことをすべて払拭させることはできないけれど。それでも目を覚まし愚者から離れたことは褒めてもいいことだろう。
もう一度わたくしに礼を言い頭を下げた彼は一人歩いて行く。もうしっかりと己の歩む道が見えているのだろう。こうやって男性は成長していくのですわね、と一つ上の男性に対して思う言葉ではないのだろうけれど。
わたくしも行かなければ、と時計に目を走らせ歩き出す。一度教室に寄って、そして次に向かう場所は食堂。昼食を買ったらいつもの場所である中庭に向かわなければ。いつも座っているベンチに迎えばまだ誰も来てはいない。剣術学部は帝王学部の校舎よりも少し離れているため仕方のないことだけれど。
先に座っていようかしらと腰を下ろせば聞こえてきた足音。顔を上げるといつものように大量の昼食を持っている彼が向かってきているのが見えた。
「あれ? バイオレットさんだけですか?」
「ティアラは用があるから少し遅れてくるそうですわ。先に食べていてと言っていたけれど」
「それじゃお言葉に甘えて先に食いましょうか」
思わず軽く瞠目してしまう。彼は無意識なのかティアラがいないときはわりと砕けた言葉遣いをするけれど、それだけティアラが大切なのだということがわかる。だから彼女がいいと言ったとしても「待ってます」ぐらいは言うものだと思っていた。
「バイオレットさん食わないんすか?」
「……いいえ、貴方の言う通りお言葉に甘えて先に食べましょう。きっとすぐに来るでしょうし」
「ね! 頂きます!」
確かにそれだけの量があればいくら彼が食べるのが早いと言っても最中にティアラは来るだろう。まったく違う量をそれぞれ膝の上に乗せて一足先に昼食を頂くことにした。
ティアラならまだしもわたくしと二人きりでの食事なんて、彼は楽しいのだろうか。共通の話題もあまりないしとちらりと横を見てみれば大きな口を開けてがぶりと一口かぶりついていた。相変わらず見ていて清々しい食べ方。わたくしもとパンを千切って口の中へ入れ、しっかりと咀嚼する。
そういえば気になっていたことを今聞いてみるのもいいのかもしれない。寧ろティアラがいたほうがこの話は先に続かない。軽くお茶で喉を潤して口を開く。
「そういえばティアラとどこまでいったんですの?」
確か教えてくれると言っていたけれど、とにこりと笑顔を向けば彼もモゴモゴと動かしていた口を止め、喉仏が動くほどしっかりと飲み込んだ。
「いやぁ、なかなか進まないすよね~」
「ふふっ、初心すぎて? 大変でしょう? あの子」
「そこもまた可愛いんですけどね! でも今んとこハグまでしかしてなくて」
思っていた通りのまったくの進展のなさ。相手がティアラなのだから仕方がない。クスクスと笑って隠す気もまったくない彼に仕方がないわと相槌を打つ。
「貴族ってそういうところはしっかりとしていますの。男女の接触なんて婚約者であるか、もしくは正式に結婚が決まってからですわ。それまで清いお付き合いですの」
「え?! マジっすか?! え、ってことはハグはアウト?!」
「そう考えるとアウト寄りになるのかしら」
「え~?! 貴族って……不便ですね」
逆に平民はどうしているのあと聞いてみれば、恋愛結婚が当たり前で結婚する前にデートしたりするのも普通とのこと。やはりそういうことに関しても貴族と平民では大きく異なる。貴族の場合ほとんどが政略結婚のため、顔も知らない婚約者といきなり会ってあとは二人きりでということも少なくはない。そんな情も何も湧かない状態で相手に対して接触する気なども起こらない。
わたくしたちにとってそれが普通として育ったため、きっと今のティアラは想像もつかないことばかりでキャパオーバー寸前かもしれない。まぁそれで慌てふためく彼女が楽しくてつい見守るだけになってしまうのだけれど。
「でもそこまで心配する必要ありませんわ。皆さん影に隠れてこっそりとしていますもの」
「なんかバイオレットさんがそう言うと、やらしいっすね」
「おほほ。わたくしは見たことがあるだけですわ。ということでティアラに対しても誰にも見つからなければ……」
「オッケー、ってことっすか。やった」
「ただ……初心ですものねぇ」
「初心っすもんねぇ」
パーティーのときの貴族のように、物陰に隠れてこっそりやるとしても初心なティアラはきっとその状態だけでも照れてしまう。それもそれで見てみたい気もするけれど、照れすぎて倒れるか相手にビンタをしたら大変。多少彼にビンタしたところで痛くも痒くもないだろうけれど。寧ろ彼のこの様子からして喜びそうだけれど。
彼と会話することは何もないと思っていたけれど、唯一の共通点があったのだった。お互いティアラのことを大切に想っていてそして話題も尽きない。
思い返せば親同士が決めた婚約、彼女にとってそれは愛を育むことではなく義務だった。少しは愛情を持とうと思っていたようだったけれどそれも無理で、だからせめて生涯のパートナーとして彼女は献身的にその婚約者を支えようとした。結果、婚約者は好き勝手にやって彼女をまったく大切にしようとはせず、寧ろ無下しているだけだったけれど。
笑うと愛らしい顔をしているのにその婚約者のせいでどんどん表情が抜け落ちてしまったティアラ。大丈夫なのかと聞いてみれば大丈夫という言葉しか返ってこなくて、言葉の聞き方を間違えたとそのときは後悔した。わたくしにできることは隣にいてあげることだけ。歯がゆい思いをしているときに起きた婚約破棄、そして公然の場での愛の告白。
それからティアラの笑顔は増えた。それだけではなく焦る顔や照れる顔、今まで見たことのない表情も増えてわたくしが見ていたのは『令嬢としてのティアラ』なのだと知った。
ティアラにも言ったことはないけれど、わたくし本当はとても嬉しいのですの。だって彼といるときのティアラはまるで普通の女の子なんですもの。
「ごめんなさい、待たせたかしら」
「いいえ。わたくしたちこそ先に頂いて申し訳ないですわ」
「ティアラさん! こちらにどうぞ」
「あ、ありがとう……」
パタパタと慌てるような足音が聞こえてきたかと思ったら、彼女は本当に急いでいたようで少し息を上げた状態で現れた。詫びを入れるわたくしに彼女に早速座るように促す彼。空かされた場所はいつもと同じように、わたくしと彼の間だった。
「……楽しそうに話していたけれど、何を話していたの?」
あら、と口には出さずに言葉にする。可愛らしい反応、遠くから見たわたくしたちの様子が気になって仕方がなかったのね。少し頬を膨らませているティアラに彼は満面の笑みを浮かべた。
「ティアラさんとどこまでいったかの話をしてました!」
「なっ?! 何を話しているのよ!」
「抱擁なんて素晴らしいと思いますわ、ティアラ」
「ア、アリシアも! ほほほ、抱擁?!」
「バイオレットさんには色々とご協力を得てるんで、やっぱりお礼はちゃんとしないと」
腕を組んでうんうんと一人頷く彼にティアラは「ご協力って何よ!」と顔を真っ赤にして叫んで、そんな二人の様子にまた笑みを浮かべる。
二人で食べる食事も決して悪いものではなかったけれど、こうして彼が加わっての三人での食事のほうがずっと賑やかで楽しい。彼がティアラに想いを寄せてくれてよかったと思うと同時に、ティアラに想いを寄せたのが彼でよかったとも思う。いちいち言葉の裏を探らなければならない貴族と違って彼の言葉はいつも真っ直ぐだ。隠し事もせずにありのままの姿でいてくれる。だからこそこちらも無駄な心配をせずに済む。
「あらやだ、わたくし用事を思い出してしまいましたわ。お先に失礼しますわね」
「バイオレットさんその量で足りたんですか?」
「あら、わたくしにとっては普通ですわよ? ではティアラ、また教室で会いましょう」
二人きりでいられる時間なんてそうないもの。せめて少しでもその時間を作って差し上げてもよろしいですわよねと立ち上がりスカートを軽く撫でて整える。ティアラは来たばかりだけれど、でもわたくしは彼と違って学園にいる間はほぼ一緒にいられる。その中の少しだけになってしまうけれど、彼に譲ってあげるのも悪くはない。
おほほ、と手で口元を隠して笑うわたくしにティアラは焦ったように手を伸ばし、そしてその奥で彼が親指を立てて頷いていた。本当に正直な人。また何か進展があったら教えてもらおうかしら、と目で知らせると彼は笑顔を浮かべてコクリと一度頷いた。何か不穏な動きを感じ取ったのかティアラが一度彼に振り返ったけれど、そこにあるのはいつもの表情。そうして言葉のない会話を済ませわたくしはその場から離れた。
でも困ったわ、本当は用事などないですもの。どこで時間を潰そうかしらと校舎の中を歩く。今更食堂に行ってもあそこは人が多いから逆に疲れてしまうし。ほんの少しだけでも図書室にお邪魔しようかしら、と踵を返して図書室へと向かおうとしていたら見覚えのある姿が横から現れた。貴族としての癖か、無意識に頭を下げる。
「これはマティス王子。ご機嫌麗しゅう」
「やぁ、アリシア嬢」
第二王子であるマティス王子ももちろん帝王学部所属。この校舎内を歩いていても何も不思議ではない。教材を両手に抱えた彼は人の良さげな笑みで軽く挨拶をする。
「君とこうやって話すのも久しぶりだね」
「わたくしのような人間がマティス王子に話しかける機会などそうございませんもの」
「そんなこと言わないで。気軽に話しかけてくれたほうが僕も嬉しいよ」
これが第一王子と違うところですわね、とひとりごちる。第一王子は第二王子と比べてプライドが高く高慢で、親しくない者と話すのを極度に嫌がった。それに比べて第二王子はいい意味でも悪い意味でも親しげ。謙虚で穏やかだけれどその分どこか頼りない。
「すごい量でございますわね」
彼の持っている教材に目を向けてそう口にする。どれもこれも分厚く彼がしっかりと抱えていないと落ちてしまいそう。わたくしに言葉に彼も苦笑しながら相槌を打った。
「覚えることが増えてしまったんだ。仕方がないことと言えば、そうなんだけど」
誰のせいで、とはお互い口にすることはない。本来継ぐべきだった人物から王位継承権が剥奪され、そしてそれは自然と次に移行された。彼も決して第一王子よりも学ぶことが少なかったわけではないけれど、教材の量は彼の生真面目さの表れだろう。
「剣術学部にも学びに行っているようですし、体調は大丈夫ですの? 無理をなされているのでは?」
「うん、大丈夫だよ。寧ろ前よりずっと体力がついた分体調が優れない日が減ったんだ」
それに、と彼は続ける。
「剣術学部の生徒たちはいい人ばかりだ。彼らにとっては大したことではないのに、僕が少しでも上達すればよく頑張ったと言ってくれる。逆に不甲斐なかったら応援してくれるんだ。心身ともに清められている気分だよ」
「それは良うございます」
マティス王子と剣術学部の生徒との相性がいいのだろう。彼らは建前と本音を分けることがほとんどない。マティス王子も隠すことはあってもわざわざ建前を口にすることはない。これは第二王子についている貴族の勢力が増すのも時間の問題だ。未だに第一王子についている貴族は色々と策略しようとしているけれど、それも無駄に終わりそう。
「剣術学部に顔を出すことは僕にとってはいいこと尽くめだ。将来の護衛騎士候補も探せる。実は今、僕のところに来てほしい人物が一人いるんだ」
あら、何やら不穏な空気。マティス王子がそこまで言うのだから余程の人物なのだろうけれど。
そういえば先日、彼らと楽しげに話しているところをオペラグラス越しで見たばかり。遠目でわかるほど親しげな様子だった。まさかですわよね、と考えているわたくしを他所に王子は「今までの誘いも蹴っているようだし」とこぼす。その言葉で決定打になってしまった。本当、貴族から呆れるほどモテること。
「マティス王子はその人物を望んでおいでで?」
「できることならね。僕も信頼できる人物を傍に置いておきたいんだ。これからのことを思うと、尚更」
彼は心優しくでもどこか頼りない雰囲気もある、そう思っていたけれど。どうやらわたくしは思い違いをしていたよう――心優しい彼にも、しっかりと王族の血は流れているのだ。
力強い眼差しをしていた彼はふと腕時計に視線を走らせ、「あっ」と小さくこぼした。どうやらその大量の教材を抱えて教員のところに向かおうとしていたようだ。もっと話したかったけどごめんよ、と彼は苦笑しながら一つ詫びるとパタパタと廊下を走っていった。
「……あらやだ、忘れていましたわ」
そんな彼に伝えることを忘れていた。きっと彼は知らない。彼の言う欲しがっている生徒であるクロイトが己の兄の元婚約者であるティアラとお付き合いをしていることを。
そして、貴族の誘いをすべて蹴っているクロイトがティアラのためだけに日々精進していることを。
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