第11穴 母の愛は妻より前
亮一や義母が少しだけ気を遣ってくれるようになったので、彩也子の環境は変わらなかったが、また元通りの生活に戻っていた。
そんな矢先に、亮一が倒れた。地元の商工会の集まりで飲んで帰って来てから、風呂場で倒れたのだ。ガシャンガシャンと音がして、亮一が何か大きな声を出しているようだった。酔っぱらって、風呂場で歌でも歌っているのかと思ったが、あまりにうえうさかったので義母が起こしてしまうと思い、急いで風呂場に降りて行った。
「うるさいんだけど。お義母さんも子どもたちも起きちゃうでしょ!」
彩也子が風呂のドアを開けると、亮一は洗い場で膝をつき、風呂の縁を掴んでなんとか体を支えているような状態だった。ろれつが回っていなかった。
「そんなになるまで飲むからでしょ」
なんとか風呂場から亮一を抱えて出ると、亮一の右半身がだらり落ちていた。
「水・・・水・・・」
喉の渇きを訴える亮一の体にバスタオルをかけ、水を飲ませた。左の手を着いて体を支えていたが、右手も右足も動かなかった。
「救急車、呼んで」
「酔っぱらってるんじゃなくて?」
「右に力が入らない・・・」
深夜1時を過ぎていたが、明らかに様子が違っていたので、彩也子は119番へ連絡をした。
10分くらいで救急車が着いた。
救命士の人に状況を話すと、右半身だけ動かないのとろれつが回っていない様子を見て「脳神経外科のあるところを探します」と言った。
さすがの物音に、義母が起きてきた。
「どうしたんだい?!」息子の様子に動転した義母は、忙しそうな救命士に亮一の状態を聞いたりしていたので、彩也子が説明した。すると、義母そそくさと着替え始めた。あっけにとられている彩也子に、
「彩也子さんは、子どもたちが起きた時にいないと困るから、家にいればいいよ。私が亮一見てるから」と言うと、担架に乗せられた亮一に付いて救急車に乗り込んだ。
「え、私が行きますよ」
「亮一!大丈夫かい?」と亮一が心配でたまらず、彩也子の声はもう聞こえていなかった。
「たまたま脳外の先生が当直でいる第一病院が受け入れてくれたので、出発します」
嫁と姑の微妙な空気などお構いなく、救急車はサイレンをならして走って行った。
呆然としていた彩也子だったが、一旦部屋に戻って深呼吸をした。急に義母が乗り込んで行ってしまったので、用意していた保険証なども渡しそびれてしまった。子ども部屋を覗くと、騒動にも気付かずに二人ともよく眠っていた。子どもたちは二人とも小学生になっていたので、万が一起きてしまった時のために、
『ちょっとお父さんをびょういんにつれていきます。朝にはもどるからしんぱいしないでね』
と、書置きをして、彩也子はすぐに車で第一病院に向かった。
病院に着くと、救急外来の受付で義母が看護士と話しているのが見えた。彩也子が小走りで受付に行くと、ホッとしたように看護士が彩也子に言った。
「お母さんの心配は分かるんですけどね。保険証とかも持ってきてないと言われて、受付とか手続きは必要なのでと説明したんですけど」
「すみません、保険証がこれで」彩也子は、必要な書類などに記入し終わると、
「とりあえず先生からのお話があるので」
と言われた。
亮一は検査を受けているとのことだった。また義母が、一緒に先生の所に行こうとしたが「亮一さんが戻るかもしれないから」と言って、彩也子だけで話を聞きに行った。
「脳梗塞の疑いがあります」
脳外科医の佐藤先生は、躊躇なく言った。
「・・・脳梗塞?」
亮一はまだ40代だ。脳梗塞なんて老人の病気だと思っていなかった彩也子はピンとこなかった。
「脳の血管に血栓ができてしまって、麻痺がおきています。発症から時間が経っていないのでt-PAという血栓を溶かす薬が使えます。ただ、血栓を流した時に血管が切れる可能性もあります。うまく溶かせても、90%以上は何らかの後遺症が残ると思います。退院する時に、杖をついて歩いて帰れるのか、車いすになってしまうか、それはやってみないと分かりません。発症から3時間以内しかt-PAという薬は使えないので、いますぐ判断して下さい」
真っ白になりかけた頭を振って、彩也子は即答した。
「使ってください」
承諾書にサインをして、義母の所に戻った。
義母と一言も話すことなく、待合室で待っていた。
彩也子は、車いすになったら床板を強化しないといけないのか、ホームエレベーターを作るとしたらいくらかかるのだろうとか、子どもたちを育てるのに自分は夜も働きに行かなければならなくなったらどんな仕事を探そうか、変なことばかり具体的に考えていた。
2時間後、点滴が終わった終わった亮一が運ばれてきた。意識はある。
「どう?大丈夫?」
色々な管がつけられている亮一は、窮屈そうに顔を歪めていた。
「もうしばらく安静に寝ていてくださいね」と言う看護士に、義母は、
「なんか、掛けるものないの?寒そうで」と言った。
「管が外れちゃうと危ないから、もう少しこのままでね~」と言われ、狭い簡易ベッドでたくさんの管につながれている亮一の横に行くと、目を潤ませながら亮一の腕をさすった。
彩也子は(それって普通奥さんがすることなんじゃないの・・・)と思いながら、一歩下がって見ているしかなかった。
義母は、亮一の腕をさすり続けた。身動きが取れない亮一は、彩也子に何か言いたげに視線を送ってきたが、彩也子はこれ以上の無にはなれないくらいの無表情でその様子を見ていた。
彩也子の心中を察してくれた看護士が、どうぞ、と彩也子に椅子を勧めてくれた。彩也子は、すみません、と椅子を受け取ると、部屋の隅に椅子を置いて座った。
(妻を差し置いて息子に寄りそう姑が出しゃばって、かわいそうなお嫁さんって思われてるんだろうな)
亮一の病状より今の自分の状況に虚しくなり、彩也子は深いため息をついた。
空が白んできた頃、亮一は集中治療室のベッドに移った。すると、義母は、
「亮一が起きるまで私はここで待ってるから、彩也子さんは子どもたちも起きるから面倒見に帰ってあげなさい」と言って、病院に残ろうとした。
看護士に「一旦、家族の方はお帰り下さい。午前中の診察が終わったら、少しお話できるかもしれないので、午後の面会時間に来てください」と言われ、渋々彩也子と一緒に家に戻った。
午前中、亮一の仕事関係の人に連絡を入れたり、入院中に必要なものを揃えたり、着替えを用意したりしてバタバタしていた彩也子は、面会時間になったので病院に向かった。
病室に入ると、すでに義母が来ていた。
(面会時間もお構いなしか・・・)
亮一は、血栓をうまく流すことができ、奇跡的に翌日には右手も右足も動くようになっていた。先生も看護師も、
「こんなことは滅多にないんだから、早く見つけてくれた奥さんに感謝しないと」と言ってくれたが、義母はそんなことより回復したことだけを喜んでいた。
亮一の入院中、義母は毎日病院に通った。彩也子も着替えを取りに行ったりしていたが、彩也子が行くといつも義母が先にいて、時には部屋に入った瞬間、義母がかいがいしく亮一の着替えをしているところに出くわしたりして、ばかばかしくなった彩也子は、3日に一度、洗濯物を取りに行くだけにして、病室に亮一がいなければ会わずに帰ることもあった。
2週間後、先生の言う通り、奇跡的に目立った後遺症がほとんどなく退院することができた。
彩也子は、ホッとして初めて涙が溢れた。義母との確執はあったが、やはり気持ちは張りつめていたのだ。亮一も、初めて彩也子に心からの感謝をした。
蟻の穴が、少しだけ、埋まったように見えた。
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