第10穴 傾いた堤

 奈美が亮一の所で再び働き始めてから、彩也子の機嫌は悪くなる一方だった。彩也子は、子育てをほぼ一人で担い、仕事も手伝い、奈美のわがままに我慢させられているのだから、機嫌良くしろと言う方が無理だった。

 

 奈美が仕事に来る日は、幸恵が孫の保育園の迎えに行っているようだった。元気があり余っている男の子に手を焼いて、幸恵は迎えに行った帰りに奈美の所に顔を出して、義母の所でお茶を飲んで待つようになった。

 彩也子たちの子どもも同じ年ごろなので、来ていれば一緒に遊べるからだ。

「もう夕ご飯の支度する時間だから、そろそろね」と声をかけるのが、帰る時間の合図のようになっていた。仲が良くなると、もう少しもう少しと遊びが長引くようになった。そのうち、彩也子たちの子どもたちが「ご飯、一緒に食べちゃだめ?」などと言うようになってしまった。

 最初のうちは、2週間に1度くらいそんなことがあり、そうなると、幸恵も奈美も食事をしていくことになり、その支度をするのは彩也子だった。

「ごちそうさま~。あら、こんな時間。早く帰ってお風呂入って寝かさないと」

 食事が終われば、片付けもせずに奈美たちはとっとと帰っていった。


(子ども早く寝かせたいなら、人んちでご飯なんかもらっていかないで早く家に帰ればいいのに)

 彩也子は、子どもたちにも「次の日、学校や保育園がある日は、帰るって言ったらすぐにお片付けしておしまいにしてね」とさりげなく注意した。

 すると、それから金曜日は必ず「明日、お休みだからいいよね?」と言うようになった。だんだん金曜日だけでなく、寄った日は必ず奈美の子どもが「ご飯食べていくー!」と言って2階に勝手に上がっていくようになり、奈美も幸恵も「帰らないと」と口では言うが、帰る素振りは一切なく、ご飯ができるまで居座っていた。

 そのうち、彩也子は、幸恵の車が入って来るのが見えただけで、顔がカッと熱くなり胸が苦しくなった。


 彩也子は、どんどん疲弊していった。

 子どもたちを送り出すまではなんとか気力で動くのだが、時々、朝目覚めても、なかなか体が起こせない日があったりした。食欲も落ち、亮一ともほとんど会話をしなくなった。

 子どもに不便をかけさせちゃいけない、という精神力だけで体を起こしていたが、ある日、ついに起き上がれなくなってしまった。それでも、先に仕事場に行っていた亮一にも、下にいる義母に気付いてもらうこともなく、その日は、寝坊したと思われただけで終わった。


 彩也子は、自分で自分の心が壊れ始めていると思い始めた。このまま自分が弱っていったら子どもたちに支障が出てしまう。自分が壊れる前に、自分を何とかしなくては。インターネットで、『心療内科』を検索した。近くの病院では、誰かに通っているのを見られる可能性がある。「片山さんとこの嫁さんが、心療内科に通ってるらしいよ」なんて話は、面白おかしくすぐにご近所に広げられるだろう。噂話で窮地に追い込まれたら子どもたちまできっと嫌な思いをさせてしまう。それだけは避けなければ。だから彩也子は、家から20キロほど離れた、車で40分くらいかかる所で病院を探した。心を病みながらも、そこまで気を遣わなくてはならなかった。

 週に一度、家族に内緒で病院に通った。自律神経失調症と診断され、安定剤をもらった。通院していることを知る人もいないから、心配してくれる人もいない。いくら薬を飲んでも、環境が変わらなければ彩也子の心は元に戻らないし、彩也子が黙っている限り、環境が変わるはずもなかった。結局、自分が心のコントロールをするしかないと気付き、病院に通うのもやめた。

 落ち込んでいる彩也子に気付いてくれるのは、パートの五十嵐さんだけだった。

「あんまり我慢しないで、言った方がいいですよ。つけあがられるだけですよ」

 時々、家の愚痴を聞いてくれるだけで、彩也子は救われた。


 ある夜、奈美たちが帰って行った後、やっと子どもたちを寝かしつけて、疲れてソファで横になっていた彩也子に、

「俺が子供の頃って、じいさんばあさんもいて、毎日叔父さんや叔母さんが来たり従兄弟が泊っていったりして、こんな感じで賑やかだったなぁ」

と、亮一が懐かしそうに言った。

「だから何?」

「ただ、なんか賑やかで懐かしい感じがしたって話だけど」

 のんきな亮一の態度に、我慢していた彩也子のが外れた。


「・・・楽しそうでいいわね。こっちは子どもの世話して、仕事終わってから親戚の分のご飯まで作って片付けて、朝から晩まで気の休む暇なんてい1ミリもないのに。いい加減、帰って自分ちで食べろって言ってよ。うちは食堂じゃないのよ!」

「叔父さんも亡くなって、奈美も離婚して、3人だから寂しいんじゃないの」

「離婚したのは奈美ちゃんの勝手でしょ。寂しいなら離婚しなきゃよかったのよ。うちで面倒見るとか、おかしいでしょ。しかも、奈美奈美って、私の心配なんかしてくれたこともないのに!」

「だって、彩也子は大変だとか言ったことないから、うまくやってくれてるのかと思ってて」

「いちいち大変大変なんて、子どもじゃないんだから言わないわよ!つらいって口に出さなきゃ、大丈夫と思ってる亮一もどうかしてるし!」

 奈美と幸恵のせいで心が壊れかけていること、自分で自分がおかしいと心療内科に通ったこと、それがどれほど惨めだったか、彩也子は、泣きながらぶちまけた。


 亮一は「そこまでつらい思いしてるって気が付かなかった」と言ったが、奈美や幸恵にうちに寄るなとまでは言えないとも言った。


 彩也子は、一週間起き上がることができなかった。

「ほらごらんなさい」と言われるのが嫌で、実家に帰ることもできなかった。

 結局、義母がなるべくお茶を飲んだら帰すようにしてくれると言ってくれたが、彩也子が我慢していることに、なんの改善もされることはなかった。


 二人が築いてきた堤防が傾き始めて、ようやく亮一は、小さな穴が開いていることに気付いたが、すぐに穴は埋まると思っていた。


 蟻は、深く大きな穴を掘り続けているというのに。


 



 

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