第3穴 つまんねえ女
訪問販売の会社を辞めた亮一は、宣言通り、カラーコーディネーターの資格を取るための通信教育を始めた。
お互いの職場の通える範囲ということでT市に住むことにしたのに、彩也子は職場まで1時間半もかけて通い続けていて、亮一は通勤がなくなり、勉強しているとは言えずっと家にいるのに家事など一切しなかったので、彩也子のストレスは溜まる一方だった。
「たまには気晴らしに行こうよ」
当時はまだ職場での上司の嫌味や圧力に、ただヘラヘラと我慢して接するのが当たり前だった。「パワハラ」だ「セクハラ」に気を遣う上司もいなければ、それを盾にする部下もいなかった時代だった。彩也子には、無職の夫と嫌味な上司への不満をぶつけるところがなかった。なにげなく見ていた音楽番組で、好きでもないアイドルのうまくもない歌の中に、ワンフレーズでも心に刺さる歌詞があると無意識に泣いてしまうほど、彩也子の心は弱くなっていた。
そんな彩也子を見て、さすがに自分ばかりのびのびとしている亮一も何かしなくてはと思い、週末に実家の近くの観光地に誘った。
いつもなら、どんな人気店でも何十分も並んでまでなんて考えられない、と言っていた亮一が、地元の有名なラーメン屋に並んで待って入ったり、ショッピングモールで久しぶりに映画を観たり、服を買ったりした。
彩也子は、少し気分転換にはなったけれど、夫が無職なのにこんなにお金を使ってしまったという罪悪感の方が勝ってしまい、帰りの車の中で、また落ち込んで喋れなくなっていた。
運転していた亮一が言った。
「楽しくなかったの?」
「楽しくなくはなかったけど、今の状況で遊んでていいのかなと思ったら、ちょっとね。節約しなきゃいけないのにさ」
彩也子がため息まじりにそう言うと、亮一が、
「結局、俺の批判かよ」とふてくされ始めた。
「だって、実際そうじゃない。仕事辞めたいのに辞めなかったらずっと機嫌悪いけどいいんだなみたいなこと言って、ずるいよ。私だって仕事つらいのに1時間半もかけて通ってて疲れてるのに何にも家事してくれないし、気晴らしとか言って今日みたいなことしても、お金大丈夫か心配で、全然楽しめないよ!」
彩也子が、亮一にはぶつけたくなかった不満をついに口にしてしまった。でも、彩也子は、自分のせいでそんな思いをさせて悪かったと少しでも思ってくれれば良かっただけなのに、
「つまんねえ女になったな」
亮一の発した言葉に、彩也子はもう耐えられなかった。
「誰がつまんない女にしたのよ!」
彩也子は、どこの職場でも気を遣い、本当は少し無理をしているのだが、ムードメーカー的な役割を請け負うことが多かった。だから、おとなしそうに見えるけど面白い人なんだね、と言われたりすることが多く、彩也子の周りはいつも賑やかだった。
同じ職場にいた亮一も、そんな彩也子のちょっとボケたり言いそうにない冗談を言ったりする意外な一面に惹かれて、距離が縮まっていったのだった。
それなのに・・・
彩也子も怒りが抑えられなかった。
「降りるから、車停めて!」
「こんなとこで降りてどうすんだよ」
「歩いて帰るわよ」
彩也子はシートベルトを外し、ドアを開けて車から降りようとした。
「無理に決まってんだろ。ほら、危ないから!」
亮一が彩也子の腕をつかんで、席に戻した。
「何が無理なのよ」
「歩ける距離じゃないだろ」
「じゃあ、一番近くの駅で降ろして。電車で帰る」
結局、亮一が駅には行ってくれなかったので、家まで車で帰ることになったのだが、彩也子は終始無言を貫いた。
その夜、彩也子は一睡もできなかった。
(つまんねえ女になったな?つまんねえ女?)
亮一の一言が、ずっとリフレインしていた。
(亮一のせいで楽しめなくなってるのに、なんで私がつまんないとか言われなきゃいけないの・・・)
ふいに、短大の時入っていたインカレサークルの鳥取出身の先輩に「お前、おもろい奴やなあ」と言われてかわいがってもらっていた頃のことを思い出して、涙が溢れてしまった。
私は、つまんない女じゃない!!
蟻は、3つ目の穴を掘り始めた。
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