第2穴 無職になる
亮一と彩也子は、北関東のT市のアパートで生活を始めた。彩也子の職場からは電車で1時間半くらいかかる所だったが、お互いの職場に通える中間地点でT市を選んだ。家賃は少し高めだったが、共働きならなんとかなるくらいだったので、新築のそのアパートに決めた。
結婚して3か月ほど経った頃から、亮一の機嫌が悪い日が続いた。
「あんなやり方で売り上げが伸びるわけないのに。ほんと、バカばっか。あんなの押し売りだよ」
仕事から帰ってくると、仕事の愚痴ばかり言っていた。彩也子も、職場の上司の嫌味にうんざりしていたのに加え、長い通勤時間と慣れない家事が増え疲れが溜まってきていたのに、さらに亮一の愚痴を聞かされるようになって、気持ちが落ち込むようになっていた。それでも彩也子は、
「もう少し頑張ってみれば」と、好物の豚汁や煮込みハンバーグを作って、亮一を励ました。
ある週末の夜、休みの日くらい家事は手抜きしようと宅配のピザを頼み、安いワインを飲みながらジャンクな夕食を楽しんでいた時だった。
「俺、会社辞めることにしたわ」
急に、亮一が言った。
「え?」
彩也子の脳は、すぐには亮一の言葉の意味を理解しなかった。
「だから、今の仕事辞める」
「・・・え?」
彩也子の頭の中でいろんな気持ちと疑問と状況が一気に渦巻き、なんの言葉も出てっこなかった。
(収入はどうなるの?)
(結婚してすぐ、なんで仕事辞められるの?)
(なんで、今、我慢できないの?)
(私の収入じゃ生活できない)
(ここの家賃、どうやって払うの?)
(親にあんなに反対されたの、亮一の仕事のせいもあったのに)
(次の仕事、決まってるの?)
彩也子が言葉にできずにしばらく固まっていたが、やっと声を絞り出した。
「・・・どうするの?」
「次の仕事ってこと?」
「え、まぁ。仕事もだし、生活も将来も・・・」
すると、亮一は何故か希望に満ちた顔で話し出した。
「うちは祖父さんの代から商売やってて、死んじゃったけど親父も商売してて、子供の頃からそういうの見てたから、やっぱり俺もいつかは自分で仕事したいって思ってたんだよね」
彩也子は(そんな大それた夢持ってるなんて初耳なんだけど)と思いながら、黙って聞いていた。
「で、今の訪問販売って布団とかインテリアとか家の中の物がほとんどで、家にあがらせてもらって色々見てきて、色って大事だなと思ったんだよ」
「色?」
「落ち着く家は色が統一されてたり、行くだけで疲れる家はなんか色がガチャガチャしてたり。だから、カラーコーディネイターの資格取ろうと思ったんだ。通信で1年ぐらいで取れるんだよ。資格があればちゃんと仕事に繋げるし」
亮一は満足げに椅子にもたれた。
夢のような夢の話を聞かされた彩也子は、すぐに現実に引き戻した。
「通信で1年?。その間の収入はどうなるの?私、旦那が就職してないとかアルバイトしてるとか、考えられないんだけど」
そこそこ生活水準の高い生活を送って来た彩也子の周りには、親が自営業や個人商店という家すら珍しく、結婚相手が就職していない人など一人もいなかった。ましてや亮一が仕事を辞めたなんて、親にばれたらすぐに帰って来いと言われるに決まっているから言えないし、あれだけ亮一の不安定な訪問販売という仕事を嫌がって猛反対されていたのを押し切ったのだから、ばれる訳にはいかなかった。というより、絶対に亮一に仕事を辞めさせてはいけないと思った。
ところが、亮一は、
「じゃあ、今のまま嫌な会社に勤め続けて、毎日俺が機嫌悪くてもいいんだな」
と言ったのだ。
(え、脅迫?)
彩也子は不思議な物を見るような目で亮一を見たが、どうなんだよ、というむくれた表情は変わらなかった。
「でも・・・そんな今すぐに、じゃあいいよ、とは言えないわよ。少し考えさせて」
もやもやしたまま、その日の話し合いは終わった。
数日後、帰ってくるなり亮一が言った。
「この前の話だけど、彩也子が心配するのも無理はないと思ったから、色々おふくろにも相談してきたよ。で、今月いっぱいで今の仕事は辞める。半年間カラーコーディネイターの資格取る勉強することにした。通信教育で、月に一回くらい東京で講習受けて」
「通信教育だって、お金かかるでしょ」
「色の勉強だけじゃなくて、仕事に使える資格まで取ると10万くらいかな」
「私、結婚する時に自分でほぼ出したから、今、貯金なんてないわよ」
「とりあえず、おふくろが半年分の生活費は面倒見てくれるって」
「お義母さんが?」
「とりあえず生活の心配はしなくて大丈夫だから。これが通信教育の案内」
そう言って、亮一は通信教育のパンフレットや教材の見本などを広げて見せた。
「一番上の資格まで取れば、インテリアだけじゃなくて、デザインとか建築とか企業イメージとか、幅広い職種に関われるし・・・」
まだ取ってもいない資格を掲げて、熱く将来の仕事の予想図を語っている亮一の声は、途中から彩也子の耳には聞こえなくなっていた。
私よりお義母さんに相談するのね。
私、お義母さんに養ってもらうんだ・・・。
彩也子は小さく震えた。
恥ずかしくて友達に相談もできなかった。
何一つ納得がいかないまま、亮一の決断を阻止することもできず、彩也子は、翌月「無職の夫を持つ嫁」になった。
蟻は、次の穴を掘り始めていた。
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