第七話 汗と涙

「ほらデリック、これも美味しいから」


「……姉さん。食べるくらい一人でできるから」


「何言ってるの。そう言ってまた、嫌いな物は残すつもりでしょう。好き嫌いは良くないわよ」


 よく女性の心は移り気だという意味で「女心と秋の空」と言われているが、再会から一日経った今日、彼女の過保護攻勢は何も変わらなかった。


 現在、少し開けた公園のような場所でランチタイム中。お弁当を作ってきてくれたのはとても感謝しているが、自分のペースで食べさせてくれない。次から次に俺の口に食材を詰め込まれている。わんこそばも真っ青である。


 昨日、パンツ一丁で臨んだ親子会議では何とか誤解も解け、良好な関係を築く事に成功する。お陰で手袋の発注もスムーズに進んだ。


 少し意外だったのは、新たな実家はお店ではなく民家、こじんまりとした平屋建ての長屋であった。てっきり仕立てをしていると思ったのでお店を構えていない事に違和感を感じていたが、父は下職をしている職人であると教えてくれる。


 下職──平たく言えば下請けである。衣服関係はオーダーメイドが殆どなので、一人で全てを賄いきれない。作業の一部を引き受ける職人が必要となる。一種の分業体制と言っても良いだろう。


 結果、作業場と仕事道具さえあればできる仕事なので、無理をしてお店を構える必要はないという事であった。


「あの……姉さん、これ以上はもう食べられないんだけど……」


「男の子がそんなんじゃ大きくなれないわよ。……でも、そうね。最後にこれだけは食べておきなさい」


 そうして手に取った果物らしき欠片を俺の口の中に有無を言わせず押し込む。


 …………わんこそばも真っ青である。


「!?」


 甘い。これはもしかしてハチミツじゃないのか。そして……この味は梨。それを蒸したのだろうな。初めて食べた。こんな味がするんだ。


「どう? 美味しい? はちみつが残っていたから作ったんだけど、これデリックは好きだったよね?」


 村時代とは違い、剣闘士の一座に入ってからは食生活は一変。充実した日々を送っている上、甘味として果物を食べる機会さえある。だが砂糖やはちみつを使ったデザートは別格。食事には一度も出た事がない。


 転生してからこれまで、甘味の入ったお菓子は師匠の所で食べたきりだったのを思い出す。あの時は確かもう少しで泣く所だった。それくらいの感動が今、口の中を満たす。


「……美味しい。姉さん、好き」


 前言撤回。優しくて美人で弟思いのなんて素晴らしい姉だろう。おっぱいも柔らかいし……。一生付いていきます。


「そ、そう? なら良かった。また、明日も作ってあげる」


 ん? 少し意外な反応だな。個人的にはもっと大袈裟に喜ぶのかと思ったけれども、素っ気ない態度だ。今も膝を立てて座った状態で黙々と自分の分の食事を食べているだけである。


 まあ、気にする事もないか。それよりも今気にしないといけないのは、


「姉さん、手は大丈夫? 怪我だけには気を付けて」


 そう。カルメラ姉さんの手の怪我である。手を骨折している父の代わりに俺の手袋の製作をしてくれているのだが……昨日の今日で何箇所かの怪我をしていた。


 採寸自体は父がしてくれたが、実際の作業は姉さん一人の手に掛かっている。これまで見習い扱いで父の作業を手伝っていたとは言っていたが、手袋の製作自体は今回が初めてらしい。


 まだ時間はあるから、無理はしないで欲しいと思う。


「大丈夫よこれくらい。それよりも私がしっかりとした物を作ってあげるから、楽しみにしておいて」


 真剣な表情で自信たっぷりにこう返す。


「うん。分かった」


 俺のために必死になっているこの姿を見れば、水を差す言葉は必要ない。無事に完成するのを祈るだけであった。



▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽



 あれから三日経った。


 結局、棍棒の件も違うお店にてあっさりと発注完了。仕様を確認すると……うん。棍棒というよりは握りの付いた天秤棒、もしくは木製の警棒だな。しかも全長も結構ある。重さも一キロは軽く超えるだろう。


 後はこれを充分に手に馴染ませておかないと。手袋の完成が待ち遠しい。


「……ック、聞いてる?」


「はっ、はい。聞いてます」


 本日は二人して旧市街を散策中……というかデートだな。


 良いのか悪いのか分からないが、ここ数日は毎日こんな感じである。一、二時間程度なので問題はないが、どうにも緊張感が削がれてしまう。


 個人的にはデビュー戦までは練習に集中して試合が終わった後にデートを楽しみたかったが、所詮は俺だ。そんな事を言っているとチャンスを逃してデート自体が無くなってしまう未来が見える。贅沢言ってないで、今は綺麗なお姉さんとの楽しい一時を過ごす事とした。


 馬車も通らない狭い道。舗装もされておらず地面はデコボコとしている。ゴミが散乱し、残飯や糞を野良犬が食べている光景が目に入る。そんな所ではあるが道行く人達の顔は明るく、そこかしこで威勢の良い声が響く。煌びやかな人達はいないが、無駄に活気があり、どこか垢抜けない。下町という言葉が良く似合う。


 そんな所を歩く俺達。


 ガッチリと握られた手は程よく暖かく、彼女の優しさを表しているようだ。多少行き過ぎの面は感じられるが、弟思いの良い姉である事には変わりない。デリック君、愛されてたんだな。


「ほらデリック、あそこ」


「わっ、たたたっ……」


 突然腕を引っ張られてバランスを崩す。気を抜いて転びそうになるのを踏み止まる。……うん。良いお姉さんだと思うんだけどな。こんな感じでずっと振り回されていたのかも。


「ちょっと、危ないでしょう」


「あっ、ははは……」


 デリック君、大変だったろうな。


「今まで聞くの忘れていたけど、作っている手袋は一体何に使うつもりなの? あんながっしりとした物を作らされるとは思っていなかったわよ」


 唐突に今更ながらの質問が姉の口から飛び出した。


 父さんから話を聞いていると思っていたがそうではなかったようだ。厚手の素材でお願いしたから作業が大変なのだろう。疑問に思うのも分かる。縫製をサボると強度が足りなくなるだろうし、余計に手間が掛かっている筈だ。


「まだ姉さんには話してなかったけど、今……実は剣闘士の一座で奴隷として働いていて……」


「?! どういう事?」


 俺の一言に進めていた足が突然止まる。さっきまでの和やかな雰囲気から体感温度が一気に五度以上下がった気がした。ゆっくりと首だけをこちらに向け、般若のような表情で問い詰めるような語気へと変わった。


「奴隷の件なら仕方ないよ。食べるのに困って保護してもらったようなものだから」


 これも多分嘘は言っていない。口調は軽いがカルメラ姉さんから目を外さずに答えた。ここで目を逸らすとその後が大変になる。蛇に睨まれたカエルの状態に近い。止むを得ない事情だったと訴える。


 だが、彼女が引っ掛かったのはそこではなかった。


「そっちの方もそうだけど、今言った『剣闘士の一座』ってどういう意味? もしかしてデリックは危ない事をしてるんじゃないの? 姉さんは許さないわよ!」


 どうやら「剣闘士」の単語に反応したようである。


 言われて改めて気が付いたが、過保護な姉さんからすれば俺が怪我する事が耐えられないのだろう。それなら、怪我する事が当たり前の剣闘士はそれ自体があり得ない選択となる。下手をすると「デリックの代わりに姉さんが戦う」とか言い出しかね……って、これはさすがに飛躍しすぎか。


 盲点だった。これでは絶対に「もうすぐデビュー戦」とは言えない。黙っておかないと。


「まだ成人してないし、しているのは雑用ばかりだよ。人手不足だからいつも忙しいのが辛いけどね。ただ、今回みたいに他の町に遠征に来た時は手伝いが殆どだから、こうして姉さんとゆっくりする時間ができて良かったよ」


 これも嘘は言っていない。本当はデビューが決まっているから、他の雑用をこの町の裏方の人がやってくれているだけだったりする。お陰で今、俺の雑用は最低限で良い。


「なら安心したわ。もし、デリックが剣闘士をしていたらどうしようかと思ったけれど、確かにそうね。まだ成人していないんだから、心配する事はなかったわ」


 しばらくは無言で見詰め合っていたが、やがて納得したのか「ふぅ」と一息付いて安心した表情となる。


 行きがかり上の姉とは言え隠し事をするのは心苦しい。けれども、今正直に話すと、予想もできない事態が起こりそうだ。黙っておくのが無難と言える。試合の日は温泉旅行にでも行ってもらおう。この地域に温泉があるかは知らないが。


「そうね。そういう事なら頑張っているデリックを労うために今日はサウナにでも行きましょうか」


「姉さん、突然何を言い出すんですか?」


 温泉の存在は分からないが、サウナはあったらしい。



▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽


 湯気で曇る室内と肺に入る熱い空気。狭く密閉された空間。滴る汗。そして、木のベンチに腰を掛ける一組の男女。


 身には何も纏っていない。


「えっーと、せめて何か隠す物を」


「なに家族で恥ずかしがっているのよ」


「いや、姉さんの方に」


 その上、恥じらいの一つもなく堂々としている。腰に手を当て笑い出しても違和感がないほどだ。


 姉さんには悪いが、こうなるともう目が離せない。つんと上を向いた形の良いおっぱい。大きいと言える程ではないが、張りもあり形も整っている。なのにとても柔らかい。服の上から味わったあの時の感触が頭の中で蘇る。


「もう、胸ばかり見て。そんなに興味あるなら触ってみる?」


「是非お願い……ああ、嘘です。ごめんなさい」


 なんて強力な攻撃だろう。もう少しで罠に掛かる所だった。危ない。口が滑った瞬間、姉の眉がピクリと動くのが見えたので何とか引き返す事ができた。


 とは言え、こうも暑いとどこまで冷静でいられるか本気で心配になってくる。熱のこもった息遣いとか、本当に止めて欲しい。


 ここは地域の大衆浴場のような場所だと教えてくれる。しかも混浴が基本。冬の寒い日はいつもお客さんで一杯だそうだ。今はまだオフシーズンに近いが、それでも朝夕はごった返すのだとか……つまり今は完全に貸切り状態であり、他のお客さんはほぼ来ない。


 ……いかん。余計な事を考えると鼻血が出そうだ。


「昔は寒い時期によく来ていたのを思い出すわね。あの時はデリックがすぐに出て行こうとするから、百数えるまで頑張れたらお菓子を作ってあげるって言ってたのよね」


 姉さんの白く滑らかな肌に珠のような汗が浮き出してくる。その汗はやがて雫となり、重力に導かれて下へと滑り落ちていく。時に速く、時に速度を落とし。


「今はそんな事はないから心配しなくて良いよ。むしろ長く居たいかも。姉さんが綺麗だから目を離したくない……なーんてね」


 今は軽口でも叩いてないと持ちそうにない。それくらいヤバイ。


 上気した頬とトロンとした眼元。唇が艶っぽく光っている。鼻腔をくすぐる甘い匂いが興奮を誘う。髪が濡れ、身体に張り付いている姿というのはどうしてこんなにも色香を感じるのだろうか。


「うふふ。デリックも随分とお世辞が上手くなったわね。それじゃあ、背中を洗ってあげるから向こうを向きなさい」


「はいこれ。姉さん」


 そう言って渡す白樺を束ねた入浴用のはたき。


 こういうのがある事は知識としては知っていたが、実物は初めてだったのでさっきまで手に取って見たり触っていたりしていた。


「こうして見ると逞しくなったわね。まだ子供だと思っていたけど、そうでもないのかしら」


「なら、これからは姉さんも守れるね。何かあればいつでも言って」


 背中にそっと手が置かれ、撫でられる。やがて手は下り、脇腹にある怪我の跡辺りに。少しくすぐったいが、掌から伝わる感触には慈愛が込められている気がした。


 姉の想いを受け入れるかのように、身を任せてなすがままになる。


 そうこうする内、

 

「嬉しい事言ってくれるわね」


 そう小さく呟いたかと思うと、俺の背に心地良い重みが伝わってきた。姉さんがしなだれるように背中へと身体を預けてくる。


「ちょ、ちょっと姉さん」


「……少しこのままでいさせてくれる?」


 抗議の声を上げるがそれは叶わず。か細い声が耳元で囁かれた。


 訪れる静寂の時。


 背中越しに肌の暖かさが伝わってくる。何も言わないまま、姉の手は俺の腰の位置へ。後ろから抱きつかれる形となっていた。


「……カルメラ姉さん」


 実はずっと気になっていた。これまでの過剰なまでに感じていた姉の愛情表現が。勿論、再会の嬉しさはあったのだと思う。しかし、本当にそれだけの理由なのか? もしかしたら何か事情があるんじゃないか? それを考えていた。


 背中に感じる二つの多いなる愛に身を任せたい。突起のような感触をもっと味わっていたい。そうした邪な思いが頭の隅に残っているが、さっきの一言で絡まっていた結び目が解けたような気持ちとなってしまう。


「…………もしかして、何かあった?」


 どれほどの時間が経っただろうか。長い沈黙の後、頃合かと思い声を掛ける。


 きっとそういう事なのだろう。本来の性格もあるとは思うが、彼女の描く未来にはデリックがいないのだと。だからこそ生き急ぐかのように世話を焼き、思い出を作っていたのだろう。


 敢えて振り向いたりはしない。今はその顔を俺に見せたくないだろうしな。


「実はね。このまま父さんの怪我が治らないと、お姉ちゃん、売られるかもしれないの」


「……そんなに父さんの怪我は悪いの?」

 

「最初はすぐ治ると思っていたのだけど、もう二ヶ月になっても治らないの。今、ずっと仕事ができないで困っているの」


 内容的には衝撃ではあるが、物凄く当たり前の事だった。要は「父が怪我で仕事ができないから金がない」という意味である。この世界は労災も無ければ保証制度も無い。そのため、大きな怪我をした場合は即生活に困る。結果、蓄えを切り崩すか、借金して乗り切るしかない。


 当然、この流れなら、


「もしかして、借金に手を出してたりしている?」


「………………うん」


 それプラス変な所から借りていると見た方が良い。長期に渡って返済が滞っているなら話は別だが、この一、二ヶ月で姉が奴隷堕ちの心配をしないといけないのは普通ではない。そう。普通ではない相手だ。


 だからこそ、


「安心して良いよ。さっき言った『姉さんを守る』は本当の事だから」


「……馬鹿」


 えんゆかりもないごっこ家族。俺が首を突っ込むのは本来はお門違いである。それでも、目の前の家族には自分と同じ道は辿って欲しくない。


 今更ながら気付く。どうやら俺の中では、他人と言えないほど深く関わり過ぎていたようだ。

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