空を見上げて、雪を見る

一本杉省吾

雪原野

 〔プツリ!〕

 頭の中で、そんな音が鳴り響いた瞬間、暗闇のトンネルの中、身体が浮かび上がっている感覚に、襲われる。どれぐらいの時間が、流れていただろう。私は気づくと、視界には、どんより曇った空が広がる。ふんわりとした雪の結晶が、ゆったりとした速度で、身体をすり抜けていく。視線を横に向けると、遠くに見える山々の曲線には、真っ白な雪が積もっている。

 ちょっとした違和感を覚える。身体は、空を向いている。まるで、無重力の中に、自分がいる。ふわふわとした雲に乗っかっている様な、心地良い状態。

 〔はっ!〕何かを思い出したのか、身体を反転させて、視線を下の方に向ける。真っ白な雪の中に、真っ赤なコートを着た女性が、仰向けになり、倒れているのが、瞳に映る。

 (あっ、私だ)口を動かすが、声になっていない。一面に、真っ白な雪原野が広がる中、真っ赤な色が目映えている。そんな中、なぜ、ここに来たのか、何をしに来たのかを、思い出した。自殺、自決、色んな言葉がある。単に、自分の命を絶つ為に、ここに来た。しんしんと、降り続ける舞雪の中、真っ赤なコートを着ている私の姿を見つめて、安堵感に包まれる。目的を果たした事から来るものであった。

 (あっ、えっ、私、なんで、死んだんだろう)

 また、口を動かすが、声になっていない。そんな疑問が頭を過ぎると、無意識に、口を動かしていた。目的を果たし、命を絶ったのだから、自分で命を絶った理由は、この際、どうでもいい様な気もする。

 恋人との別れ、仕事の事、人間関係、両親の事…なんで、死のうとしたのか。命を絶った理由が思い出せない。そんな事を考え出すと、どうしても知りたくなってくる。

 (あっ!)遺書を書いていた事を思い出す。無意識の内に、宙に浮いている身体が動いていた。水中を泳ぐように、滑稽ではあるが、平泳ぎをしながら、真っ赤なコートを着た私の所に向かう。

舞雪が、チラチラと降り続く中、コートの内ポケットに入れた遺書を取ろうと、雪に埋もれかけている私の身体を起こそうとするが、手の平がすり抜けていく。ハッと思う。死んでいるのだから、当たり前の事、個体の私の身体は、目の前にあるのである。改めて、自分が死んだ事を実感した。

〔ドキッ!〕死んだ事を実感するが、どうしても、自殺をしようとした理由が知りたくなる、わかっているのに、何度も、何度も、自分の手で、個体の私の身体を起こそうとしている。そんな時、いきなり、左胸に激痛が走る。死んでいる私に、痛みがあると云う事を不思議に思うが、激痛と同時に、温かみが全身に溢れ出す。懐かしいもの、子供の頃、母親に抱き締められた時の事が、頭に浮かぶ。泣き崩れる私の身体を、優しく、身体全体で覆ってくれた、母親の胸の中で、胸の鼓動と一緒に伝わってきた安心感。そんな事を考えた時、私の中で、あるものが芽生えた。あるものが弾けた。

(私、このままでいいの)声にならない言葉を、口にする。全身に溢れ出す温かみが、今までの思考回路を、混雑させる。

今日までの自分が、走馬灯の様に、次から次へと、浮かんできた。死に対する恐怖が、死にたくないと云う想いが、思考を支配した時、私は叫んでいた。

『嫌だ。死にたくない!』

真っ白な雪の中で、目を見開く。頭の中で、死にたくない!と云う言葉が響いている。目を見開いた瞬間、激しい嘔吐に襲われた。

『うォッ、うォッ、げぇ!』

逆流する、胃から食道への痛み。鼻にツゥ~ンとくる胃液の独特の匂い。一気に、気分が最悪になってくる。口から吐き出される黄ばんだ液が、真っ白な雪を溶かしている。酢うい匂いが、湯気となって、私の顔に立ちこめる。私は、そんな状況に耐え切れなくなり、身体を反転させて、空を仰ぐ。真っ白な雪の原野に、大の字になって、寝そべる私。口から吐かれる真っ白な息。胸の鼓動の振動が、身体全体に響いている。心臓から、押し出される血液が、足のつま先から、髪の毛の先まで、流れているのがわかる。

『私、生きてる。』

思わず、そんな言葉を発していた。今の今まで、こんなに、生きていると云う事を実感した事はない。まるで、マグマの中に居る様な、力強い振動が、身体全体に震わせている。

しんしんと降り続く雪の結晶が、頬に当たり溶けていく。私は、宙に浮いていた事を思い出す。あれは、実際にあったことなのだろうか。それとも、夢と云う幻を見ていたのだろうか。そんな事を考えながら、降り続ける雪の結晶を眺めている。まだ、夢の世界に居るのだろうか、ゆったりと、雪の雫がスローモーションの様に、瞳に映り出されている。

まだ、嘔吐が続く。身体を反転させてもがいていると、視界に、一本の広葉樹が入ってきた。葉っぱが落ち切った幹、枝だけのシルエットが、寂しく映る。

私は、うつ伏せのまま、寂しい広葉樹に向かって、動かない身体を張って、進み始める。自分の身体が、こんなに重たいものだと、考えた事などなかった私は、身体を起こしたい、背をあの幹に預けて楽になりたい、そう願いながら、真っ赤なコートを着た身体を引き摺る。

『ぜぇ、ゼェ、ゼェ!』

どのぐらいの時間がかかり、この幹まで辿り着いたのか、引きずった所の雪を、掻き分け、体温で溶かしていく。鼓動が激しく、胸を波打っている。今の私は、生きる為に、生きろうとしている。やっとの事で、辿り着いた広葉樹の幹に、背を向けて、全体重を預ける。息を切らし、軽く、額に汗を滲ましていた。

〔ドックン、ドックン!〕

雪の上に大の字になり、寝そべっていた時より、鼓動の心音が、身体全体に響いている。血液が、身体の隅々まで、行き渡っているのがわかる。改めて、生きている実感を覚える。

頭の中では、死にたいと云う気持ちを持っているのに、身体は生きろうと活発に動いている。自分の身体であるのに、生きると云う事の為だけに活動している。自分の意志とは違う所で、生き抜こうとしている。

そんな事を考え、不意に視線を上げてみると、鉛色の雲の隙間から、光のカーテンが瞳に映る。白銀の真っ白な世界に、一筋の光。視線を少し落とし、雪の原野に視線をやる。私が、自分の身体を引き摺った後、その先には、深く穴を作る私の足跡が、長い点線を作っていた。私の生きていた道を見ているように思えた。

しばらく、白銀のキャンパスに描かれた、曲線を眺めていた。そして、視線を上げる。光のカーテンが、広がっていた。私は、ある事を思い出した。真っ赤なコートの内ポケットに入っている遺書の事。内ポケットに手を伸ばし、自分が書いた遺書を掴む。取り出そうとした時、手の動きが止まってしまう。

『…いいか。』

そんな言葉を呟き、取りださないまま、空を見上げた。鉛色の雲が、溶ける様に無くなっていた。雪の原野と同じように、空にも、真っ白な世界が広がりつつある。口から吐かれる、真っ白な息が舞い上がっていく。私は、表情を緩まし、笑みを浮かべる。

帰ろうと、思う。白銀のキャンパスに描かれた曲線を辿って、帰ろうと思う。そして、生きろうと、思う。生き抜こうと、思う。その前に、もう少し、この景色を見ていこう。これからの為に、これからの私のために、これから、生き抜くために…


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